禅の言葉:釈迦涅槃図 「自灯明 法灯明」

禅の言葉:釈迦涅槃図 「自灯明 法灯明」

 

恒例の寒中坐禅に参加してきた。いつもの全生庵

都内は、大雪警報。。。雪が降ろうが槍が降ろうが坐禅はある。

 

東京駅あたりは雪というよりは雨っぽいし、そう多くは積もらないだろう、、と思って全生庵へ向かったのだが、18:00過ぎに日暮里の駅を降りると、すごいボタ雪!しかも、既に、積もっている。。。これは、、、足元危険だ!いつもは、ショートカットの近道で歩くのだが、人通りの少ない道はさらに雪深くなっている恐れがあったので、何時もの坂道は危険! 転びたくはないので、夕やけだんだんの商店街を通って全生庵へ向かう。いやいや、雪がすごい・・・。ブーツできたけど、ペンギン歩き・・・。

 

全生庵の庭も真っ白だった。そして、しんしんと雪が降り続く中の坐禅。さすがに、参加を見合わせた方も多くて、いつもの半分くらいの参加者。人も少なく、寒かった・・・。途中、雷の音も。雪と雷、、、。結構、印象的な組み合わせ。坐禅の最中、住職の子供たちが庭で雪で遊んでいるらしき声がしていた。さすが、子供は強い。坐禅は裸足なので、本堂に向かう廊下を裸足であるかねばならない。廊下の板張りの寒いこと寒いこと・・・。いつもポーカーフェースのある紳士も、「ひえる~~~~」って顔をされていた。わたしも「ひえぇぇ」って顔をしていたので、目が合って、思わず二人でクスリ。。。と、笑ってしまった。

 

坐禅の後の、住職のお話。

2月は、15日が釈迦の亡くなった日なので、全国寺院で「涅槃会」が行われる。なので、2月に床の間に飾られる軸は、「釈迦涅槃図」。今年も、写真をパチリ。

やっぱり、ちょっと、怖いような気もする一枚。

 

 

お話は、「自灯明 法灯明」のこと。昨年も教えていただいた。

megureca.hatenablog.com

 

お釈迦様の最後の教え。すべてはお前たちに教え切ったので、教えに従って生きていきなさい、という言葉が「自灯明 法灯明」。

 

そして、住職は、「涅槃」について、お話をされた。涅槃って、「涅槃で待つ」なんていって死んでいった人がいるから、あの世だと思っている人がいますけど、違いますよ、って。

 

涅槃というのは、サンスクリット語で「ニルヴァーナ。すべてが燃え尽きて、消えた状態。つまりは、煩悩が消え去った状態。悟りの境地。ということだそうだ。

 

ちなみに、涅槃で待つといって死んでいったのはだれだっけ?と思って、調べてみたら、俳優の沖雅也だった。1983年「おやじ、涅槃で待つ」といって自殺された。なんとなく、記憶に残っている。

 

悟りの境地で待っているよ、っていうことだとすると、俺は親父より先に悟りの境地についたぜ、ってことになってしまう。。。まぁ、そんなつもりではなかっただろう。

 

悟りの境地とは言わないけれど、煩悩から解放されると、心穏やかになれるんだろうなぁ、とは思う。だから、心穏やかでいる時間をもとめて、私は坐禅に行っているんだろう。

 

脱サラしてから、煩悩は減ったなぁ、という気はする。煩悩というか、イラっとしたり、嫌な気分になったりすることが減った。年齢というより、大会社という出世競争社会から一歩身を引いたことで、なんだかホッとしているのだと思う。私自身は、偉くなりたいとかまったく思わなかったけれど、偉くならないと自分の思うように進められないのが会社という組織。また、出世欲でむんむんしている人の近くにいると、疲れるのだ。。。それが無くなって、穏やかに過ごせるようになったんだなぁと思う。別に、会社が嫌いでやめたわけではないけれど、離れてみたら、心が平和になった気がする。

 

会社という組織に属していなくても、仲間はたくさんいる。助けてくれる人もたくさんいる。あるいは、私が誰かの助けになれることも、たまにある。50歳を過ぎると、これまでにいただいた恩を、社会にお返しするターンだなぁ、ってつくづく思う。でも、お返ししたり、恩を先送りしたり(若い世代への恩送り)するにも、自分の中の無形資産は錆びていく。だから、やっぱり、いくつになっても学びなんだと思う。

 

涅槃には程遠いけど、やっぱり、ぼちぼちと坐禅も続けていこう。。。学びも続けていこう。。。

 

ぼちぼちとやっていても、継続は力なり。って、信じている。