『《歴史ごはん》 食事から日本の歴史を調べる 第2巻  平安~鎌倉~室町時代の食事 』

《歴史ごはん》 食事から日本の歴史を調べる
第2巻  平安~鎌倉~室町時代の食事 
永山久夫、山本博文  監修
くもん出版 
2019年2月21日 初版第1刷発行

 

第1巻 縄文~奈良時代に続き、第2巻。

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目次

第1章 平安時代の食から見る歴史

第2章 鎌倉時代の食から見る歴史

第3章 室町時代の食から見る歴史

 

平安時代。794年、都が平安京にうつされ、天皇を中心に、藤原氏など一部の帰属が権力を握る時代が約400年続く。貴族は和歌を読み、琵琶などの楽器を弾き、季節の行事を大切にして現代にも残る華やかな日本風の文化を生み出していく。

平安時代といえば、紫式部清少納言などが宮中で活躍した時代。彼女たちの食事は、変化の少ない貴族の食事だった。4種類の調味料で、自分好みの味付けにして食べていた。調味料にしたのは、塩、酢、酒、醤(ひしお)。奈良時代までに比べると、だいぶ和食っぽくなってくる。おかずには味付けをしないで、食事をするときに、これらの調味料をつかって自分好みの味にしていた。

そもそも、貴族は仏教の教えから、欲のひとつである「食欲」を見せることはよくないこととされた。だから、変化もすくなく、朝は10時~12時くらいに「固粥」をたべ、夕食は4時ころにいつも決まったような食事内容だった。いまの修行僧のようでもある、、。

平安時代のレシピとして、「つばきもち」なるものが紹介されている。『源氏物語』に登場する和菓子で、道明寺粉、砂糖、塩をあわせて蒸しあげて、丸めてお団子に。上下を椿の葉っぱで挟んでできあがり、らしい。まぁ、今のお団子餅とさして変わらない。当時は砂糖の代わりに「あまづら」を使っていた。

 

普段の食事は代わり映えのないものだったけれど、大臣就任などのお祝いのときは、大饗料理といって、たくさんのお皿が用意された。でも、たくさんありすぎて、食べるというより、眺めていただけだったと考えられている。お供えみたいな感じか?かつ、器は、常に新品をつかい、一回つかったら割ってしまう。

 

このころの食事は、たくさん食べないで残すのが礼儀。しかも動物の肉はあまり使わないので栄養は偏り、塩漬けにされた食材もおおかったことから、かなり不健康な食事だったらしい。平均寿命33~35歳。と、きびしい!

 

庶民は、1汁2菜。「折敷(おしき)」という四角いお盆のようなものにのせて、それを床の上に置いて食べた。庶民の方が、イワシを食べたりするし、身体も動かすので、健康的だったかもしれない。

ただ、仏教の影響で、肉を避ける風習はこのころに貴族だけでなく庶民の間にも広まるようになる。
そして、貴族の時代は徐々に武士の時代へと変化していく。

 

ちなみに、ひなまつり、子どもの日、たなばた、といった行事は、平安時代から始まったと言われている。

 

鎌倉時代は、 武士が初めて政権を取った時代。 御恩と奉公を大切にし、質素に暮らすなど、それまでの貴族文化とは全く違う政治体制と文化が築かれていく。また禅宗が伝わったことで、食事にも様々な変化が起こった。

武士にとっては、贅沢よりも強い体をつくるご飯が必要となる。かつ、平安時代の反省から、無駄なものを省き、質素にくらすことがよいとされた。ゆえに、将軍であっても、1汁1菜か1汁2菜の御飯だったという。あら、質素。

 

平安貴族は白米をたべていたけれど、鎌倉武士は玄米を食べていたとされる。玄米は、栄養が高く、しっかり噛んでたべるので腹持ちがよいので好まれた。また、「みそ」が鎌倉時代に使われるようになる。

酒づくりの技術も発達し、一般の人も愉しむ様になる。ただ、武士の生活を乱す原因になるとして、1252年に幕府は酒の売買を禁じた。え~~!知らなかった。日本にも禁酒法があったんだ。でも、きっと、なしくずしになったのだろう、、、。

 

なしくずしといえば、肉食も朝廷から禁じられてはいたけれど、武芸の訓練として狩りをしていた武士たちは、イノシシやウサギ、野鳥を狩っては食べていたらしい。それは、狩った命は大事にいただかないとね。そして、肉食は再び庶民や貴族にも広がっていく。

 

日本人、いがいと食の規制はなじまないらしい。このころには、一日2食の習慣から3食の習慣が広がっていく。だんだん、たくましくなっていく感じ?!

武士はもともと荘園を管理していたので、農業にさまざまな変化が起きる。二毛作売るための栽培、そして、各地に「名産地」ができて、食材が豊かになっていく。たべるものが増えたことも、食事が充実していった理由の一つなんだろう。
そして、物の売り買いが全国に広がり、食材以外の手工業も各地で発達していく。
鎌倉時代に「せともの」が宋からの輸入品だけでなく、国内生産されるようになっていく。もともとは瀬戸が大きな生産地だったので、「瀬戸物」とよばれたけれど、今では産地に関係なく陶磁器のことを「せともの」というようになった。

 

平安末期から鎌倉にかけては、戦だけでなく災害や農作物の不作など、人々の生活をおびやかすことが続いた。人々の不安がたかまるにつれ、それにこたえるようにこれまでとは異なる仏教が起きてくる。禅宗がその一つ。禅宗では坐禅などの厳しい修行があり、「ねむりたい」という欲望に屈しないようにお茶を飲む習慣が広まる。お茶は、禅宗から始まったのだ。

お茶が禅宗から独立すると「茶の湯」となり、最初はお茶の供として楽しんでいた「茶の子」(お菓子)が、「懐石料理」へと変化していく。

なるほど。だいぶ和食の原点っぽいはなしになってきた。

そして、1338年、足利尊氏が京都に幕府を開く。しかし、南北朝の時代はその後60年間続く。鎌倉時代末期から足利尊氏が幕府を立てるまで、そして南北朝のごちゃごちゃは、『私本太平記』を参照!

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3代将軍足利義満の時代に南北朝 は合体される。義満が政治を行った「花の御所」 が室町にあったので、室町時代と名付けられている。 今の日本文化の元となる豊かな文化が花開いた時代。

1582年、織田信長は戦で成果をあげた徳川家康安土城に迎え、室町時代武家料理の集大成である本膳料理でもてなす。3日間に4回の食事が用意され、全部で147品がふるまわれた。家康が到着した日の最初の料理は、「おちつき膳」といわれ、その再現料理が本書にカラー写真でのっている。

本膳、二の膳、三の膳、与の膳、五の膳、お菓子、と。
「四」は「死」を連想させるので、「与の膳」と書かれた。

本膳料理は、いまでは各膳の品数が決められていて、与の膳、五の膳ははしをつけずに持ち帰る習わしになっている。本膳料理がふるまわれるのは、結婚式などの格式の高い食事の席。

 

こぼれ話として、明智光秀が信長を裏切った理由について書かれている。この家康をもてなすための料理を準備したのが明智光秀で、信長は「豪華すぎるご馳走」、あるいは「くさってひどい匂いのマナガツオ」をだした光秀に激怒したからではないか、、という話もあるらしい。食事のことで怒られて、逆切れした光秀?!うん、さもありなん。

 

このころ、お茶は薬から娯楽に変化する。お茶だけでなく、貴族も武家も楽しむ能や狂言水墨画なども発展し、日本文化の源となっていく。枯山水狩野派の絵画なども室町時代に広まった文化の一つ。

 

農業の発達により生活が豊かになると、人々は組織をつくるようになり、「市」による交易も盛んになる。物の交換が盛んになったことで、各地の名産物が全国にひろがり、庶民もみそ、塩、醤油、酒を一般的に使うようになる
室町時代は、和食の基礎ができたと言っていいかもしれない。

 

ふむふむ、なるほど。

第三巻に続く。