『学習まんが人物館 伊藤博文 日本初の内閣総理大臣』 小学館

学習まんが人物館 伊藤博文 日本初の内閣総理大臣
季武嘉也 監修
小学館
2017年12月11日 初版第1刷発行

 

かつて1000円札になっていた伊藤博文。歴史の勉強に、人物に焦点を当てて漫画で勉強。小学館のこのシリーズは、読みやすいしわかりやすい。

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表紙の裏には
”大変化を遂げた、日本の中にあって、伊藤はあたかもサーファーのように近代化と言う波の先端に立って、前方を見据え舵取りをしてきました。その姿は、前へ上と進む朝日そのものだったといえましょう。”
とある。

 

幕末から明治維新で活躍した伊藤博文は、木戸孝允西郷隆盛らよりちょっと若い。だからこそ、最後にのこった一人として明治政府で活躍を続ける。1963年から1986年まで、千円札に肖像が使われた伊藤博文。昭和世代にとっては、千円札といえば伊藤博文、って感じなんだけどね。平成生まれにとっては、歴史の古い人、って感じかな。

 

ポイントになるところ、覚書。

 

伊藤博文は、1841年、農民の子として、長州藩の農家に生まれた。

 

・1889年2月11日、明治天皇から第2代総理大臣、黒田清大日本帝国憲法が授けられた。この憲法を作る際に中心となったのが日本で最初の総理大臣、伊藤博文

 

・利助(後の伊藤博文)が6歳の時、父親の十蔵が莫大な負債を抱えてしまい、十蔵は一人で萩へいくこととなる。萩での仕事ぶりが認められた十蔵は、伊藤武兵衛と言う武士に見出され、養子縁組の話を持ちかけられる。ありがたくその話を受けた十蔵は、ようやく利助ら家族も萩によび、家族一緒の暮らしを取り戻す。そして利助の名前は、伊藤利助となる。

 

・その後利助は家計を助けるために武家の家へ奉公することとなる。また、母親のおじにあたる慶雲という和尚に学問をならい、武士に必要な知識を身に付けていく。

 

・1853年浦賀、ペリー来航。翌年に幕府はアメリカの圧力に押されて、日米和親条約を結ぶ。そんな中1857年、利助は三浦半島の守りのための防備隊に志願し、三浦半島へ行くことになる。そこでは測量や下働きで過酷な環境だったが真面目に仕事をしていた利助は、その報告書の見事な仕事ぶりに、隊長の来原良蔵に目をかけられるようになる。
 そして長州へ帰る日、来原から松下村塾への紹介状を渡される。それが吉田松陰との出会いとなる。その頃に利助がであったのが、久坂玄瑞山県有朋、伊藤聞多(後の馨)たち。

 

・1858年アメリカの総領事ハリスの強引な要求に対し、日本は日米修好通商条約を結ぶ。これは江戸幕府大老井伊直弼天皇の許しを得ずに勝手に調印したもの。日米修好通商条約は、関税自主権がない、領事裁判権がないなど不平等な条約で、人々の不満は高まる。
さらに、井伊は将軍家定の跡継ぎも、勝手に慶福(後の家茂)と決めてしまう。そしてそれに対する不満が高まり、尊王攘夷の活動が盛んになってくる。この動きを抑えるために、井伊は攘夷派の藩士、活動家、思想家を、徹底的に処罰した。それが安政の大獄

安政の大獄で、吉田松陰も投獄され、処刑される。吉田松陰の遺体は、桂小五郎と伊藤によって回向院に埋葬された。

 

井伊直弼への恨みをはらしたのは、水戸の浪士だった。1860年3月3日、桜田門外の変にて、井伊直弼は暗殺された。
 大老と言う将軍に次ぐ役職を失った幕府は、力を失う。それに乗じて、薩摩藩水戸藩の攘夷派が、襲撃事件を相次いで起こす。伊藤は、襲撃事件の1つ、品川の御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちに参加している。伊藤もテロリストのひとりのような活動をしていた時代があるということ。

 

1863年、西洋の事を学ぶため、長州藩から選ばれた伊藤らは、下関から上海経由でイギリスへ向けて出航。ロンドンの様子を見た伊藤は、イギリスは戦ってはいけない相手であることを認識する。そして、西洋の知識や技術を国に持ち帰るために勉強した。伊藤らが海外にいる間に日本では下関事件が起きる。長州藩が下関を通過する外国の商船を砲撃し、それの仕返しに、アメリカやフランスから攻撃され、長州の砲台は全て破壊されてしまう。

下関事件のことを知った伊藤と井上は、長州の危機を回避するために急いで日本に帰国する。ところが続いて、長州は禁門の変を起こして京を追われる。長州に怒った朝廷は、幕府に長州征討の勅令を出す。それが第一次長州征討

そして、その後がわかりにくいのだが、長州藩の中でも、幕府への恭順指針を示す保守派が、長州の攘夷派3名を処刑したことで、第一次長州征討は終了する。それに黙っていないのが、高杉晋作や伊藤だった。高杉晋作は、武士や農民、町人などで作った長州藩の戦闘部隊である奇兵隊を率いて、藩の中でクーデターを起こす。

幕末の話がややこしいのは、藩の中でも方針が揺れ動くこと。今回の漫画で、その辺りが少しすっきりとしてきた。桂小五郎の話と合わせて勉強になった。

 

長州藩は開国倒幕派となっていき、坂本龍馬の仲介で薩摩藩薩長同盟を結ぶこととなる。薩長同盟の後に起こった第二次長州征討では、長州は薩摩から入手した最新式の武器で幕府軍を迎え撃ち、優勢に。そんな中で、徳川家茂の死去により第二次長州征討はうやむやに終わりを迎えることとなる。

 

・その頃、攘夷派だった孝明天皇が亡くなり、明治天皇が即位。薩長や公卿たちによる倒幕ムードが最高潮に高まる中、1867年、大政奉還となる。幕府の権限をことごとく取り上げるために、倒幕派王政復古の大号令で、朝廷に政権が戻ったことを天皇から公家や大名たちに宣言した。

 

・新政府の中心は、岩倉具視大隈重信大久保利通板垣退助木戸孝允三条実美らだった。伊藤はその英語力を買われて、外国事務係として開港したばかりの兵庫で、外国6カ国の対応を任された。その頃の伊藤は、長州藩ではなく、国に尽くすと言う気持ちに変わっていた。

 

・その後、1868年鳥羽伏見の戦い。新政府軍の圧倒的武力の前に、旧幕府軍徳川慶喜は撤退。

 

・京都では、新政府が「五箇条の御誓文」と言う新政府の基本方針を発表。

 

・内乱が続く日本の状況を見て伊藤は、木戸に廃藩置県を提案する。政府は廃藩置県の元となる版籍奉還を行う。

 

・伊藤は、次に工部省の大輔になり、鉄道の建設を提案するなどして活躍。

 

1871年岩倉使節団の1人としてアメリカに向かう。サンフランシスコ到着後、伊藤は英語でスピーチを行った。日本人ではじめての英語のスピーチと言われている。その後一行はアメリカ横断して条約改正の交渉すべくホワイトハウスのあるワシントンに向かう。しかし国書を持っていなかったので門前払いを受けてしまう。その後ヨーロッパへ渡り、イギリスのビクトリア女王と謁見、ドイツではビスマルクと会談する。

 

・帰国した頃、日本では朝鮮派遣問題、征韓論をめぐって政府が対立していた。征韓論を推し進める西郷隆盛板垣退助に対して、今は内地の充実が先決だとする大久保や木戸は、なんとか派兵を止めようとする。岩倉や伊藤も派兵に反対。結局西郷を始め、朝鮮派兵を主張する参議は一斉に辞職していく。

 

・これを機に、大久保利通を中心とする新政府が発足。富国強兵、殖産興業に力を入れていくこととなる。その時、伊藤は参議兼工部卿として大久保を支える。

 

・そんななか、西南戦争西郷隆盛が挙兵。木戸は、西南戦争中に病死。ほどなくして、西南戦争は、西郷隆盛の自害により幕を閉じる。新政府にも平穏な時が訪れたかと思った矢先、1878年5月14日大久保利通が石川県の不平士族たちにより襲撃され殺害される。

 

伊藤博文は、木戸、大久保、西郷らの遺志を継いで、政界のトップへとのぼりつめていく。

 

1881年、10年後の1890年に国会が開催される命令がだされる。

 

・1882年、伊藤は憲法調査のため、ヨーロッパにわたる。議会は陛下を頂点として構成し、公平を期するために二院制とするべきと考えた。でもそうできたとしても、選挙によって議員が選ばれる衆議院貴族院を数で圧倒するのは火を見るより明らか。その抑止力となり得る憲法が必要だと考えた。


1885年、内閣制度をつくり、自ら初代内閣総理大臣となる。

 

1888年日本国憲法が完成する。
 伊藤の作った憲法草案は、天皇陛下の隣席の下枢密院で審議され、明治天皇によって可決された。

 

1889年2月11日憲法発布式典が行われ、明治天皇から黒田清隆首相に大国日本帝国憲法が授けられた。これが、日本の立憲国家への道の第一歩、近代国家の仲間入りの第一歩を踏み出すこととなる。

 

伊藤博文は、1892年に2度目の総理大臣に就任すると、陸奥宗光外務大臣に抜擢し、条約改正に当たらせた。陸奥は、1894年にイギリスの領事裁判権の撤廃に応じさせることに成功。その後も条約改正の努力は続けられ、1911年には関税自主権を取り戻した。

 

憲法も整い近代化も進んだ。日本は海外に目を向け始める。しかしそれは戦争と言う大きなうねりの中に飲み込まれていくことでもあった。

 

・1894年 日清戦争、日本勝利

 

・1904年 日露戦争、日本勝利

 

・伊藤は韓国併合には反対派であったが、韓国統監府のポストとして大陸に渡る。そして、満州朝鮮の問題に関して、ロシア蔵相ウラジミールと会談するために赴いたハルビンで韓国人活動家に暗殺される。
伊藤の家は、船で日本に運ばれ、国葬が行われた。


”現在の私たちの生活は、伊藤博文の成し遂げた、数々の業績の上に成り立っていると言える。”と、締めくくられていた。

 

一緒に開国に向けて取り組んできた先輩たちが次々と死んでしまう中、一人でみんなの遺志を背負って活躍した伊藤博文。若いころには、無茶もしたけれど、国葬が行われるほど人々から尊敬されていた、ということなんだろう。

 

やっぱり、この時代のキーマンのひとりに違いない。もしも、伊藤博文ハルビンで暗殺されていなかったら、日本はそのまま太平洋戦争に突き進んでいなかった、、なんてことはなかったか、、、なんて思ってしまう。歴史のたらればをいってもしかたがないけれど、やっぱり惜しい人を亡くした、、んだな。


ちなみに、『対決!日本史3』のなかで、伊藤博文を暗殺した安重根のことは、韓国の歴史教科書では扱いが小さいとの話しがでていた。殺すなら天皇のような大物を、、、という事らしい。怖い怖い。

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どこの国も、教科書というのは多かれ少なかれ、自国目線。日本の教科書だけ読んでもわからない史実がたくさんある。やはり、歴史、社会を一つの視点だけから観るのは危険だ。こうして、人物に焦点をあてた本を読んでいても、人によって同じ事件のとらえ方が違うのだということがわかる。だからこそ、ただの事件の羅列だとストーリーが見えてこない。

改めて、人物に焦点をあてた本というのは、読みやすいということがよくわかった。どうりで児童書に伝記が多いわけだ。

 

これもまた、なかなか勉強になる一冊だった。

このシリーズ、歴史の復習にもお薦め。