『私の日本語雑記』 by 中井久夫

私の日本語雑記
中井久夫
岩波書店 
2010年5月28日 第1刷発行

 
とある有志の会で、日本語がテーマだった時に話題になった。いつか読もう、、、と思っていて、だいぶたってしまったのだけれど、図書館で借りて読んでみた。

 

著者の中井さんは、言語学者ではない。精神医学者。1934年生れ、京都大学医学部卒業、名古屋市立大学医学部 助教授、 神戸大学医学部教授、甲南大学文学部教授。 兵庫県こころのケアセンター 初代所長。 ひょうご被害者支援センター 理事長を歴任。著書も多く、医学からエッセイ、幅広く活躍。残念ながら、昨年、2022年逝去。

これは、言葉や言語にまつわるエッセイ集。


表紙の裏の説明には、

精神科医、またエッセイスト・翻訳家として知られ 著者の豊かな言語経験を、初めてまとまった形で書き綴ったオリジナルな日本語「随論」。著者の文章感覚や文章表現の極意とも言うべき 日本語の実践的使い方論、著者自身の言語形成に関わる個人史、外国詩の翻訳経験に基づく文章論的発見、言語文化・文明論的な巨視洞察など、全編著者ならではの創見に富み刺激的です。言葉の面白さを発見し、知的教養を楽しむ 豊穣な世界へどうぞ。”
とある。

 

目次
1 間投詞から始める
2 センテンスを終える難しさ
3  日本語文を組み立てる
4  動詞の活用形を考えてみる
5 言語は 風説に耐えなければならない
6 生き残る言語  日本語のしたたかさとアキレス腱
7 では 古典語はどうなんだろうか 
8 最初の精神医学書翻訳 
9 私の人格形成期の言語体系 
10 訳詩体験から詩をかいまみる
11 文化移転としての詩の翻訳について 
12 訳詞という過程 
13 翻訳における緊張と惑い 
14 我々はどうして小説を読めるのか
15 日本語長詩の現実性 
16 言語と文字の起源について
17 絵画と比べて言語の特性について 
18 日本語文を書くための古いノートから 
あとがき 

 

感想。
面白い!
本当の精神医学のお医者さんが、精神医学書の翻訳から詩の翻訳、そして、このようなエッセイまで。表現力豊かで、楽しい。たしかに、難しいというか、精神医学など私の知らない分野の話もでてくるので、う~ん、と考え込むこともなくはないのだが、でも、なんだか、楽しい。

 

冒頭に、中井さんが若かりし頃(30年前)、インドネシアの学会に参加したとき、インドネシア語のいくつかの単語がなんども聞こえてくるので、覚えてしまった、というはなしがでてくる。わかる。何度も聞こえてくる単語だと、きっとよく使う一般的の意味なのだろうと推論できて、その意味が確認できた時、「あ、私は○○語がわかるかも」なんて思ってしまったり・・。

意味が分からずとも、聞き取れる、というのは、言語学習の最初の一歩だ。

インドネシア語は、「東洋のイタリア語」と言われるらしい。日本人には聞き取りやすいのだろう。イタリア語も、「カタカナ読み」で発音すればいいと言われる。インドネシアに赴任した人の多くが「インドネシア語は簡単」という。それは、文法のシンプルさもさることながら、容易に聞き取れる、ということなのだと思う。

ちなみに、中井さんが気が付いたインドネシア語は、「サヤ」、「私」という意味。私が、覚えたインドネシア語は、「ジャラン」。「行く」とか「通り」という意味。「じゃらんじゃらん」というと、「散歩」という意味らしい。

 

で、学会の講演から「間投詞」の話に。日本語の講演では、「あのー」「あー、あー」がしきりに挟まれる、、と。英語でも、this way とか you know といった間投詞がないわけではないけれど、これらは、「これだぞ」とか「しらないだろうけど」と相手に自分の考えを叩き込む。それに対して、日本語の「あー」「あのー」は内向的なためらいだ、と。

そして、日本語の「あのー」は、日常生活でも登場する。「あのー、すみません。」「あのー、失礼ですが、、、」などなど。「あのー」は、話し手が思考の最中であることを意味していて、聞き手は続きを聞く姿勢になる効果があるのでは、、と。聞き手に、ゆとりを持たせる。でもって、官僚のスピーチでは、ついでに「えー」も挿入される、と。原稿にはないのにね。

大平首相は、「あ~う~」が有名で、一語一語、考え抜く人だった。岸信介首相は「それはだ、いうまでもなくだ」と「」を付けるので、「つっぱねる」ようだった。小泉純一郎は、「あのー」がないことで際立っていて、文が短い。とりつく島がない、という印象。

話し方には、人格が出る、ってこと。


それは、通訳も然り。もそもそと小声で話す人、ぶっきらぼうにはっきり話す人、抑揚がありすぎて耳障りな人、アナウンサー気取りだけど訳がなってない人、、、、。

通訳は、長く聞いていて疲れない話し方が求められる。それには、慣れもあるけれど、うまい話し方の人の話をたくさん聞くっていうことが大事な気がする。昨今の素人YouTube は、内容が面白くても話し方が残念な人が少なくない。言葉の選択だけでなく、話し方も大事。ま、私も人のことをいえないけど。

 

と、話し方の話から、言葉の選び方まで、本書の内容は多岐にわたる。

 

他にも、クスっとわらっちゃったり、なるほどと思ったことを覚書。

 

・敬語が行き過ぎた「超敬語」は、おかしい。「患者様」は、変だ。みんな大真面目につかっていたけど、と。うんうん、私もそう思う。

 

 ・文末の「のである」を消去しても、文章の意味はかわらない(のである)。

 

・言葉の吟味には、2種類ある。
 パラディグマ的選択 → 似た言葉の中から選ぶ。(例) きれい、うつくしい、美貌の、
 シンタグマ的選択 → 全体的見地から選ぶ。 (例)私、ぼく、俺、、
いずれにしても、文脈(contexst)や情況(circumstances)によって、言葉は選択される。その選択は、実のところ、言葉だけでなく人生の選択もそうなのだ、と。
文房具選びからパートナー選びまで、パラディグマ的選択かシンタグマ的選択なのだ。

キャリア選びもそうかもしれない。会社選びというのは、パラディグマ的選択。会社員になるのか、起業するのか、はたまた研究者としてやっていくのか、それが、シンタグマ的選択、かな?

 

「五石六鷁(ごせきろくげき)」の文の単純であるが、強烈な伝える力を「五石六鷁の作法」という。中国の史書『春秋』についての注釈で、認知の順番に語順を選んだだけのことだが、一見単純な叙述文のようでいて、極めて分かりやすい。本文は、次のとおり。

”春、王の正月戊申、朔、宋に隕石あり、五つ。是月、六鷁退飛して宋の都を過ぐ”

私には、漢文はよくわからないけれど、起きた出来事を、ただシンプルに並べただけで、伝えたいことが伝わりやすくなる、ということらしい。文章だけでなく、。講演、放送、対話、何においても、話しがあちこちに飛ぶより、順序だてて話した方がわかりやすい、ということだろう。

小学校の夏休みの宿題で、起きた出来事だけつらつら並べると、つまらない、っておこられたもんだけど。ただ、起きたことを連ねたとしても、その時感じたこと、見たことをどう表現するか、そういう工夫があると、随筆になるのかも、ね。

 


米原万里さんの言葉。「ロシア語と日本語」の同時通訳の場合、ロシア語を母語としていても日本語を母語としていても、「日本語からロシア語」にするほうが速くできる。それは、日本語の方が、和語、漢語、外来語の区別がつきやすく、重要な言葉がわかりやすいのだ、と。

いやぁ、、、私にとっては、日英の方が、英日よりむずかしいけどなぁ、、、、。

 

・日本語は、漢字があることで、塊として理解することが容易。海外で成長した8歳の日本の少女が、『星の王子様』をすらすら読めるのは、英語を塊=ゲシュタルト として読んでいるから。塊で把握するって、大事。通訳の最初の一歩は、セグメントで訳すこと。

 

サリヴァンの『現代精神医学の概念』の翻訳をしているとき、米原万里さんの『不実な美女か忠実な醜女か』、あるいは直訳と豪傑訳、というだけのものでもないということに気が付いた、と。米原さんの『不実な美女か忠実な醜女か』というのは、話者のいっていることがわかりにくければわかりやすいように訳すのが「不実な美女」で、「忠実な醜女」は逆に、どんな発話であろうと、そのとおりに訳す、ということ。たとえ相手が怒りだすようなことでも。でも、直訳とか意訳とか言うこととは別に、文章のリズムもあるし、流れもあるのではないか、と。
そして、翻訳に際しては「原文をあまり何度も読まない方がいい」こともある、と。繰り返し読むと実験心理学「意味飽和」といわれる現象が起きる。次はどうなるか、ドキドキしながら読んだ方が、重要なこととそうでないことが区別しやすい、という感じ。

 

ポール・ヴァレリーの『若きパルク』の翻訳を通じて、言葉における拍子と流れの大切さを実感。そして、日本の詩作も、同様に拍子と流れの美しさに、人は惹かれるのでは、と。

森鴎外の「沙羅の木」
”かちいろの
ねぶかわいしに
しろきはな
はたとおちたり、
ありともし
あおばがくれに
めえざりし
さらのきのはな”

鴎外が日露戦争の出征にあたって、辞世の含みのある詩。。。

ヴァレリーの詩は読んだことがないけれど、ちょっと、読んでみたくなるような話。詩を翻訳するというのは、文化を移転するようなもの、、、と。

 

・翻訳の話から、海外への技術移転の話へ。戦後、日本の技術は多く海外に移転された。その際にその任務に適した人材は、言語のできる人ではなかった。
① 技術移転に熱意を持っていること
② 日本語も英語もほどほどで、ジェスチャーふくめ、全てのコミュニケーション手段を総動員して相手に伝えることができる

という、2点が重要だった。言葉ができても、伝わらないことがある。

何かを伝える、この場合「技術を伝える」時、受け手は受けた情報からイメージをふくらましてもらわないといけない。そのためには、時には言語ができることが邪魔になることがある。

うん、これは、よくわかる。

 

雄弁に語るのは、なにも言葉だけに限らない。

 

とまぁ、日本語についての雑記。おもしろかった。くだらないけど、思わず爆笑してしまったのは、「負うた子に教えられ」を「大蛸に教えられ」だと思っていたというエピソード。音だけだと、だれでも勘違いってあるものだ。

赤い靴の女の子がつれていかれたのが、「異人さん」ではなく「いいじいさん」とかね。

 

日本語って、面白い。

 

中井さんの本、これまで読んでこなかったので、他の作品も読んでみたいと思った。まっすぐな人柄がつたわってくる、素敵な一冊だった。

 

読書は、楽しいよ。