『小林秀雄の恵み』  by 橋本治

小林秀雄の恵み
橋本治
新潮社
2007年 12月30日 発行
*初出「新潮」2004年1月~2006年4月。最終章は書き下ろし。

 

とある懇話会で、小林秀雄本居宣長が課題本となり、2004年5月、6月と二か月にわたって読んできた。でも、やはり、、、難解なのだ。小林秀雄が11年近い歳月をかけて晩年に書いたものを、私なんぞがちょっと読んだからと言って理解できるはずがない・・・。たしかに、本の構成としてはゴッホの手紙』のように対象とする人の文章をまるっとそのまま引用しながら、解説していくというスタイルで、そのことを理解したうえでよむと、チョットはわかる気もする。でも、そもそも本居宣長の著書からの引用は古文だし、、、わからなくても仕方がない。。。とあきらめかけていた時、大先輩から「本居宣長』を読まずに一生をおわるのはもったいない」との言葉。そして、いくつかの参考本を紹介してくださった。その一つが、本書、橋本治の『小林秀雄の恵み』だった。

 

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橋本治と言えば、「 止とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへいく」と、 学園闘争最盛期、東大のポスターを作ったひと。そして、私が尊敬する明石の師匠(御年75歳、元小料理屋店長、ズボンのポッケにいつも文庫本を入れている関西のおっちゃん)も、「橋本治っちゅうんは、おもろいなぁ」と言っていた。

 

で、図書館で借りて読んでみた。

 

目次
第一章 『本居宣長』の難解
第二章 『 本居宣長』再々読
第三章 「 語る小林秀雄」と「 語られる本居宣長
第四章  近世という時代 あるいは「ないもの」に関する考察
第五章 じいちゃんと私
第六章 危機の時
第七章 自己回復のプロセス
第八章 日本人の神
第九章 「近世」という現実
第十章 神と仏のいる国
終章 海のみえる墓


感想。
面白い!
これならちょっとわかる。
わからないけども、全然、、、、、わかる気がする。

それは橋本さん自身が、「小林秀雄の言っている事はわからん」と言いながら、彼なりの解釈を語ってくれるから。

読みながら、あぁそうか、そうか、そうかもしれない、と思えることがたくさん出てくる。といっても、まだまだわかっていない。それでも、おぼろげに『本居宣長』で小林秀雄が何を言わんとしていたのかが、、、ちょっとだけ輪郭を現したような気がする。

 

そもそも小林秀雄の『本居宣長』と言う本は、本居宣長自身のことを書いているわけではない。確かに書いているのだが、それを通じて、小林さんは、「日本における学問について語っている」、と橋本さんは言う。

 

明治以降は西洋学問が近代学問であって、それ以前には日本には学問が無かったかのように言う人がいるが、学問した人がいるではないか!本居宣長が!と、そういう本なのだ、と。

 

本居宣長』は、いきなり宣長の遺言書からはじまるのだが、その後は、延々と江戸時代の儒学者の話が続く。宣長が影響を受けた人たちということではあるのだろうけれど、どんどん、さかのぼっていく。私は、『本居宣長』を読みながら、出てくる人の年表を作ってみたくらいだ。小林秀雄が、なんでそんな人々を引用しているのかわからないままに、とりあえず、、、迷子になりながらも読み進む。どうやら、橋本さんも同じ経験をしたようで、おぉ!!そうか、みんなそこでも迷子になるのか!と膝を打つ。


そして、橋本さんは、『本居宣長』という作品は、宣長を語っているのではなく、学問とは?を語っているのだと。

 

そして、宣長の学問に対する姿勢を小林さんのそれに重ねる。

 

宣長の時代、つまり江戸時代は儒教が政治に取り入れられていった時代。それより前、近世以前の日本の思想は、「仏教」だった。それが、戦国時代、下剋上の時代には頼るべき親分もいなければ、仏様もあてにならない。人々は、自分で生きのびるために智恵を考え出さねばならなかった。それこそ、自分で考えるという学問の目覚め。だから、下剋上を「でもくらしぃ」という人もいるとか。それが、江戸時代に入って、儒教という思想が政治の世界でとりいれられるようにある。それに乗じたのが林羅山。僧でも儒教家でもどっちでもよかったのが林羅山。それに対して、中江藤樹は長いものにまかれるのを嫌って、独学での儒教を貫いて陽明学へと進む。その延長に、宣長の思想がある。世間から距離をおいて、「独学」していたのが藤樹であり、本居宣長かつ、宣長の本業は町医者であり、決して学者ではない。学者ではないものとして自由に学問をしたのが宣長なのだ。だから、師匠でもある賀茂真淵とも歌をめぐって対立したし、上田秋成と神話をめぐって対立したのだ。自由に学問したひとが、宣長なのだ、という気がしてきた。

 

橋本さんは、その姿を小林秀雄に重ねる。

 

本居宣長』は、宣長の遺言書ではじまるが、その前に折口信夫宣長の話をしたら、「宣長はね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」といって去って行ってというエピソードがでてくる。人の話をきいているんだか、聞いていないんだかわからない態度をとっていたあげく、「では、さようなら」といって去っていったことが書かれている。

 

橋本さんは、ここで小林秀雄折口信夫という「知的権威の嫌な奴」を書いていて、そこと距離を置く小林秀雄の姿を、時の権力とは距離をおいて学問した宣長と重ねている。

なるほどぉぉ!!!さもありなん!!!なのだ。

私は、ここで感動。

 

なんで、折口信夫の言葉がこんな風に引用されるのだろう?と思っていた。だって、そのあと続く小林秀雄の文章は、『源氏物語』ではなく宣長の遺言状であり、『古事記伝』であり、『玉勝間』なのだ。


また、小林秀雄のさまざまな作品を解説しつつも、63歳で書き始めた『本居宣長』の前にベルグソンの『感想』というものを途中でやめている。5年続いたものを突然辞めて、それからわずか2年後に『本居宣長』を書いた。『感想』は、本人の希望で、著作目録から消されている。自分で否定してしまいたいものだったのか・・・。

 

橋本さんは途中で筆を折ったその理由を、「小林秀雄自身がもう若者ではなく、若者である必要も感じられなくなった時、ベルグソンを学ぶと言うことの意味を手放したのではないだろうか。」と言っている。今更、ベルグソンを語り続けるのは、若者で有ろうとし続けているようで、そんな自分を否定したかったのではないか、と。 

 

自分にとっての「学問とは」を問い続けた小林秀雄の晩年の頭の中が『本居宣長』なのだとすれば、「学ぶとはどいうことなのか」という問いをもって『本居宣長』を読めばいいのかもしれない。

 

本書の中では、他にも小林秀雄の単行本『無情といふこと』の中にある『当麻(たえま)』で、世阿弥のこと、能の美についてでてくる。

「美しい花がある。花の美しさというようなものはない」という言葉。

 

深く考えず、そのままその言葉に耳を澄ませばいい、、、って感じ。

 

『感想』をなきものにした小林秀雄だが、平安時代大江匡房は自分の書いたフィクション以外の書物を焼き捨てた、という話も出てくる。ちょうど、『まんが日本の歴史』で後三条天皇に使えた大江匡房の話をよんだところだったので、ちょっと深く考えてしまった。人が文章にして残すのは、実は、真実の吐露ではないものだけかもしれない・・・・なんて。

 

とても中身が濃いし、小林秀雄の作品を読んでいないと何をいっているのかわからないところのほうが多いとおもうけれど、これは、これは、、、私には大いに助けになる一冊だった。まさに、「恵み」である。

 

橋本治の恵み」がここにある。

彼の作品、他にも読んでみよう。

 

そして、『本居宣長』は、何度でも読み返してみようと思う。まだ、ブログにかけるほどの理解に達していない。いつか、、、自分の言葉で語れる日が来たら、、、書いてみようと思う。10年後かもしれないけど。。。