禅の言葉:月穿潭底水無痕 つき たんていをうがってみずにあとなし
秋の坐禅会に行ってきた。18:30の開始に間に合うように、18時過ぎに全生庵に向かうと、既にすっかり日は落ちて、暗い中にお堂の明かりが目に入る。そうか、もう、10月だ。。。9月末まで暑さが続いて、どうも、季節感が狂っている。
コロナの規制が解除され、回を重ねるごとに参加者の人数が増えている。それでも、まだコロナ前よりは随分と少ないけれど。。。お堂に吹き込む風に秋の気配を感じながら、座ってきた。やっぱり、大勢と一緒に座るのは一人で座るのとは違う空気があって、気持ちい。
まぁ、今回も雑念だらけの座りだったけれど・・・。なぜか、住職の警策(けいさく)の音が、「すてろ、すてろ」と言っているように聞こえた。秋は、左右2回ずつ、バシッバシッと叩かれるのだけれど、他の人たちが叩かれている音が、「捨てろ、捨てろ」と聞こえた。そろそろ年末の大掃除に向けて、断捨離シーズンか・・・。煩悩も断捨離しないとね。。。
そして、坐禅が終わった後の住職のおはなしが、今回は、
「月穿潭底水無痕」だった。
月穿潭底水無痕:月潭底をうがって見ずに痕無し。
この言葉には次の対句がある。
竹影掃階塵不動(ちくえいかいをはらってちりうごかず):竹影階を掃うも塵動せず
意味
月の光が水面に輝き、その光は水底までとどいている。しかし、水には何の傷跡も残さない。
竹の影が箒のようになって階(きざはし)を掃いているが、塵は微動だにしない。
光も影も、そこに揺れ動いているし、目に入ってくるけれど、物を動かすことはない。人は感情の生き物だから、喜怒哀楽が表面に見えることがあるけれど、自分の中の「軸」のようなものは動くことはないのではないか、という話。
自分の中の変わらないものを持つ大切さ、という話だった。
そして、西田幾多郎の、
「わが心深き底あり喜も憂の波もとどかじと思ふ」
との詩も紹介してくださった。
なるほど。
自分の中の変わらないものがある。
感情がささくれ立っても、感情が喜びに浮足立っても、自分の心の底にあるものは、動かされないのだ。そういう自分は、どんな自分なのか、、、。そういう自分がいることに気がつけると、自分軸ができるのかもしれない。
2023年もあと3か月。。。
心動かされる自分と、心動かされない自分、どっちも自分であることには変わらない。
自分の心の動きを自覚するっていうのも大事かもしれない。
秋だ。
この心地よい季節を大事にしよう。
子供の時から秋が好き。
ちょっとだけ雲のある、秋の空が好き。
そういう自分も、変わらない自分かもしれない。
自分探しなんかしなくたって、自分はここにいる。
ただ、それだけのことなんだな。
ちなみに、帰りがけに住職に「まだ、遊んでいるの?」と聞かれた。脱サラしてからフリーランスでふらふらとしていることを住職には「遊んでいる」と言われている。元気、「はい、人生遊びですから」と答えておいた。「さすが」といって笑われた。
いやいや、ホントは、自分にはそんな肝のすわった決心はない。住職と話すと、なんというのか、ちゃんとしないとなぁ、、、っていう気持ちになる。いつも、ありがとうございます。そうだ!基本は掃除だ!断捨離だ。心のどこかで住職と片づけを関連付けているのかもしれない。だから、「捨てろ、捨てろ」って聞こえたのかな?
まずは、自分の身のまわりから整えよう。
そして、ちゃんと、秋を楽しもう!
秋は、月も美しいしね。