『マンガ日本の歴史 8 密教にすがる神祇と怨霊の祟り』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 8
密教にすがる神祇と怨霊の祟り
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年6月5日初版印刷
1990年6月20日初版発行

 

『マンガ日本の歴史 7 大仏開眼から平安遷都へ』の続き。最澄空海が唐に渡ったところから。

 

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目次
序章 密教伝承・最澄空海
第一章 擡頭(たいとう)する藤原北家
第二章 徘徊する怨霊たち
第三章 摂関政治への展望
第四章 物語世界の創造

 

804年に唐に渡った空海最澄だったが、最澄天台山国清寺にはいり、翌年に帰国して、比叡山延暦寺天台宗を開いた。空海は、遣唐使藤原葛野麻呂(かどのまろ)と共に長安にのぼり、翌年、青龍寺阿闍梨恵果胎蔵界法と金剛界法を統合して密教を大成させた)に出会った。
 
阿闍梨恵果から「大日如来じゃ」といわれた空海は、あなたのような人を私は待っていたと、 厚い信頼を受けるを受ける。806年、空海は帰国の途につく。

 

空海が帰国したことを知った最澄は、自分が学びきれなかったものを空海が学んだとみて弟子入りを申し入れる。空海のもとに、自分の弟子と共に修行にはいり、灌頂阿闍梨から法をうける)をうけたものの、大法の秘伝はなかなか授けてもらえない。最澄は、弟子の泰範(たいはん)を空海の元に残して比叡山にもどるが、泰範はその後も最澄の元には戻らず、それは、最澄空海は仲違いする原因の一つとなった。

 

その後、空海は、816年に高野山金剛峰寺修験道場として開き、823年に東寺密教道場として朝廷 より与えられ、教王護国寺とする。

 

第二章では、いかに藤原北家が擡頭してきたか。
嵯峨、淳和、仁明(にんみょう)天皇の時代は、政治的には安定していた。だが、平安京の建設は途中で止まったままで、盗賊出没など治安は乱れていた。そこで、検非違使別当が、置かれ、京中の行政全般をとりしきるようになる。

 

嵯峨太上天皇が歿したあと、後継者争いから、「承和の変」が起こる。承和の変では、恒貞親王橘逸勢伴健岑(とものこわみね)らが、冤罪?で地位はく奪、島流しとなる。それをしきったのが、藤原良房。そして、良房は大納言に昇進し、自分の甥にあたる道康親王仁明天皇の長子)を皇太子とすることに成功。良房は、天皇外戚となった

そして、良房は娘の明子を道康親王の輿入れさせ、惟人(これひと)親王を生ませる。親王のおじいちゃんとなった良房。

 

864年、富士山噴火、平安京地震、病気が流行るなどして、人々はこれまで無念のうちに朝廷を追われた人たちの祟りだと考えた。そこで、朝廷は、「御霊会」といって怨霊を鎮めるための会をするようになる。それは、民衆の間にもひろがり、今でも残っている代表的なものが、祇園祭。また、同じころ、神は仏の仮の姿となって現れたものだとする「本地垂迹思想」がひろがった。

 

良房は、甥の基経(もとつね)に、大きな御霊絵をとりしきらせ、以降、良房が築いてきた藤原北家の影響力を、基経が引き継いでいく。そして、幼く即位する天皇たちに対して、摂関政治を始める。

 

文徳天皇(55代)、清和天皇(56代:文徳天王の子)、陽成天皇(57代:清和天皇の子
)、光孝天皇(58代:仁明天皇(54代)の子)、宇多天皇(59代)と、良房、基経による朝廷への影響力は増していった。

このころ、「竹取物語」という現存する日本最古の物語がうまれた。 物語は現実と内面の葛藤に喜び 苦しむ人間が主人公であり、神話的世界とは全く違う世界として展開されていた。

かぐや姫は、今なお語り継がれる昔話。なんというロングセラー。

 

おまけ
・時代概説 義江彰夫
9世紀ごろ、律令国家の勧農事業を背景に、地方の生産力が増し、獲得した富を従来のように神と共同体の名に帰さず、自分の私財を増していく豪族たちが増えていく。だが、在来の土地の神々は、個我と私有の罪に目覚めた人々を救う力をもたない。そして、そこに仏教がはいってくる。また、怨霊信仰の形成により、密教の手をかりながら、鎮魂の祭りが盛んになっていく。

 

・服装の歴史 髙田倭男
「養老衣服令」にて、礼服がさだめられていた。社会の推移とともに、位による色わけも変化していった。天皇当色(とうじき:位によって定められた色)は、白としていたが、嵯峨天皇の頃には、「黄櫨染(こうろぜん)」が使われた。この色は、中国の帝王が用いた色に従っていて、太陽の色を象徴するといわれた。

 

・家具とインテリアの歴史 小泉和子
正倉院の家具: 屏風は、『日本書紀』によると、最初は天武朝に新羅からはいってきた。毛氈(もうせん)は、材質はフェルトで舶来品。柄のあるものと、無地のものとあり。
胡床(こしょう)は、椅子。椅子は、権威の象徴。
挟軾(きょうしょく)は、今の脇息(座椅子に座るときのひじかけ)だが、貴人が身体の前に置いて使った。
櫃(ひつ)は、宝物の容器。

 

・建築の歴史 藤井恵介
奈良時代の終わりには、密教の建築がひろがる。最澄空海の平安仏教の祖師たちが企画した建築と空間は、それぞれの新しい仏教境地のための空間を、最澄が大事にした「行」と結びつけて構想した。奈良時代の仏堂が本尊を中心とした浄土の表現であったことに対し、はるかに流動的な空間であり、その空間の質が「行」を行う僧侶の主体性に委ねられた。

 

怨霊信仰があって、天変地異があって、最澄空海の教えがひろがっていったということ。神でも仏でも、一緒にした「本地垂迹思想」は、そうして広がった。

 

うん、なるほど。聖徳太子の時代の仏教から、空海最澄密教の教えへの移行は、世の中の変化もあったということ。いつの時代も、変化のある時、宗教もかわる、、、。

 

 

 

 『伴大納言絵詞』部分