伝記を読もう 石井桃子
子供たちに本を読む喜びを
竹内美紀・文
あかね書房
2018年4月5日 初版
『ノンちゃん雲に乗る』を読んだら、石井桃子さんのことをよく知らないということに気が付いた。石井さんのことをもっと知りたい、と思った。
他の本をさがしてみようかと図書館で児童書のあたりをウロウロしていたら、石井さんの伝記を見つけたので借りてみた。
「伝記を読もう」というシリーズらしい。
目次
はじめに
1 記憶力ばつぐんの子ども
2 英語を学び「プー」にであう
3 戦争中も負けずに作った子どもの本
4 「ノンちゃん」と牧場経営
5 「岩波少年文庫」と絵本のシリーズ
6 あこがれの海外留学
7 子供の図書館を作る
8 よい子どもの本を探して
9 名訳者のわけ
10 子ども時代に返る
おわりに
感想。
おぉ、そうだったのか!!と、面白かった。『文豪、社長になる』で出てきた石井さんの生きざまは、こういう全体像とつながっていたのか!と、新たな発見。
そもそも、石井さんは翻訳でも有名だったということ。そうか、そうだったんだ。『クマのプーさん』、『ピーターラビットのお話』は、石井さんが翻訳されたのだ。そして、「岩波少年少女文庫」、福音館書店の「傑作絵本シリーズ」では、編集者としても活躍された。
自宅の一階には、「かつら文庫」を開いて、子供達に本の貸し出しをしたり、読み聞かせもした。そして、この図書館が、現在の「東京子ども図書館」になっているのだそうだ。
記憶力抜群の子というのは、なんと、1歳ころの記憶もはっきりしていて、自伝的作品『幼ものがたり』では、70歳を過ぎてから60年以上もまえのことを本に書いたという。それは、、すごい。私は、1歳の頃はおろか、幼稚園、小学校、中学校、高校だって、かなり記憶は怪しい。時々、同級生が学生時代の話をしているのをきいて、自分のことなのに、へぇ、そんなことあったんだ、、、って聞いてしまう・・・。
石井さんは、1907年(明治40年)3月10日生まれ。生家は、金物屋で、父親は銀行務め。6人兄弟の末っ子で、祖父母も同居する大家族で育った。おじいさんが面白い人で、ユニークなエピソードが紹介されている。どうも、『ノンちゃん雲に乗る』で、雲の上でであったおじいさんは、ご自身のおじいさんがモデルなのではないだろうか?という気がした。
小学校の学級文庫で出会った『アラビアン・ナイト』は、石井さんにとっての一生ずっと面白い本の代表、になったのだそうだ。私は、まだ読んだことが無い。児童向けの抜粋版なら、読みやすいかな。今度、読んでみよう。
石井さんのお姉さんたちは、お嫁に行ったけれど、石井さんは、もっと勉強がしたいと思った。そして、1924年に日本女子大学英文部に入学。17歳になったばかりだった。ここで、石井さんは英語の基礎力をつけたのだ。そして、卒業しても英語を使った仕事をしたいと思っていた。そこでであったのが、菊池寛。菊池に、「英語の小説がよめるんだったら、新しい外国の小説を読んで、その筋や感想を教えてくれないか」と、アルバイトの仕事をもらった。そして、菊池の仕事を手伝いながら、編集の仕事も覚えていく。
また、菊池を通じて紹介された仕事に、犬養毅首相の家の書庫整理、というのがあった。犬養は後に5・15事件で殺害されてしまうが、石井さんと犬養家の家族ぐるみの付き合いは続いた。そして、1933年のクリスマスイブ、石井さんは犬養家で『The House at Pooh Corner』という、クマのプーさんの続編のお話に出会う。石井さんは、その英語の本を犬養家の子供たちのために、日本語で読み聞かせてあげた。
ゆきや こんこん ポコポン
あられや こんこん ポコポン
と、自然と物語にあった日本語が口からでてきたという。
まるで。同時通訳者だ!!
そして、石井さんは、1940年12月、岩波書店から『熊のプーさん』を刊行する。石井さんにとっての最初の翻訳本。
そうか、そうだったのかぁ。。。。石井さんの翻訳のうまさは、英語のうまさだけでなく、日本語のうまさからくるのだろう。そうなのだ。本の翻訳は、日本語もうまくできないとできない。プーさんも、読んでみよう。
そして、戦争。戦争中は海外の英語の本を翻訳するというのも難しいことではあったけれど、石井さんは子どもたちのため本の出版を諦めなかった。すごいなぁ。。。
そして、生まれたのが、『ドリトル先生「アフリカ行き」』(井伏鱒二訳)や、『たのしい川邊』(中野好夫訳)。
戦争が厳しくなっていく中、石井さんは自分で畑をするために東北へ移住することを決意する。移り住んだのは、宮城県栗原郡鶯澤村(現・栗原市)。はじめて畑にくわを入れた日が1945年8月15日だった。偶然、戦争が終わった日だった。その後すぐ、とにかく食べるものをつくり、生き伸びるのに必死で働いた。畑だけでなく、鶏や牛もかっていたらしい。
『文豪、社長になる』のなかで、菊池寛が石井さんに「農業なんてやってちゃだめだ。本を」というのだけれど、「私は農業がしたいんです」というシーンがあった。なるほど、このころのことだったんだ・・・。
そして、戦後が落ち着いたころ、石井さんは再び本中心の世界へ帰ってくる。
1954年(昭和29年)、石井さんはアメリカ留学のチャンスを得る。そして、アメリカの図書館、カナダの図書館を見て回り、児童部門のお手本をたくさん勉強する。実際に、子どもたちが図書館で本を読んでいる姿をみて、子供向けの本に必要なことをたくさん学ぶ。
子どもは、おもしろくなければ読んでくれない。
子どもが夢中になる本は、どういう本なのか。それを知りたければ、本を読んでいる子どもをみればいい、と。
そして、帰国した石井さんは、自宅を増改築し「かつら文庫」を始める。子どもたちのための図書館。1958年のこと。
11か月の女の子が、お父さんの膝の上で読んでくれと催促する本。ブルーナの「うさこちゃん」シリーズ。子どもたちを見ていると、子供が喜ぶ本がわかった。
そうして、石井さんは児童文学の世界をどんどんつくり上げていった。翻訳家としても、どんどん活躍した。
そうかぁ、そうだったのかぁ、、、、。
生涯、独身だった桃子さん。でも、たくさんの子供のおかあさんであったとも言える。
すごいなぁ。。。
そして、やはり、今以上に「英語ができる」ということが仕事をしていくうえでの重要な武器になったのだ。やはり、言語って大事だ。編集という仕事も、面白そうだな、って思う。最近では、AI翻訳もあるし、必ずしも自分で語学堪能である必要はないかもしれないけれど、やはり、自分の頭に浮かぶ言葉を紡ぐって、大事なのではないだろうか。
言葉があるから、考えることができるし、言葉に感動することもできる。
日本語の勉強も、英語の勉強も、たくさん読む、たくさん聞く、につきるなぁ、、、という気がする。
石井さんの絵本、読んでみたくなった。原本と比較して読めたら楽しいけど、、な。
侮るなかれ、児童書。
そもそも、私は、絵を描くことも好きで、若い時、絵本作家になりたいと思ったこともあった。。。今でも思わなくもない。。。
絵本は、本との出会いの原点。素敵な絵本が好きなだけ読めるって、なんて幸せなことなのか。
実家にあった絵本で覚えているのは、2つだけ。
一つは、「白鳥の湖」いわさきちひろのイラストだった。大判の絵本だった。
そして、もう一つは、ピーターラビット。3冊ずつ函にはいっていて、3函あったような記憶がある。でも、ピーターラビットは、怖かったんだよね・・・。内容はよく覚えていない。きっと、あれだって石井さんの翻訳だったはず。いや、英語だった?いや、そんなはずない。けど、内容は覚えていない。怖かったことだけ覚えている。。
絵本を、読み直そう。。。
そんな気になった。
そして、英語の勉強は、もっともっと続けよう。