『コミック版、日本の歴史47 空海 平安人物伝』

空海 平安人物伝
コミック版、日本の歴史47
監修 加来耕三
ポプラ社
2015年8月 第1刷

 

歴史の勉強に、真言宗の開祖、空海について。

 

空海は、讃岐の豪族である佐伯氏に生まれる。幼名は真魚(まお)。遣唐使で唐に渡り、恵果に出会って、密教を修める。高野山金剛峯寺を建立し、東寺(教王護国寺)を真言道場とした。土木技術や書にも優れ、書は嵯峨天皇橘逸勢と共に三筆と称される。大師号は弘法大師

 

本書は、空海が、子供の頃の話から始まる。空海の叔父、阿刀大足(あとのおおたり)は、桓武天皇の息子である伊与親王の侍講であり、学者だった。大足は、幼いころから空海の才能を見出し、学問をおしえ、大学寮に入学させる。しかし、空海は大学寮での勉強には満足できず、「人とは何か?」「なぜ生まれ、なぜ死ぬのか?」と言うことを考えるようになる。そして空海は、大学寮を途中でやめて、私度僧となって修行に励むことにした。百万回の虚空蔵菩薩真言を唱える厳しい修行に出る。そして、あまりの苦行に諦めそうになりながらも百万回唱えた時、明けの明星が光り、空海の口に飛びこんできた。虚空蔵菩薩を悟ったと感じた瞬間だった。

 

勝手に大学寮を辞めた空海に腹を立てる大足だったが、空海の熱意に押され、密教を学ぶために唐に渡れるように、空海が官僧となる手続きをとってくれる。

この時、大足を説得するために空海が書いたのが、仏教の教えを小説ふうに書いてわかりやすく書いた三教指帰


そして804年、空海は、橘逸勢とともに遣唐使船にて唐に渡る。空海たちが乗った船は度々嵐にあい、漂流して唐の福州、赤岸鎮に流れ着いた。やっとのことで唐にたどり着いたものの島の役人の言葉がわからず、海賊と疑われ、なかなか入国させてもらえなかった。そこで空海が「嘆願書」を書く。唐に渡るためにあらかじめ唐の言葉を学んでいた空海は、唐の文字で嘆願書を書き、それを見た唐の役人は、「これほどの書をたしなむものは正式な使節団に違いない」と考え、空海たちを入国を許可した。


空海は、長安に向かい、密教の大家、青龍寺の恵果に教えを請いに行くつもりだった。しかし、空海はいきなり恵果を訪ねたのではなく、その前に、密教の経典を読むのに必要なサンスクリット語梵語を徹底的に学んでいった。

 

何事も準備をするということが大事だし、外国語を学ぶということが当時いかに大事だったかということがわかる。また、字がきれいだったと言うことも、特筆すべきことなのだろうと思う。

 

やっぱり字が綺麗なことって、信頼されやすい。

また、きれいな字で書かれたものは読みやすいので、読んでもらえる。現在のように、ワープロと印刷じゃない時代、直筆の文字が美しいと言う事は、人として何かを成し遂げるには大切なことだったのだろう。語学、美しい字を武器にした人は歴史上いっぱいいる。

 

唐で密教を学んだ空海は、本来であれば、20年かかるはずの留学期間を、約2年間で終え、日本からの使いの船が来たタイミングで、橘逸勢とともに帰国することとなる。

 

空海は、20年の留学費用としての準備金をほぼ1年余りで使い切る。この短期集中型だったからこそ、空海は、自分で再考のタイミングをつかみ、人生を切り開いていくことができたのだ。恵果は、空海が尋ねて1年半後には亡くなっている。また、遣唐使もその後中止されているので、大学寮をやめるタイミングが遅ければ、唐に渡るチャンスすら逸していたかもしれないのだ。タイミングって、大事。

 

帰国してからの空海は、嵯峨天皇の支援を受けながら高野山金剛峯寺を建立する。そして東寺(教王護国寺)。日本で最初の一般庶民向けの学校と言われる、綜芸種智院をつくる。同じころ密教の教えを説いた『十住心論』や、梵語の解説書など多くの書を残した。

空海は、最後、金剛峯寺にて「私はまもなく入定する。」「色即是空。この世に終わりの混むものなどない」、と弟子たちに告げると、しだいに食事を絶ち、やがて水も口にしなくなった。835年3月21日、目を閉じると二度と開かなかった。

 

高野山では現在でも、奥の院にいる空海への食事を運ぶ僧侶の姿が見られる。

 

高野山奥の院。日本の中で、あれほどまでに空気が変わる場所を、私は経験したことがない。高野山へ行ったのは、もう10年くらい前だと思うけれど、その時には空海のことをそんなによくわかっていなかった。でも、奥の院に向かう道を歩き始めて、これまでに感じたことのない空気を感じた。改めて、空海ってすごい人だったんだ、、と思う。

 

四国八十八か所霊場に、お遍路に行こうと思ったことはないけれど、ちょっとくらい、いってみてもいいかな、、、という気もしてきた。

 

ついでだから、霊場巡りについても覚書。
霊場巡りの4つの段階。


① 「発心」の道場
 悟りを得ようと決心し、遍路をはじめること。発心道場は阿波国徳島県)、1~23番札所。発願の寺、一番札所は、霊山寺


② 「修行」の道場
 土佐国(高知県)24~39番。険しい山道や海岸をつたう難所。


③ 「菩提」の道場
 煩悩を断ち切り、私心を捨てて、悟りに達する菩提。40~65番。伊予の国(愛知県)


④ 「涅槃」の道場
 66~88番。讃岐の国(香川県
 空海の生まれ故郷である讃岐までくれば、仏教における理想の境地にちかいのかもしれない。ご誕生所は、善通寺。 

 

旅にでたくなる・・・・。

 

空海と同時代、密教を広めた最澄は、天台宗の開祖空海と同時期に唐に渡って、空海より早くに帰国していたようだ。あとから帰国した空海の持ち帰った密教の教えに、自分も空海から密教を教えてもらいたいと思うほどだった。最初は、経典を貸していた空海だったけれど、ある一つの経典、「理趣釈教(りしゅしゃくきょう)」は、読み間違えると大変なことになるからといって、その経典を貸さなかった。そのことがもとで、最澄空海に腹をたて、以降、二人が合うことはなかったらしい。

 

空海のことをきちんと覚えれば、最澄の話と間違えない。お話として楽しいのは、やっぱり空海なんだな。

 

日本のあちこちに、空海のゆかりの地、寺がある。京都高雄山の神護寺空海霊場。交通の便がそんなに良い場所ではないので、行ったことがないのだけれど、いつか行ってみたい場所の一つ。松尾芭蕉の旅を追うのも面白そうだけれど、空海の道のりを追うのも楽しいかもしれない。老後の楽しみか。。。、

 

歴史を勉強していると、どんどん行きたいところが増えてくる・・・。暑さが落ち着いたら、旅に出よう。