『訂正可能性の哲学』  by 東浩紀

訂正可能性の哲学 
東浩紀
Genron
2023年8月25日 第1刷発行
2023年9月25日 第2刷発行


先日、東さんの『訂正する力』を読んでいたら、その基盤となったのが、本書『訂正可能性の哲学』だったとでてきた。後追いだけど、図書館で借りて読んでみた。

 

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出版がGenronからということなので、東さんのビジネスの源流という感じなのだろうか。いまだに、東さんがどういう人なのか、イマイチわかっていないし、ゲンロンも直接体験したことが無いので、全体像がよくわからない、、。それでも、まぁ、読んでみた。

ソフトカバーの単行本だけれど、なかなかの分厚さ。

 

目次
第1部 家族と訂正可能性
 第1章 家族的なものとその敵
 第2章 訂正可能性の共同体
 第3章 家族と観光客
 第4章 持続する公共性へ

第2部 一般意思再考
 第5章 人工知能 民主主義の誕生 
 第6章  一般意思という謎
 第7章  ビッグデータ と「私」の問題
 第8章  自然と訂正可能性
 第9章 対話、 結社、 民主主義
おわりに
文献一覧
索引

 

感想。
うん、なんだか、かなり出来栄えの良い論文を読んでいるような感じだった。
面白い。と、私は、すぐに面白いという言葉を使ってしまうのだけれど、わはははと笑える面白さということではなく、興味深い、という意味で、面白い。
だけど、私には、難しくもあった。

 

そもそも、何がテーマの本なのか?これを哲学というのだろうか?社会学?人文学??


説明しにくいので、Amazonの紹介を引用すると、
”正しいことしか許されない時代に、「誤る」ことの価値を考える。世界を覆う分断と人工知能の幻想を乗り越えるためには、「訂正可能性」に開かれることが必要だ。ウィトゲンシュタインを、ルソーを、ドストエフスキーを、アーレントを新たに読み替え、ビッグデータからこぼれ落ちる「私」の固有性をすくい出す。ベストセラー『観光客の哲学』をさらに先に進める、著者30年の到達点。”
とある。

う~~ん、それもちょっとわかりにくい。

一言で言えば、「民主主義とは何なのか」について、従来の論考も踏まえながら、東さんの「訂正する力」というキーワードで、東さんなりに定義しなおした論文、って感じ。

そして、索引もあるけれど、各ページごとにかなりの量の注釈がついていて、それも含めて真面目にじっくり読むと、かなり時間がかかる本だと思う。私の基礎知識で1回読んだだけでは、東さんの思考に追いついていけない。それでも、あぁ、なるほど、そういうことか、と腑に落ちるのは、東さんが、ユヴァル・ノア・ハラリ、落合陽一、成田悠輔らの「AIによる民主主義によって人々は幸福になる」といった傾向の思想は、かれこれ、こういう理由で間違っている、といっているところ。

 

なにが間違っているかというと、そこには「訂正可能性」が考慮されていないということ。人間は、常に変化しているし、間違える。だから、訂正する。AIには、訂正する機能がない、、、とはいっていないけれど、それに近い。だから、ひとたびみんなが幸福になれる民主主義がAIやビッグデータをつかって完成したと思っても、時がたつとかならずそれに意義を唱える人が出てくる、ということ。

私が、ハラリや落合さんの書籍を読んでも、どうもピンとこないところを、うまく説明してくれていて、あぁ!それそれ!!って感じがした。

結局のところ、民主主義の本質というのは、公共性を求め続け、訂正し続けるということではないのか、、、という気がしてきた。その柔軟性が人間のすばらしい能力であり、可能性だと、私は信じている。

 

本書の中では、近代の哲学者、思想家がたくさん引用されている。いや、プラトンも引用されているので、歴史上の哲学者か。あるいは、社会を風刺した作家たち。プラトン、トマス・モア、ルソー、シャルル・フーリエハンナ・アーレント、リチャード・ロティ、ウィトゲンシュタインカズオ・イシグロ、ドフトエフスキー、、、。あげればきりがない。これらの人々の書が頭に入っていると、かなり容易に本書を読めるのだと思う。まぁ、そうはなかなか、、、いかない。けれど、各ページに必要に応じてかなりの文章としての注釈がついているので、それも読み合わせると、それなりの深さで理解することができる。

 

特に、キーになるのは、ルソーの『社会契約論』『告白』『新エロイース。ルソーについての研究といっていいくらい、ルソーの人となり、そしてなぜこれらの作品を残したのか、、ということが語られている。ルソーは、かなり被害妄想癖があって、現代の言葉で言えば、「コミュ障」な人だったらしい。そういう、人が作品ごとに主張が変わっていてもおかしくない。これまでのルソーの解釈よりも、もっと、柔軟に東さんがルソーを読み解いているところが面白い。あぁ、なるほど。ルソーも人の子。前言撤回もたくさんあっただろう・・・。


盛りだくさんだけど、気になるところ覚書。

 

・人類学者エマニュエル・トッドによる家族の分類。核家族」「直系家族」「共同体家族」核家族は、いわゆる現代日本核家族。直系家族は、戦前の日本で一般的だった、子ども一人が後継ぎとして三世代で構成される家族。共同体家族は、全ての子供が結婚しても両親と一緒に住んでいるような形。共同体家族が、もっとも原始的で、産業界革命以降、直系家族、核家族と変化してきた。
 なぜ、家族形態のはなしが出てきたかというと、現代社会では、家族形態によって社会制度が出来ていくから。専業主婦がいて、昭和の日本の制度ができた。そして、家族の形が変わっていくなかで、昭和の制度は社会に歪みを作ってきた。それを訂正しなくては、制度がそぐわなくなる。そういう事例は、やまほどある。
 ちなみに、トッドの主張については、『「知の巨人」が暴く』のなかで、副島隆彦佐藤優が、否定している。私も、あんまり、トッドの話はピンとこない。。。

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『観光客の哲学』という、東さんの書籍では、「家族的」でもなく、「敵対するもの」でもない、「観光客的」な存在があるという。そういう、アイデンティティがはっきりしない存在が訂正可能性の上に社会制度を構築できるヒントになるのではないか、ということらしい。「同じなにか」を守り続ける組織は強い。そこに、「観光客的」なものがふらりと入ったとき、、、柔軟性が求められそうだ。そういう、第三の立場を考える重要性こそ、民主主義ではないのか、と。なるほど!!

 

・日本における、リベラルと保守の対立は、抽象的な主義主張の対立ではなく、「家族」つまり救うべき仲間と考える範囲の違いではないのか。つまり、連帯の感覚の対立。あぁ、さもありなん。守るべきは、若者なのか、高齢者なのか、一人親家族なのか、貧困家庭なのか、、、。その範囲の対立が、リベラルと保守の対立、といわれると、そんな気がする。主義主張に差があったとしても、それは、守るべき対照が違うから、、、ともいえる。


・リチャード・ロティが信じる連帯は、普遍的なものよりは、具体的な人生に対する具体的な共感に支えられるもの。それをロティは、「他人の人生の細部への想像力による同一化」といっている。
想像力、大事だ。AIにはない・・・・。

 

・近代民主主義の困難は、ルソーが定義した「一般意思」「特殊意思」「全体意思」が存在する中、「一般意思」と「全体意思」は違うものであるはずだ、ということにあるのではないか。ルソーによれば各個人が持つのが「特殊意思」。特殊意思が集まったのが「全体意思」。一般意思は、特殊意思の集まりではあるけれど、そこに「公共性」がある。つまり、色々な人の利害関係がすり合わせされた意思、という感じか。理性的全体意思が一般意思といいえばいいのか。で、そういう、理性的、理想的「一般意思」があるという前提で、民主主義は考えられてきた。だが、はたして???という問い。
民主主義が従うべき人民の意思は、どこにあるのか???それがわからない中で、民主主義は歴史をすすんできた。
 と、ルソーの『社会契約論』をもとに、東さん流の民主主義への解釈が続く。このパートは、本書の肝ともいえる。

 

・ルソーの『告白』は、島崎藤村に大きな影響を与えた。『告白』とは、ルソーの死後に出版された自伝的書で、少年時代のロマンティックな回顧に始まり、 青年時代の性体験についての赤裸々な記述、 哲学者への激烈な批判、 根拠を書いた 被害妄想などを含んでいる。大きなスキャンダルとなった。

 

人工知能民主主義」は、東さんの造語。人工知能や、ビッグデータによって民主主義はみんなを幸せにする。成田、落合、ハラリの思想は、これに近い。しかし、人間はAIが答えを出したとしても、これまでもこれからも、くだらない問題で悩み続けるはず、だと。たとえAIが導いた「正解」があったとしても、それに異を唱える人はかならずでてくる。そもそも、政治家というのは、そういう難癖をつける人、だって。(笑)。
これは、面白い。うん、人は絶対に、文句をいう生きものだ・・・。生身の人間や政治家を必要としない人工知能民主主義は、そもそも、意味がないのではないだろうか、と私も思う。

 

ビッグデータは、個人を対象にした分析はできない。あくまでも、群を対象にした予測。人を固有名として扱うことなく、群れの一部として扱う。個別に扱うことができないので、「実は、、、、だった」という訂正の論理が働かない。よって、ビッグデータやAIによる民主主義、アルゴリズム的統治は、個人としての訂正ができないので、市民の主体化も生まれない。ゆえに、東さんは、人工知能民主主義は否定する。大いに共感。

 

・ルソーの作品『新エロイーズ』(三角関係の恋愛悲話)には、自分が永遠だと思っていたものを訂正する寂しさの感傷が描かれている。ルソー自身が、『社会契約論』だけが全て正しいとは思っていなかった、と思われる。

 

バフチンの思想:「人間は本質的に対話的な存在である」。言葉の本質は、「相手の意見をひっくり返すことができる」し、「新しい話題をはじめることができる」。だからこそ、言葉を使う人間には、自由がある。訂正の自由がある
日常で、おまえは○○だ、と決めつけにであったとしても、原理的には言葉で跳ね返すことができる。正面から反論できなくても、無視したり、はぐらかしたりすることで、相手の発話から力を奪い、主体性を奪還することができる。

 

東さんの総まとめのような言葉。
「正しさとは、正しい発言や行為をさすのではなく、常に過ちを発見し、正しさをもとめる運動として存在する。」

 

私の理解では、東さんが本書をつうじて言いたかったのは、民主主義は人の対話によってしか成立しない、ということなのではなかろうか。AIやビッグデータアルゴリズムは、それで完結することはあり得ない。

民主主義とは、私たち市民が参加すること、なのだ。そして、「私たち」という仲間の範疇がどれだけ広いか、、、ということの差異が、様々な争いのもとになっている、、ともいえる。

でも、だからこそ、それを対話し続ける必要があるのだろう。そして、訂正し続けることで進化する。私も、そう思う。

 

なかなか、面白い本だった。1回読んだだけでは、半分も理解していないかもしれないけど。もしかすると、またいつか、手にするかもしれないな、、、と思った。

 

読書は、楽しい。