『学習まんが人物館 木戸孝允(桂小五郎)』 小学館

学習まんが人物館 木戸孝允(桂小五郎
落合弘樹 明治大学文学部教授 監修
坂倉彩子 まんが
小学館
2018年4月16日 初版第一刷発行

 

日本史の勉強をしていても、どうにもスッキリしないのが幕末から明治維新にかけての動き。現在、日経新聞朝刊で連載中の『陥穽(かんせい) 陸奥宗光(むつむねみつ)の青春』で、このところ桂小五郎がよくでてくるのだが、で、桂小五郎って?なんで重要人物何だっけ??っていうのが、私の日本史の理解度・・・。桂小五郎は、後の木戸孝允のことなんだけど、幕末の三傑のひとりというけど、、、西郷どんや大久保ほどなんかメジャーじゃないし・・・。

これは、もう、全国通訳案内士の日本史試験対策ということより、もっと基礎から学ばないとだめだ、、、と思って、図書館で「木戸孝允」で検索してみた。その場で出てきたのは、児童書。いますぐ読みたかったので、児童書のコーナーに行って、探してみた。そしたら、意外と充実しているじゃないか!日本の歴史のまんが本。よし、これで勉強しよう!所詮私の知識は、小学生以下だ。難しい本より、こっちがいい!!

 

ということで、読んでみた。
とても分かりやすく、これはいい。流石に、1時間もかからずに読める!これは、ハマるかも。。。

 

で、木戸孝允、幕末についての覚書。

 

桂小五郎は、1833年6月26日、長州藩萩で和田家(藩医の家)に生まれた。8歳の時に、桂家(藩士)に養子にだされ、武士の子となる。ところが、1年後に桂が亡くなり、再び和田家に戻る。

 

桂小五郎は、長州藩主・毛利敬親がたてた藩校:明倫館で学ぶ。明倫館で、吉田大二郎(のちの吉田松陰)に出合い、尊王攘夷の教えを聞かされる。

 

桂小五郎は、1852年(20歳)、剣術を学ぶために江戸にでる。練兵館で剣術を磨き一年後には塾頭となる。そのころ、江戸にでてきていた吉田松陰に、アヘン戦争をはじめ、海外では侵略戦争がたくさん起きていることを聞かされる。その数日後、1853年6月3日、ペリー来航!

 

・同じころ、千葉道場(北辰一刀流)塾長の坂本龍馬を街で見かけるようになる。

 

・ペリー来航以降、幕府は品川に台場をつくることを計画。小五郎は、その現場測量に参加することを願い出て、測量、砲台築造、西洋兵学などを学ぶ。

 

1854年1月、ペリーがふたたび来航。この時、吉田松陰は黒船に乗り込んで密航しようとするが失敗して投獄。萩に送り返された吉田松陰は、松下村塾をつくり、尊王攘夷の教えを高杉晋作久坂玄瑞らに教え込む。

 

・1858年、井伊直弼が、不平等条約である日米修好通商条約天皇の許可なしに勝手に結ぶ。続いて、同様な条約を、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ぶ。(安政の五カ国条約)

 

井伊直弼は、勝手に、14代将軍を徳川慶福徳川家茂)に決めてしまう。井伊の勝手な行動に怒った志士たちは、井伊を大老からやめさせようとするが、それらの声を押さえつけるために井伊は安政の大獄の粛清を始める。1859年5月、吉田松陰も反乱の疑いで取り調べのために江戸へ。同年10月、桂小五郎は再び江戸勤務に。その際に同行したのが、伊藤利助(伊藤博文)。その10月27日、小五郎ら長州藩士の師であった吉田松陰は、処刑される。

 

1860年桜田門外の変井伊直弼は、水戸浪士の襲撃で死亡。ボロボロになった幕府は、老中・安藤信正を中心に、公武合体政策をとることに。孝明天皇の妹、和宮が家茂と結婚。

 

桂小五郎は、藩の渉外担当となり、長州藩を強くしつつ、日本を強くすることを考える。長州藩として公武合体と、航海遠略策(外国との貿易で国力を強くして、諸外国と対抗する)を支持。

 

1862年坂下門外の変安藤信正が水戸脱藩浪人(公武合体反対派)に襲われ、老中の地位をおろされる。長州藩の「公武合体と、航海遠略策」も、しりすぼみに、、、。
長州藩は、藩独自の攘夷から「奉勅攘夷」(帝の勅命により攘夷を行う)に、方向転換。

 

1863年、小五郎の「奉勅攘夷」方針にもかかわらず、久坂玄瑞ら過激攘夷派が、勝手にアメリカ商船を攻撃。フランスやオランダの船にも攻撃。その後、長州は外国から攻撃されて、下関砲台は、全滅する。(下関事件


長州藩は幕末は過激な「攘夷運動」を行って、とうとう朝廷からも嫌われ、8月18日の政変で、京都からも追い出されてしまう。長州とべったりだった尊攘派公卿・三条実美も、京都から追放される。小五郎は、こっそり隠れて京に残って倒幕活動をつづけた。

 

・8月18日の政変以降、長州藩士は、薩摩、会津を徹底的に憎むようになる。
 
1864年6月5日、強硬攘夷をすすめようとする長州と土佐の浪士は、池田屋で会合を持つ。そこを襲ったのが、新選組(近藤勇土方歳三ら)。池田屋事件。その際、小五郎は同じ京都三条にいたけれど対馬藩邸にいて、難をのがれた。

 

長州藩新選組に襲われたことに憤った久坂玄瑞真木和泉来島又兵衛らは、京に挙兵。会津をケチらそうと、「禁門(蛤御門)の変」。長州は、西郷隆盛らに「朝敵」とされる。長州は、再び京を追われる。

 

・小五郎は、「池田屋事件」、「禁門(蛤御門)の変」も、生きのびる。逃げて、逃げて、なんとか日本のために働けないかと考え続けた。長州人としては京を追われた身なので、但馬で潜伏生活をすることに。

 

・長州は、藩としてはボロボロに、、、、。長州のリーダーには、小五郎が必要だ!ということで、小五郎は再び長州へ帰る。

 

・1865年、坂本龍馬の仲介で、桂小五郎西郷隆盛が話し合い薩長同盟成立。小五郎は、「これで幕府を倒せる!」と確信する。このころ、小五郎は藩から「木戸」という姓をもらって、「木戸寛治」と改名。のちに、木戸孝允、と名乗るようになる。
 ・薩長同盟の中身
  薩摩がイギリスから買った武器 → 長州に売る
  長州の取れる米や兵糧 → 武器の代金として薩摩に送る

 

薩長同盟で大量の武器を手に入れた長州藩は、第二次長州征討で幕府軍に圧勝。幕府は、長州一藩さえ抑えられないほどに弱体化。家茂急死で、慶喜が第15代将軍に。

 

薩長連合の強さを認めた幕府は、1867年大政奉還。260年以上続いた江戸幕府の終わり。

 

王政復古の大号令天皇中心の新政府をつくることを宣言。新政府は、徳川から領地と官職をとりあげ、追い詰めていく。

 

・新政府のやり方に不満を持つ旧幕府軍が挙兵。鳥羽・伏見の戦いとして始まり、1年以上にわたる戊辰戦争が勃発。1869年5月、函館戦争で榎本武揚が降伏して戊辰戦争終結

 

木戸孝允は、岩倉具視(公卿)、西郷隆盛大久保利通らと、政府の中心人物になり、版籍奉還廃藩置県を実行。各藩からの猛反発を喰らうも、改革をすすめる。

 

1871年岩倉使節団が外国へ出発。岩倉具視木戸孝允大久保利通伊藤博文山口尚芳らが参加。

 

1873年木戸孝允は帰国。朝鮮出兵を巡って、西郷隆盛らと対立。大久保も木戸と一緒に、西郷案を否定。朝鮮出兵派だった西郷らは、新政府から辞職。不平士族が各地で反乱をおこす。1877年に薩摩で西郷が起こしたのが「西南戦争」。西南戦争のさなか、木戸孝允は、病に倒れる。「西郷よ、、、いいかげんにせんか、、、」との言葉を残して。享年45歳、京で死亡。


・監修の落合さんの言葉。
”小五郎は、たくさんの敵に命を狙われながらも、長州が力を取り戻し、新しい日本を創るという目的のために、それこそ泥水をのむような覚悟で生きのびたということでしょう。”


おぉ、だいぶ、幕末が頭の中で整理された!!!

吉田松陰なんてテロリスト、っていうのもわかる気がする。たしか、『ドーダの近代史』にそうでてきたするのだけれど、、、記憶は定かでない。

megureca.hatenablog.com

 

ちょっと、幕末が頭の中ですっきりした。

他も、読んでみよう!!