父の詫び状
向田邦子
文春文庫
2006年2月10日 新装版第一刷
2007年5月15日 第四版
向田邦子さんの『父の詫び状』。頭木弘樹さんの『絶望名言』の向田邦子さんの話しの中で紹介されていた本。
そこで『父の詫び状』の「あとがき」からの引用で紹介されていた、向田さんの言葉は、
”厄介な病気を背負い込んだ人間にとって、一番欲しいのは「普通」ということである。”
”誰に宛てるともつかない、のんきな遺言状を書いて置こうかな、という気持ちもどこかにあった。”
というもの。
本書のあとがきに、これらの言葉の背景の説明があった。昭和53年10月にかかれたあとがきには、「乳癌」をわずらい、輸血が原因で血清肝炎になり、手を動かさないと傷口が固まってしまう時期に絶対安静となって、右手がまったく利かなくなってしまったこと。ひどい時には、水道の栓をひねることも、字をかくこともできなかったのだ、、と。物書きが字を書けないなんて。昭和53年だ。まだ、ワープロだって普及していない時代。そして、初めてのエッセイの仕事は、向田さんの病気のことを知らない「銀座百点」の人からの隔月連載で短いものをかいてみないか、という依頼がきっかけだったとのこと。病気のことは知らずに、依頼したらしい。そして、
”誰に宛てるともつかない、のんきな遺言状を書いて置こうかな、という気持ちもどこかにあった。”で、かいてみることにしたのだと。
そして、気が付けば二年半にわたって書かれ、一冊の本となることになった。それが『父の詫び状』の誕生秘話。
向田邦子さんは、昭和4年(1929年)東京生まれ。実践女子専門学校国語科卒業。映画雑誌編集記者を経て放送作家となりラジオ・テレビで活躍。昭和55年にはじめての短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞し、作家活動に入ったが、56年8月、航空機事故で急逝。
53年に病気を克服しつつも「遺言のつもり」といって本書を完成させ、56年に事故で亡くなってしまうなんて、、、。52歳、なんと今の私より若くして亡くなっているのだ。
と、そんな東京生まれの向田さんのエッセイ集の最初のエッセイが本書のタイトル通り「父の詫び状」
エッセイの中で、向田さんはご自身のこともたくさん書いているが、父親、母親、祖母のこともたくさんでてくる。なかでも父親のことが多い。向田さんのお父さんは、幼いころは家庭に恵まれず、貧しく、寂しく育った。その反動で、結婚してからは暴君だったのだ。暴力はないけれど、態度は威張り腐っている。お父さんは、めったなことでは謝らないし、褒めたりもしなかった。でも、昭和初期の家庭なんて、多かれ少なかれ、父親が格別に偉い、って、どこでもそうだったのではないだろうか。
そのお父さんのことを、面白おかしく書いている。かつ、結局自分も父親に似ているのだ、と。
邦子さんは、一時、父親の転勤先の仙台に同行せずに、東京の祖母の家に残って学校にいっていたことがあった。長い休みになると、仙台へいってすごした。そのお父さんが酔っぱらった挙句の粗相に、お母さんや邦子さんが後始末をしたって、「悪いな」とか「すまない」の言葉もない。ある夜も、お父さんは酔っぱらって会社の人を連れて帰ってきた。そして、朝になると、客が粗相した吐しゃ物で玄関が悲惨なことに・・・。それを片づけている母親が悲しく、「私がやる」といって片づけをした邦子さん。起きてきたお父さんは、何も言わずにただ、その片付けの様子をみていた・・・。そして、数日後に東京に帰った邦子さん。仙台駅まで送ってくれた時も、「じゃぁ」というだけで、ブスッとした顔のお父さん。
でも、東京についたら手紙が来ていていつもより改まった文面で、しっかり勉強するようにと書いてあった。そして、「この度は格別の御働き」という一行があり、そこだけ朱筆で傍線がひかれてあった。「それが、父の詫び状であった。」と。
まぁ、このお父さんの話に至るまでも、伊勢海老が玄関を徘徊したはなしやら、靴の脱ぎ方のはなしやら、話題は二転三転するのだが、短い文章の中でなんともおさまりがいいのだ。
劇作家のなせる業なのか、文章がうまい。
そうか、向田さんは、こんなにおちゃめなひとだったのか、、、、と、嬉しくなっちゃう感じ。
そして、他にもたくさんのエッセイが続く。どれも他愛のない話といえば他愛のない話。どうってことのない話だけれど、向田さんの手にかかると、楽しくて、どんどんよんでしまう。言葉の魔術師か。
実は、自分は自転車に乗れないということを忘れていて、友人を自転車の旅にさそってしまった、、とか。お父さんが自転車に乗れなかったからか、お父さんは向田さんに自転車に乗ることを禁じた。そして、結局乗れないままなのだ、、、と。でも、そのことを忘れていたというのが、笑える・・・。
私も、実はあんまり自転車が得意ではない・・・。たいていのスポーツはなんでもそつなくこなすが、自転車はどうも苦手意識がある。子供のころ、自動車の走っているところは自転車で行っちゃだめだと言われていたので、あんまり乗らなかったからだとおもうのだけれど。。。乗れるには乗れる。でも、思うように曲がれなかったりする、、、ってそれを乗れないっていうのか・・・。
以前、サラリーマンで研究員をしていた時、事業所のなかで遠くの研究棟に行くのに歩くと10分以上かかるので、自転車で移動することがあった。前のカゴに実験道具をいれて、こっちの研究室からあっちの研究室へ移動して実験継続、なんて時には、自転車じゃないと時間がかかりすぎてしまう。そんな時は自転車でいくのだけれど、共用自転車だからサイズが私にあっているわけでもない。サドルの高さは調整できるものの、基本は男性サイズ・・・。
構内とはいえ、自動車、トラックは走っている。そして、私にとっての難関は、途中にある池越えだった・・・・。まさか、池の上をはしるわけではないけれど、池の周辺を迂回して走らなければならないのだ・・・。そこだけ、通路が狭い・・・。向こうからも自転車や歩行者がくる。相手はまさかこっちが自転車へたくそだとは思わない・・。当然、自転車が歩行者をよけるものだし、右側通行というルールもある・・・。だが、、そううまくは走れないから困るのだ・・・・。
あぁ、なんだか、あの手に汗握る感じを思い出してしまった・・・。
別に、乗れないわけじゃないのよ。こないだも、乗ったよ。けどね、ちょっとね、思う方向によけられなかったりするだけよ・・・・。
と、私のことはどうでもいいのだが、自転車苦手仲間がいたのが嬉しい。。。
電車の中で吹き出すほど笑ったのは、「身体髪膚」というエッセイの中の小学校6年生の夏の話。海水浴から帰ってきたら、右の耳がさっぱりしない。水が残っている感じがしたので、少女雑誌に書いてあった「豆を入れると水を吸う」というのを信じて、節分の豆を煎ったのが神棚にころがっていたので、耳の中に一つ押し込んでみた、、、と。
「確かに水を吸ったらしく、さっきまでは頭を叩くと、プカンプカンと西瓜のようなおとがしていたのに、今度はまさしく自分のあたまになった。
ところが、今度は水をすった大豆がでなくなってしまった。楊枝でつついても、右を下にして飛んでもだめである。私は、右の耳の豆から眼が出て、巨大なジャックと豆の木に育っていく絵を寝むれない夜の暗い天井に描いておびえていた。
結局、次の朝に母に白状して、直ちに耳鼻科にひっぱっていkれ、ピンセットでつまみだしていただいた。白くふやけた豆は、祈念にとっておいたのだがいつとはなしにどこかへいってしまった。」
と、爆笑。
しかも、その続きは、
「桜が散ると、グリンピースやそら豆がおいしくなる。」と、即座に食の話題に。。豆の莢をむいて中に豆が並んでいるさまを自分の兄妹にみたててみたりして。素敵な話題、なんだけど、、ね。笑える。
他にも、わらったり、うんうんとうなずいたりしながら、楽しく読んだ。
お母さんが削ってくる鉛筆が好きだったって話。書き心地がよかったのだそうだ。そういえば、我が家の父も、鉛筆削りが上手だった。ナイフでそれは見事な美しさに仕上げてくれた。父が削ってくれた鉛筆をもって学校にいくのは、ちょっと自慢だった、そんな記憶がある。いわゆる鉛筆削り器で削った鉛筆より、ずっとシャープですらっとしていて、、、懐かしい。鉛筆の芯の香りがして、好きだった。私は今でも鉛筆愛用派。ま、削るのは鉛筆削り器でだけど・・・・。
「人間はその個性にあった事件にであうものだ」という小林秀雄の言葉。向田さんにとって、始めてみた演劇が猿芝居で、猿が忠臣蔵を演じ、切腹の真似事までした。それをみた向田さんは、あまりのことにびっくりして熱をだしてしまったのだそうだ。
向田さんにとって、猿の切腹は、出会うべくしてであった事件だったのか。。。
宿題を泣きながらやった話では、祖母からおしえてもらった
「明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の風のふかぬものかは」
親鸞上人の歌が紹介されていた。これは、まだ、幼い9歳の親鸞が出家の意思を示した言葉。
https://megureca.hatenablog.com/entry/2022/10/04/084230
私の心には、あだ桜がさいております・・・・・。
だって、「明日でいいことは明日でいい」って言葉もあるし・・・。
海苔巻きの隅っこが具沢山で好きだって話から、広い部屋と狭い部屋とどっちが落ち着くか、、って話。向田さんは、大きすぎる部屋では落ち着いて物書きができない、、、、と。
トルストイは、鴨長明は、紫式部は、シェークスピアは、大きい部屋でかいたのか、小さい部屋で書いたのか。机は大か小か。位置は真ん中か、隅っこか、、、。
と、笑える。
ちなみに、私は海苔巻きの端っこはすきだけど、部屋のはしっこは好きではない。電車のベンチシートも、空いているあえて端の席には座らない。だって、なんか、窮屈なんだもん。わざわざ、空いたら隅に移る人がいるのが不思議だ。
アメリカにわたってから、美容整形をした知人が日本語を話すのを聞いて、「この顔には日本語より、英語が似合うと思った」という話も興味深い。
「その国の言葉は、声だけでしゃべるのではない。顔や髪の毛の色や目鼻立ちや、そういうものが一緒になってしゃべるものだということが判ったのだ。」と。なるほど。ちょっと、さもありなん。
まぁ、どのエッセイもほんとに秀逸だ。楽しい、楽しい、楽しい。お父さんのことを面白おかしく書いていながら、そこに愛がある。ごめんなさいもありがとうもなかったお父さんかもしれないけれど、やっぱり、愛がある。
向田さん、いきなり飛行機事故で死んじゃうなんて、どこまで劇的な人生なんでしょう。もっと、たくさん書いてほしかったな。でも、亡くなってしまっても残っているのが本。たくさん書いてくれて、ありがとう。