『孤独のすすめ 人生後半の生き方』  by 五木寛之 

孤独のすすめ  人生後半の生き方 
五木寛之 
中公新書ラクレ 
2017年7月10日 初版 
2017年7月25日 再販

 

 全然違う本、『人生後半の戦略書-ハーバード大教授が教える人生とキャリアを再構築する方法』を図書館で探すのに、「人生後半」で検索をかけたら、出てきた本。本来の目的の一冊は、まだまだ予約待ちがいっぱいだったので、たまたまひっかかった本書を借りて読んでみた。

 

タイトルに覚えはあるし、もしかしたら、読んだことあるような気もするけれど、、、、。

 

裏表紙裏の説明には、
”老いに差し掛かるにつれ、「孤独」を恐れる人は少なくありません。 体が思うように動かず、外出もままならない。 尋ねてくる人もおらず、 何もすることがなく、世の中からなんとなく 取り残されてしまったようで、 寂しく不安な日々。 けれども、 年を重ねれば重ねるほど、人間は「孤独」だからこそ豊かに生きられると実感する気持ちが強くなってくるのです。”
と、かなり、老いの境地?!のような、、、。

五木寛之さんは、1932年生まれ。それはそれは、、、確かに、人生後半の教えですわ。。

 

目次
はじめに
第1章 「老い」とは何ですか
第2章 「下山」の醍醐味
第3章 老人と回想力 
第4章 「世代」から「階級」へ
第5章 なぜ不安になるのか
第6章 まず「気づく」こと
おわりに

 

感想。
確かに人生後半における、お薦めだ。。。。後半戦の後半かも。。。私にはまだちとはやかったかもしれない、、、けれど、老い方の事前学習としてはいいかも?

老いていく自分にあらがわずに生きていくのがいい、っていう話。

 

たとえば、「諦める」ということの大事さについて、自分の老いに目をそらそうとしないで、自分の衰えや疲れを素直に認めると、生きるのに必要なところを研ぎ澄ますことができる、と。

五木さんが、自分の老いを認めながらも、なぜまだ生きていきたいと思うのかといえば、「この世界がどう変わっていくのか、見てみたい」からだと。なるほど、たしかに、そうかもしれない。大きな世界もそうかもしれないけれど、身近な世界が、もっと至近でいえば、自分の子供が、孫がどうなっていくかをみたいから長生きしたいって、生物として当たり前の欲望かもしれない。まして、五木さんのように戦争を記憶している世代ならなおさら、この先どうなるのか、、、気になるだろうな。

 

そんなに、「孤独」が強調されている本ではなかったけれど、五木さんの生きる覚悟みたいな話かな。

 

面白いと思ったのは、「補聴器のポルシェを」という話。補聴器に満足しているという人の話を聞いたことが無い、と。そして、それは、主要なユーザーである高齢者の声がメーカーに届いていないからなのではないか、、、と。へぇ。。なるほど。
確かに、いわゆるイヤホンの技術革新は素晴らしい。ノイズキャンセリングやら、低音高音の美しさだったり、昔より格段にイヤホンの質は高くなっている。でも、補聴器の質はそうでもないってこと?「老人が感じる本当の不便さ」が理解してもらえていないから、メーカーは「補聴器のポルシェ」をつくれていないのではないか、って。で、高齢者の困りごとが一番わかるのは高齢者だから、そういう層をターゲットにした製品開発やマーケティングは、高齢者の人にまかせたらどうか、って。
なるほどぉ・・・・。 

 

そりゃそうだ。

 

「嫌老」ということばがでてきたりするのだが、それすらも、五木さんは肯定もしないけれど、否定もしない。みんなが好きなお年寄りは、田舎でニコニコしているお年寄りで、都会でえらそうに物を言う年寄りではない。年金もたっぷりもらえて裕福そうなお年寄りは、低い所得に苦しむ若者にとっては、目障りだとしても仕方がないだろう、、、って。まぁ、かといって、私は、「嫌老」とか「老害」とか言う言葉は使うべきじゃないと思う。そもそも、「老」をひとくくりにするな!って思う。

 

五木さんは、大の車好きだったけれど、60代で運転をやめたのだそうだ。スポーツカーを乗り回していた若いころに比べて、明らかに自分の判断力の衰えを感じたから、と。いさぎよい。まぁ、都会に住んでいれば、マイカーは生活の必需品ではないから。

 

自分の衰えを認めてしまうこと。そして、足りないところは誰かに助けてもらえばいいし、できることは自分でやる。それが、人生後半の生き方、ということ。自分を直視して、これまでできていたのに、できなくなったことを認めるって、、、けっこう辛いことだと思う。でも、できないことを認めてしまえば、次の道が開ける。代替を考えればいいのだ。

 

先日、『徒然草』を読んでいたら、こんな文章がでてきた。

第151段

「ある人の云はく、年50になるまで上手に至らざらん藝をは捨つべきなり」

 

50までやってもうまくならないものはやめてしまえって。。。続きは、その年では懸命に習うほどん余生もない。。。。って。まぁ、兼好法師の時代だから、50歳というのは、ほぼ寿命みたいな年齢だけれど、、、。

 

車の運転に限らず、何事も、辞め時っていうものもあるのは、否めない。

 

できることを、できるひとがやればいい。

それは、人生後半に限らず、社会全体がそうであっていいと思う。

だって、みんな、誰かに頼って生きている。

だれかが提供してくれるものやサービスで暮らしている。

自分ができることを、自分でやる。

それでいいやね。