新版 徒然草 現代語訳付き
兼好法師
小川剛生 訳注
角川ソフィア文庫
平成27年3月25日 初版発行
平成29年9月25日 13版発行
兼好法師の勉強ついでに、『徒然草』を読んでみようと、本書を図書館で借りてきた。
現代語訳がついている。最初は、古文で読み始めたのだけれど、注釈はページの下部に都度出ているとはいえ、、、読んでは注釈を見て、読んでは注釈を見て、、、 頭に入ってこない。結局、現代語訳を通読してみた。
本の裏には、
”日本人に最も親しまれてきた随筆『 徒然草』。 人生・恋愛・政道・自然観・美意識・ 有識故実など、 243段の話題がしばしば連想的な配列で並ぶ。 無常感が流れ、尚古的な思想が著しいが、実益をもたらす技能を尊重するなど、中世の現実を見据えた視点も併せ持っている。近代劇的に進んだこの時代の歴史学の研究成果を取り込み、 歴史、文学の双方の領域にわたり基礎的事項から再考。 本文、注釈、現代語訳のすべてを刷新した決定版。”
とある。
たしかに、これは、決定版といっていいかも。現代語訳をよんでいると、なんてたのしい!!こりゃ、楽しいじゃないか!!って感じ。『方丈記』とは全然違う。世間の与太話みたいなのもあれば、で?で?で?なにそれ??みたいな、おちがあるんだかないんだかわからないような話しとか。
目次には、序、1、から始まって、243段まで、すべてにタイトルがついている。これは?小川さんがつけたのかな?現代語訳にしても、他者の現代語訳とは、もちろんことなる訳もたくさんある。本書を読んでから、YouTubeで『徒然草』の朗読を何種類かきいてみたけれど、それぞれ、それぞれ、、、。解釈もはいるから、実際には、本書は、あくまでも小川さんの現代語訳、ということ。やっぱり、、、本当は、古文でちゃんと読めたらいいんだろうなぁ、、と思った。それこそ、、老後の楽しみか。。。。
例えば、有名な序の原文と現代語訳はこんなかんじ。
【原文】
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
【現代語訳】
無聊孤独であるのに任せて、 1日中 硯と向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を取り止めもなく書きつけてみると 妙におかしな気分になってくる。
現代語訳はわかりやすいけど、情緒みたいなものが消えちゃったなぁ、、、っていう感じがするのだ。でも、この現代語訳をしっているから、原文をよんで、おぼろげに情景が描ける。
「ものぐるおしけれ」を「妙な気分」っていっちゃうと、なんか一気に情緒が亡くなっちゃう感じがする。。。
で、最初は、一段ごとに、原文をよんで、注釈を読んで、、、ってしてみたんだけど、、、それはそれで流れがそがれてしまうのだ。で、開き直って、現代語訳だけ読んでみた。
そしたら、ちょっと、なによこれ!おもしろいじゃないの!!!与太話どころか、ちょっと下衆だわ、、っておもっちゃうものもあったり、、、冗談だか、本気だかわからない言葉が出てきたり。。。
先日の勉強会では、「『徒然草』のテスト対策参考書」なるものが売られているということも紹介されていた。原文をどう解釈するのか、っていうテスト問題が大学入試にでることがあるらしい。でも、全部の段が紹介されているわけではなく、やっぱり、、、一度通読してみると面白いと思う。続く段には、関連性があったり、全くなかったり、、、。
原文は、声に出して読んでみると、なんとなく、、、、わかるような気がしてくる。音読って、不思議な力がある。
面白い言葉をちょっとだけ、覚書。
・第3段 万事に立派でも、色恋に関心がない男は、 ひどく物足りないもので、まるで玉でできた盃の底が 抜けているような気がするであろう。
理想の女性を求め、露や霜に濡れそぼって、あちこちさまよい歩き、 親の折檻、世間の誹謗を憚って心の余裕もなく、あれやこれやと思い乱れ、それでいて女に逢えず、独りで寝ることが多くなり、うとうとする夜もないようであるのこそ 面白い。
・第8段 世間の人の心を惑わすことでは、色欲にまさるものはない。人の心は実に愚かなものだ。
・第15段 どこであれ、しばらく旅に出るのは、 目が覚めるような新鮮な気持ちがするものだ。
・第18段 人間は、簡素倹約を心がけ、 贅沢を避け、 財宝を持たず、 名誉や利益を欲しがらない 態度が立派であろう。昔から、 賢人が裕福であることは 滅多にない。
・第35段 悪筆の人が遠慮せず手紙をあちこちに書くのは良いことである。 見苦しいと言って、代筆させるのは嫌味なものである。
・第38段 名誉欲と利欲に酷使されて、 心静かに過ごす 暇もなく、一生を苦しんで終わるのは愚かなことである。
・第53段 仁和寺の法師が、酔って興に乗ったのあまり、傍らにあった足つきの鼎をとって、頭にかぶったところ、すこしきつい感じであったのを、鼻を平らに抑えて顔を御差し込み踊りでたので、一座大喝采であった。・・・・・中略・・・・・・(後に鼎が取れなくなって死にそうになる)・・・・。そうこうしているうちにある者が、「 たとえ鼻は切れてなくなるにしても、命だけなら どうして助からないことがあろうか。ただ 力いっぱい引っ張ってごらんなさい」というので、藁しべを周囲に差し込んで、 金属と肌とを話して、首もちぎれるばかり 引っ張ったところ、耳と鼻が取れて穴が開いたものの、かなえはやっと抜けたのであった。危うく 命拾いをして、長く 患っていたということである。
なんじゃ、この話は?!?!笑い話なのか、教訓なのか?!?!
・第71段 人の名を聞くと、 直ちに顔つきが推量される気がするのに、実際に会ってみると、かねて 想像していた通りの顔をしている人はいないものである。
・第72段 下品な感じのするもの。座っているあたりに 道具類が多いこと。 硯に筆が多いこと。持仏堂に仏像が多いこと。庭の植え込みに石や草木が多いこと。家の中に子や孫が多いこと。願文に自分の善根を多く書き寄せること。
多くても 見苦しくないのは、文車に乗せた書籍。ゴミ捨て場のゴミ。
・第79段 どんなことでも、あまり深く 立ち入っていない風を装うのがいい。立派な人は、たとえ 知っていることでも、そんなに 物知り顔で何か言うであろうか。
・第113段 40歳を過ぎた人が、時たまにひそかに色恋に耽るのはしかたがないとして、わざわざ口に出して、男女の情事や、人の身の上までも面白おかしく語るのは、実に不似合いで、みっともない。
・第117段 友とするのに悪いものが 7つある。第1は高貴な人、第2には若い人、第3には臆病で頑健の人、第4には酒飲み、第5には勇敢な武者、 第6には嘘をつく人、第7には欲の深い人。
よい友は三つある。第1には物をくれる友、第2には医者、第3には知恵のある友。
・第127段 改変したところで無駄なことは 改変しない方が良い。
・第140段 自分が死んで財産が残るようなことは、知恵ある人はしないものである。 ろくでもないものを溜め込んでおいてあるのもみっともないし、立派なものは、さぞ 執着したであろうと思われて虚しい気持ちになる。
・第149段 鹿茸(ろくじょう:鹿の袋角。補精強壮薬とする。)を鼻に当てて嗅いではいけない。小さい虫がいて、鼻から入って、脳を食べるということである。
・第151段 ある人が言うには、「50歳になるまで 名人の域に達しないような芸はやめるのが良い」という。 その年では懸命に習うほどの余生もない。
・第175段 世の中には理解に苦しむことが多いものである。何かことあるたびに、まずは酒を勧めて、無理に飲ませるのを面白がるのは、どういう訳か理解できない。
・第190段 妻というものこそ、男が持ってはならぬものである。(中略) 大した取り柄のない女を素晴らしいと思い込んで連れ添っているのであろうと、その男も取りに足らないように想像されるし、万一良い女であるならば、男を愛しく思って、 まるで我が仏ってばかりにかしづいているのだろう。言ってみればその程度のことだと思われてしまう。ましてや、家の中を取り仕切る女は、はなはだ関心しない。子供などができて、大切に 愛育していると、いやになる。
もう、どれも本当に秀逸!!って感じなのだ。現代語訳だし、途中だけを抜粋していると、この楽しさが伝わらないかもしれないけれど、、、いやぁ、普通にエッセイ集って感じで読んでみると、本当に面白い。
兼好法師にあって、お話してみたいな、って思う。
なんというか、アナーキー的な感じもするし、実に深く禅を極めているような言葉もあったり、本当に、人間らしいというか、人間臭いというか、、、。それが、随筆の面白さなんだろう。今の時代なら、だれみたいなひとかなぁ、、、、なんて、想像しちゃう。瀬戸内寂聴さんみたいな感じかなぁ。。。
これは、やっぱり、おすすめの古典です。時に我がことを省み、時に笑い、時に神妙に、、、。あぁ、この面白さの発見は、誰かと共有したくなる。