『きみの体は何者か』 by  伊藤亜紗

きみの体は何者か
伊藤亜紗
ちくまQブックス 
2021年9月15日 初版第1刷発行 
2021年11月10日 初版第2刷発行 

 

図書館の棚で目に入った。伊藤さんの本なので、借りてみた。

 

著者の伊藤さんは、1979年 東京生まれ。東京工業大学 科学技術創成研究員。未来の人類研究センター長。 同リベラルアーツ研究教育院教授。 専門は美学、現代アート。『手の倫理』や『体はゆく』等の著書がある。

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表紙裏の説明には、
”緊張で体が固まったり 言葉が出なかったり。そう、体は思い通りにならない。でも体にだって言い分はある。 しゃべること、歩くことがどんなに大変か、私たちは知らない。さあ 体の声に耳を澄まそう。思いがけない発見が待っている。 きっと体が好きになる14歳からの身体論。”

 

感想。
なるほど!
うん、面白い。
自分の身体を好きになろう、って話だけれど、なかなか興味深い。
ちくまQブックスなので、アッという間に30分くらいで読める。伊藤さん自身が吃音に悩まされていたことから、思い通りにならない体について研究するようになったという。ご自身の吃音と、どう付き合ってきたのか、今どうつきあっているのか、という話も興味深いけれど、歩くことと同様、自分が話をすることに、何の意識も使っていないことに気づかされる。そう、それが日本語ならね。つまり、母国語ならね。。。

 

目次
第1章 体の声を聴く
第2章 体、この不気味なもの
第3章 体がエラーを起こす
第4章 恥ずかしいのはいやだ
第5章 自分らしい体
第6章 メタファーを味方につけよう

 

第1章では、まずもって、自分の体に満足しているか?という問いかけから始まる。体形、顔、性別。全ては自分で選んだ訳ではないのに、一生をかけて引き受けなくちゃいけない。いずれは老いもやってくる。事故や天災で、障害を持つかもしれない。それでも。自分の体とは、付き合っていかなくてはいけない。

つまり、
きみの体はきみの思い通りにはならない
ということ。

でも、それを嘆く必要はない。
思い通りにならないことは、おもいがけないことでもある”から、と。

人生だって、全部思い通りになったら実はつまらないんだよ、って。筋書き通りにうまくすすむだけなら、スリルもないし、偶然の出会いもない。その先のときめきもない。
思い通りにならないことは冒険だ!”と。

そして、この偶然与えられてしまった体をどう生きるかはきみしだい、と。

伊藤さん自身が、「吃音」で自分の身体に苦しんだ時期のことを綴っている。「どもる」っていうこと。私自身、「吃音」については良く知らなかったけれど、ただ「どもる」だけでなく、喋ろうと思っても言葉が全く出てこない、ということもあるらしい。始めの音を連発してしまう症状だけが吃音なのかと思ったら、そうではないらしい、。そして、いまでも吃音で苦労することはあるけれど、自分で吃音の研究をしたことで、体はおもしろいな、とおもえるようになったのだそうだ。研究してみると、自分と同じ感覚を持っている人が世の中にたくさんいた。そして、自分の体を好きになっていった。

 

第2章では、しゃべれるほうが変ではないか?という問い。歩くのだって、言葉で説明して赤ちゃんがあるけるようになるのではなく、赤ちゃんは自分の体をつかって覚えていく、しゃべるということもそうなのだと。体がかってにやってくれるのだ。
面白い例がでてくる。

①新聞(しんぶん)
②ぺんぎん

どちらも、「ん」が二回でて来る。でも、①しんぶん、というときの一つ目の「ん」は、口をとじて発音するのに、ぺんぎんの一つ目の「ん」は、口を閉じない。

自分で発話してみればわかる。しんぶん、ぺんぎん。なんと!ほんとに、自然と口が閉じたり開いたままになっていたりする。そう、体がかってに動いているのだ。
それは、「ん」と「ぶ」をつなぐには、口をとじないと「ぶ」の音がでないから。

しゃべるとき、それは「ひとつの連続した運動」になるということ。そして、それがうまくいかない体もあるということ。

 

第3章では、どういうときに体がうまく動かなくなるか、ということ。吃音でいえば、時々頭と体が連動しなくなっちゃう、ってことらしい。しかも、連動できなくなる言葉はその人によって決まっていたりするそうだ。「てがみ」は「て」と「が」がうまくつながらなくて、「ててててててがみ」になっちゃうけど、「てんぷら」は、スラッといえるとか。

 

第4章では、吃音の症状として「難発」という症状のはなしがでてくる。言葉が、出てこないのだそうだ。失語症ではない。頭ではその言葉が浮かんでいるのに、口から言葉として出てこない症状。体がストライキしちゃう。。。うん、なかなか思い通りにならない体だ。そして、三島由紀夫の『金閣寺』の主人公の独白が引用されている。そうだ、そういえば、主人公の溝口は吃音という障碍があって、独白の中で「どもりは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍をおいた。・・・」と約1ページにわたって、それがどのような心持のすることなのかが表現されている。私には、いわれて思い出すような文章だけれど、同じ障害を持つ人として、伊藤さんの頭には強く残ったのだろう。

溝口は、自分がうまく発話できない間に、「現実はもう新鮮な現実ではない」と感じ、「鮮度の落ちた現実が横たわっているばかり」、、、と言っている。

そうか、そういうものか・・・・。

伊藤さんは、難発のつらさは、この「世界から切り離される」感覚なのだいう。
そうか、、、、つらいなぁ。。。

 

そして、あとから、「今日はあの言葉が言えなかったなぁ」などと、寝る前に思い出したりするそうだ。でも、伊藤さんにとってそれは”成仏できなかった言葉たちを愛でるような時間で、その時間が好きだ、と。そういうことを考えているときは孤独。でも、

孤独は生きていくうえで絶対に必要なものだ”、と。
そして、
孤独は、自分が何者なのかを教えてくれる。”と。

自省の時間は、絶対に必要。
すごくよくわかる。その感覚。


伊藤さんのこの感覚が、私は好きなのかもしれない。
彼女の著書を読むと、心休まる感じがするのは、彼女の一人語りのような感じで、私にとっては押しつけがましさが全くないからかもしれない。自省の語り。孤独を知っている人の語り。

 

第5章、第6章、意外と難しいことが書かれている。第5章は、自分の体は自分で責任を持つ、とでもいおうか。それぞれのひとに、それぞれのベストの体がある。無理に人と同じにする必要もない、ということ。第6章は、メタファー(比喩)を使うことで、多様な言葉を味方にすると、感じたことを表現しやすくなるのだ、と。

しっくりくるメタファーがみつかると、自分の体におきていることが言語化できるようになって、安心できるのだという。


なるほど。やはり、日本語でも語彙力って、大事なんだ。メタファーを味方につけるって、いろいろな表現を味方につけるっていうこと。

辛い感情も、言葉にすることで外に出すことができる。たまたま、今日、英語の勉強教材で、マッサージの効用から心理学の話が出てきて、過去の過ちを言葉に書き出すことでこころを軽くすることができ、被害者意識を薄めることができるのだという技術系論文だった。マッサージがストレスを緩和することは、経験したことのある人ならうんうん、とうなずけるだろう。でも、物理的なマッサージだけでなく、言葉もストレス緩和の効用がある。心にたまったなにかを言葉にすることで、自分自身にやさしくする心を取り戻すことができるのかもしれない。被害者意識をなくすことは、人にやさしくなれることにつながる。

言葉って大事だ。その言葉が思うように出てこなかったら、どれほどもどかしいことか・・・。理解はできても自分では話せない外国語の世界にポツンといる感じ・・・。しかも、体がいうことをきかないのであれば、努力でどうにかできることではない・・・。

伊藤さんの話によれば、「難発」は、出てこない言葉を別の言葉で置き換えることでスムーズに話をできるそうだ。やはり、語彙を増やすって、誰にとっても大事。


『きみの体は何者か』というタイトルからは、想像がつかない深い話だった。

さっと読める本だけど、なかなか、深かった。

ちくまQブックス、やっぱり好きだな。

 

そして、もう、自分の体がこうであることにすっかりなれちゃっている自分がいるな、と思った。そりゃ、半世紀以上付き合ってきたんだからね。とりたてて何か取り柄のある体ではない。視力は悪い。おまけに最近では老眼だ。それでも、この先もこの体と付き合っていくのだ。いいとかわるいとか、考えたこともなかった。私の体は、私だ。シミができても、皺が増えても、私なんだから、死ぬまでこの体とつきあっていくよ。って、取り立てて宣言するほどの事でもないけどね。魂の器として、大事にしよう。

一方で、メタファーを味方にするっていうのは、まだまだ課題だなって思う。


読書は楽しい。