『将軍の世紀 下巻』by 山内昌之 (その2)

将軍の世紀 下巻
家慶の黒船来航から慶喜大政奉還まで わずか14年で徳川の世は瓦解(がかい)した
山内昌之
文藝春秋
2023年4月30日 第一刷発行

 

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昨日の続き。

 

目次
第9章 家慶

第10章 家定

第11章 家茂

第12章 慶喜

 

下巻も、モリモリの内容。水戸の徳川斉昭によって、混乱に陥った幕府。結局、政治をダメにするのは、ひとなのだ、、、。誰かひとりの賢者がいたところで止めることのできない流れがある。人口が増えれば増えるほど、小さなさざ波が大きな波となり、社会全体に影響するということだろうか。国内が身内の混乱に陥っている間に、海外の大きな流れに飲み込まれていった江戸末期ということ。混乱した中で、だれもトップに立ちたくないというのは、いつの時代も同じか。安定と不安定は繰り返す。そんな気がした。江戸幕府の終焉は、国内外の環境変化ということであり、次の時代への通り道。新しいことを始めるには、今を一度やめないといけない。そして、時代が人を「人物」にする。事をなす人が登場するのは、時代の流れも大きい。いや、、、時代が「人物」を作るのかもしれない。。。

 

下巻も内容ふんだんすぎて要約しきれないので、気になったところを覚書。

 

天保の改革:老中水野忠邦が老中首座になった1841年から1843年のおよそ2年間行われた改革。株仲間の解散は、物価安定のための自由経済を目指す目的だったと思われるが、結果的には混乱しか生まなかった。

 

「遠山の金さん」遠山景元。北町奉行。物わかりのよい面が人気だった。

 

天保の改革では、江戸の町整備も進んだ。当然、色をひさぐ輩も。色に走らないように、水茶屋などで若い女の雇が禁じられた。しかし、「50歳以上の女ハ御構いなし」とされていたとのこと。。。なんと明け透けな、、、。・50歳以上の女は、色なしか?!?!
まぁ、江戸時代の50歳というと、現代の80歳か?!でも、女だけど、、、、。

 

・水戸の斉昭は、大した決断をできなかった。安部正弘があえて意見を求めても、結論らしき言葉はでてこない。「御大切に」「衆評の上ご決断」などの言葉ばかりだった。それは、”一貫して政策対応力の低さ”があらわれている、、、と。それでも、存在感の大きい斉昭によって、幕府はより泥沼の混乱へと陥っていく。

 

・江戸時代の政策上の対立。斉昭と直弼の対立、徳川綱吉酒井忠清の対立、徳川吉宗尾張・徳川宗治の対立、田沼意次松平定信の対立。しかし、斉昭と直弼の対立は、際立ってもつれていた。

 

・中国文学の王倫と秦檜(しんかい)。王倫は、狭量な性格で何の実力も理想もなく、ただ官憲の追求から逃れ、梁山泊の首領たる地位の守護に汲々とする人物。秦檜は、権力保持のために敵国・金の外交圧力を背景に恐怖政治を敷き、忠臣・岳飛を罪に落として後世に売国奴の代名詞となり、誰からもさげすまれた政治か。この二人を井伊直弼になぞらえる事がある。井伊直弼は、そんなにひどいやつなのか、、、やっぱり。

 

・直弼は、安政の大獄を実行。自分の権力を脅かす人を政敵とみなして排除していった。そして、最後は桜田門外の変水戸藩士に刺されて死亡。しかし、島津斉彬が7月に急死していなければ、事情はかわっていたかもしれない、というのが著者のみたて。なぜなら、死亡する前、5千の藩兵で率兵上京する予定があったから。上京していれば、薩摩・尾張・土佐の初版と一緒に、彦根城(井伊)を落としていたかもしれない。
 桜田門外の変安政7年3月3日(1860年3月24日)
 島津斉彬急死:安政5年7月16日 (1858年8月24日)

 

・斉昭は、天皇・朝廷を尊崇するあまり、将軍・公儀の権力意思について身内の甘えでたかをくくる面があった。

 

徳川慶篤(よしとく・慶喜の実兄)は、家臣の水戸藩士たちが暗殺・テロをしかねないと井伊直弼に知らせて、警戒を促していた。しかも、再三にわたって。優柔不断な慶篤だったけれど、水戸藩士がテロを起こすことは望んでいなかった。


坂本龍馬は、井伊直弼の暗殺者たちを「志士」と絶賛した。(by ハワイ大学のマクナリー)

 

生麦事件文久2年(1862年)8月21日、島津久光の行列に無礼を働いたとしてリチャードソンが薩摩藩士に切られて死んだ。しかし島津久光は、兄・斉彬と同じく開国論者であり、尊攘激派ではなかった。だのに、なぜこのような事件となったのか。しかも、事件のあとも、一隊はそこにとどまることなく、西に向けて帰っていった。この事件については、あまり詳細な証言が残っていない。関与した家のものが、明治以降に英国人斬りの過去を隠秘したかったのではないか、、、と。

 

・家茂は、家光以来229年ぶりに上洛する。天皇は、家茂をなかなか江戸にかえそうとしなかった。京でも江戸でも、幕府の方針は宙ぶらりんだった。

 

竜頭蛇尾」(りゅうとうだび):初めは勢いが盛んで、終わりはふるわないこと。上巻も下巻も、かなりの回数「竜頭蛇尾」に終わった幕府の計画がでてくる。まぁ、世の中多くの取り組みは、竜頭蛇尾か。。。。しかし、江戸時代に特徴的なのは、その計画がしりつぼみで終わるのは、暗殺によることがおおい、ということだろう。

 

・幕末に江戸幕府が幕府権力の起死回生を掛けたものの竜頭蛇尾に終わった計画は4つ。
 小笠原図書頭率兵上京、8・18の政変、禁門の変、長州征討。

 

慶喜は、島津久光が大嫌いだった。

 

長州藩は、8・18の政変から長州戦争までの悲劇で不幸のどん底におとされたのか?いや、そうでもない。だから、次の勢力が勃興した。そんな様子に古代ギリシアの格言が引用。
 「人間が苦しめられるのは、物事そのものではなく、その物事に抱く考えによって苦しめられる」
 考え方次第、、、ってこと。

 

慶喜は、長州に戦争責任をなすりつけようとした。

 

禁門の変のころ、桂小五郎が何をしていたかは、資料によって書かれ方が異なる。因州藩は、かくまったのかいなか?!どこかに逃げていたのはまちがいない。

 

・長州征討の失敗の一つに、計画撤回もあった。宿駅では必死に飯米70石を用意したが、出発延期、次いで中止となって、せっかくの白米がむだになってしまった。みんな気分も疲労困憊。。。食べものが無駄になることにがっかりするのは、現代人も江戸人も一緒。

 

・黒船来航の頃、世界中が世界と外交のつながりを持っていたのに、もはや日本だけが鎖国というのはあり得ない選択だった。家茂は、徹底攘夷に執着する天皇に、諫言をしたこともあった。

 

・家茂は、もともと身体が弱かった。だのに、幼少時から西洋医学にこだわり、漢方を拒否した。それは、家茂が、西洋医学こそ日本と徳川の再生の象徴とかんがえていたからではないか?と。

 

徳川家茂は、書も美しかった。本書中に、家茂の書の写真が掲載されている。確かに、美しい。

 

孝明天皇の急逝は、慶喜はじめ幕府勢力に不利に働いた。かつ、薩長らの倒幕勢力に起死回生の結果となった。孝明天皇が生きていたら、鳥羽伏見の戦いもおこらず、王政復古も平和裏に実現したかもしれない、、、と、渋沢栄一の言。


そして、江戸時代は幕を閉じる。それは、あらたな混乱の始まりでもあった。 

 

ここまで詳しく江戸時代を通史として読んだのは、初めて。家斉の50年続いた大御所時代は、教科書ではあまり出てこない。こどもを55人もつくった将軍、贅沢三昧で江戸幕府の終焉へのきっかけをつくった将軍。水戸の徳川斉昭が、能力もないのに大きな影響力で幕府を混乱に陥れた。井伊直弼田沼意次は教科書上では「悪影響」を及ぼしたひととして表現されることが多いけれど、いやいや、ほかにもヘンテコ将軍、大名はたくさんいたのだ。

 

混乱があったからこその、飛躍。V字回復は、世の流れ。そんな気がした。だからこそ、『夜明け前』なのだ。島崎藤村の名作のタイトルが、『夜明け前』であることの意味深さに気づかされた。今、『夜明け前』を読み直したら、新たな気づきがあるかも、という気がする。歴史は、深い。。。

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『将軍の世紀』立派な上下二巻。いつかもう一度、じっくり読んでもいいかな、って思った。

 

歴史はどこまでも深い・・・・。

そして、読書は楽しい。