『坂の上の雲 五』 by 司馬遼太郎

坂の上の雲 五
司馬遼太郎
文藝春秋
2004年6月15日 新装版第一刷発行
2010年12月25日 新装版第五刷発行
*本書は、昭和47(1972)年6月に刊行された『坂の上の雲五』の新装版です。

 

坂の上の雲 四』の続き。まだ、バルチック艦隊はやってこない。マダガスカル島のノシべで投錨したままのロジェストヴェンスキーたち。そして、旅順の戦いの後に一旦日本へもどった東郷ひきいる海軍たち。その間も、北へ北へとすすむ乃木率いる陸軍たち。五巻は、主に日露戦争当時のロシアの国内の状況や、旅順のあとの奉天の戦いまで。諜報員として活躍した明石元二郎についても詳しい。

 

目次
黄色い煙突
大諜報
乃木軍の北進
鎮海湾
印度洋
奉天

 

感想。
そうか、、、血の日曜日」事件は、このころのことだったか。。
日露戦争についての司馬解釈が、私の中では勉強になった。あくまでも、司馬さんの歴史観、ロシア観ではあろうけれど。佐藤優さんは、『坂の上の雲』でロシアを知った気になってはいけない、っていっているので、一応、そのつもりで読んだ。

megureca.hatenablog.com

 

日露戦争で日本が勝ったのは、ロシアが腐敗していたから。ロシアが自滅した、ということ。バルチック艦隊は、数か月に及ぶ航海で、みんなへとへとだった。兵士たちのモラルもボロボロだった。また、ロシア国内の情勢について無知に等しかった日本は、自分たちが強かったと勘違いしたのが、もう一つの悲劇を生んだ。新聞社をはじめメディアが国際情勢を理解してなかったこと、正しい報道をできなかったことも、国民を無知にした罪として語られている。

新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。”って。

 

旅順が児玉源太郎が指揮する乃木軍によって落とされたのは、1905年1月2日。その数日後、1905年1月9日に、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルク血の日曜日事件」はおきた。ガボン率いる労働者の平和的な請願デモに、軍が発砲。1000人が負傷し、200人が殺された。唯の平和的デモだったのに。そして、この事件はロシア革命のきっかけの一つとなる。そのころ、明石はロシア国内の革命派と近しい関係になっていた活躍の様子が描かれている。ただ、司馬さんは、明石がすごかったというより、時代の流れだったのだろう、、、と。

 

「大諜報」は、明石元二郎についての章。明石は、その風貌も性質も、かなり変な人として説明されている。差別的だろ?と思われるのは「まるでダッタン人のような」、、、って。明石は、福岡藩出身の軍人で、ロシアに着任すると、ドイツ語、フランス語、ロシア語を次々とマスターしていく。そして、「露国史」という長文エッセイにして、ロシア観察を参謀本部へ報告する。各国を転々としながら、地下組織ともつながって情報を得ていく。ポーランドフィンランドなどのロシア周辺国は、ロシアから侵攻されてきたので、日本も自分たちと同じ運命に陥ることに共感してくれていた。だから、それらの国の活動家たちにとって明石は同志だったのだ。そして、明石は彼らの活動に協力しつつ、彼らからロシアの情報を得ていく。それは、日本にとっては大きな意味があった。ただ、、、明石の実力ではなく、時代の流れだった、、、って。たまたま明石だった。でも、語学堪能とか、見た目はスパイらしくないとか、、それはそれで明石の実力だろう。

ちなみに、明石がまなんだロシア語として「Valdivostok ウラジオストックが出てくる。日本からすぐそばのロシアの地名だ。それは、「東(vostock)を征服せよ」という意味だそうだ・・・。

 

また、
ロシアとポーランドの関係は、歴史時代における日本と朝鮮の関係にやや似ている”という一文がでてくる。日本が朝鮮を通じて大陸の文化を学んでいったように、ロシアはポーランドを通じてヨーロッパの文化を取り入れていった。だのに、、、近代化した日本は朝鮮を併合しようとし、ロシアはポーランドを併合しようとした・・・。そして、両国間に悲惨な歴史をつくってしまった・・・。
おっと、、、これは、、まさに今なお続く、日本と韓国との歴史問題、ロシアと周辺国、ウクライナでつづく戦争、、、。


当時のロシアは、皇帝ニコライ2世帝政ロシア最後の皇帝)による専制国家。独裁体制であり、アメリカのルーズヴェルトは「専制国家がかつはずがない」という見方で、日露戦争はロシアが自滅するとよんでいた。

ロシア皇帝のような絶対的独裁権力者のもとでは、軍隊ですら「敵をつぶす」ことより、「皇帝にきらわれない」ことを重視した。そういう、くさりきった組織になっていたのが当時のロシアだったのだ。

 

当時の日本の戦争に対する姿勢は、「江戸期」という長期の平和時代の影響を受けていて、軍事についての感覚の鋭敏さを失っていた。それでも、ロシアの独裁体制とはちがって、国内での評判をきにすることなく、「敵をつぶす」に専念することができた。

戦力は、軍人の数も、武器の数もロシアが上回っていた。日本軍、乃木軍も好古も、ずっと兵力不足、武器不足に悩まされながら戦ったのだ。実際、死者は日本の方が多い。武器で日本がロシアを上回っていたのは、機関銃の数くらいで、でもそれが威力を発揮した。

 

鎮海湾では、東郷平八郎らが再び西の海へ出発していく。船には真之も乗っている。出発の際の「軍楽隊」の演奏の話が。なんでも、軍隊で楽隊をつくるというのは、薩英戦争のときに、イギリス軍が音楽で士気を高めているのをみた薩摩藩が「あれはよかもんじゃった」といって、真似をしたのが最初らしい。そして、戦艦三笠でも、呉をでて江田島佐世保と海を回った船で「軍楽隊」が演奏をしたらしい。

 

印度洋では、ふたたび、マダガスカル島で足止めを食っているバルチック艦隊。2か月も投錨していたので、船のそこには海藻やら貝殻やらがくっつく。それは、船の推進力を疎外するので、こまめな掃除が必須だった、と。そういえば、今どきの船は、それらがくっつかないように、なんらかの薬剤入り塗料がぬられる。

 

北上した日本陸軍だったけれど、日本はこのままでは財政的滅亡に追い込まれかねないくらい、財政的にひっ迫していた。戦いが長引くほど、財政の危機的状況は悪化する。クロパトキン率いるロシアの30万人の兵に対して、日本軍は20万人。しかも、すでに多くの兵士を失っており、補充されてくる兵士は年寄りばかり、、、。すでに日本軍の質は、開戦当時から大きく下がってしまっていた。お金はなくなる。春になると陸はぬかるんで移動も困難になる。はやく、はやく、戦いを始めなくては!!という状況にあった日本は、クロパトキンよりわずか数日早く進撃を開始。兵力不足の中、好古も、乃木軍も日本軍全体の囮となってロシア軍を惹きつける。クロパトキンは、日本の作戦に翻弄させられる。児玉源太郎は、クロパトキンの「恐怖性質」つまりは怖がりで、日本軍を実際より大軍と思い込んで右往左往するであろうことを見込んで、奉天の作戦を展開した。クロパトキンは、まんまと、、、翻弄される。ほんの3万しかいない乃木軍を、クロパトキンは10万の兵を思い込んで恐れた。

好古は、進んでは止まり、進んでは止まり、深追いせずに騎兵隊を少しずつすすめていく。クロパトキンには、これも恐怖だった。

ロシア軍から逃げてきた兵士と好古がばったり出くわすシーンがある。好古の「ああ、あいつはマツヤマか」というセリフ。当時、「松山」に、ロシア人捕虜の収容所があった。その当時の日本政府は、日本が未開国ではないことを世界にしってもらいたいという外交上の理由で戦時捕虜の取り扱いについて国際法の優等生だった、のだそうだ。

松山に収容所とは、、、。しらなかった。

 

第五巻は、奉天の戦い途中まで。
好古は、やっぱり、戦地でも「シナ酒」を飲んでいる。

戦争と好古の大胆不敵な行動とが、、、おもしろい。 

 

またちょっと、時代の出来事が頭の中でつながってきた。

読書は、楽しい。