『航西日記  パリ万国博見聞録 現代語訳』  by 渋沢栄一・杉浦穣

航西日記
パリ万国博見聞録 現代語訳
渋沢栄一・杉浦穣
大江志乃夫 訳

講談社

2024年3月
* 本書は 1961年、筑摩書房より 刊行された『世界ノンフィクション全集 14』所収の「航西日記」を増補し、文庫化したものです。

 

渋沢栄一の本なので、図書館で借りて読んでみた。

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本の裏の説明には、
” 1867年、パリ万国博覧会に派遣された将軍徳川慶喜の弟・昭武に随行した。渋沢と杉浦による旅の記録。植民地化するアジア、パリの壮観な凱旋門ナポレオン三世や各国の国への謁見、一万人が働くベルギーの製鉄所、イギリスの銀行での厳密な貨幣製造と、新聞社の精巧な印刷機。彼らの好奇心が、近代日本経済の扉を開いていく。(解説・木村昌人)”
とある。

まさに、日記そのもの。

 

目次
第1章 上海から香港へ
第2章 インド洋を航して紅海へ
第3章 スエズを超えてパリに入る
第4章 パリ宮廷の社交
第5章 ロシア皇帝狙撃事件
第6章 パリ万国博覧会を見る
第7章 博覧会の褒章式
第8章 博覧会における日本の評判
第9章 スイスおよび オランダを見る
第10章 ベルギー及びイタリーを見る
第11条 マルタ島を巡歴
第12章 イギリス巡歴の旅


巻末にある木村さんの解説によると、この日記は、リアルタイムの日記ではなく、杉浦と渋沢が残した公務日記やメモを編纂したものとのこと。渋沢の著書としてされていた時代もあったけれど、今では、二人の共著と認識されている。また、冒頭から2/3が杉浦で、残りの1/3が渋沢の記録を多く基にしているということ。ゆえに、見聞きしたことの記録はともかく、それに対する感想のような個人の意見は、必ずしも渋沢の言葉ではない、ということ。海外に渡った日本人として、何が物珍しかったのかがよくわかる。そして、渋沢が何を学びとってきたのかは、解説を読むとその概要がわかる。

 

邪道ではあるけれど、解説を読んでから本文を読む、という読み方で、より楽しめる一冊かもしれない。

 

日記という体裁であることもあり、行程とともに日時が書かれている。

1867年2月15日 横浜港 を出発。そこから、船の旅が始まった。

 

将軍徳川慶喜は、弟の昭武(あきたけ・1853~1910)をパリの万国博覧会へ自分の名代として参列させることにする。まだ、13歳。そして、その後ヨーロッパを歴訪させて、幕府の権威を国際的にアピールしようと思った。そこに、慶喜に仕えていた渋沢栄一が同行することとなる。ただ、ヨーローッパ視察中に大政奉還が起きたことから、昭武のヨーロッパへのさらなる留学は叶わなくなるが、1年半、渋沢らといっしょにヨーロッパを歴訪した。

 

もう一人の著者、杉浦譲は、幕府の外交官として活躍した。公務の都合で、昭武や渋沢
より先に帰国するが、詳細な公務日記を作成していたことが、本書につながっている。

渋沢が日本に戻ったのは、明治元年12月3日。1年10か月の海外視察の旅。うらやましい限りだ。

 

横浜から、上海、香港。
フランス領のサイゴンベトナム)、シンガポール、セイロン(スリランカ)、アラビア半島、、、。
当時は、スエズ運河がフランスによって建設工事中。陸路地中海へむかい、カイロ、アレキサンドリア。サウジニア、コルシカ、マルセーユ、リヨンを経由してパリへ到着したのは4月11日。

ほんと、、、うらやましい。船と陸路でヨーロッパへ。しかも仕事なんだから、物見遊山ではない。

 

アヘン戦争で負けた中国・上海で、欧米人が「牛馬のように土着民を扱う」のを目にする。日本がこうなってはいけない、、、と思ったはずだ。

 

途中のアラビアのあたりでは、ラクダが人や物の移動に使われているのみて驚く。また、土地が痩せているところでは、人は勤勉になる、、、と。

アラビア半島のアデンの人々を目にした時の日記が興味深い。

 

土地がやせ、飲水も自由でなく、生活が困難なので、どうしても勤勉でなければならない。地味の肥えているかやせているかのちがいは、民の苦楽のちがいであることがまざまざとわかる。 肥沃な土地に生まれて遊惰安逸に過ごし、こんな土地もあるということを知らずに済むのは幸いと言うべきか、また不幸と言うべきか。 痩せた土地の民は勤倹で剛健、事があればすぐに武器を取って起こつ。 富国強兵の基礎である。”

砂漠体質と、温暖気候体質の違い、、、あるよなぁ、と思う。ついでに言うと、そこで広がる宗教にも違いが生じる。

 

アレキサンドリアでは、その古くからの繁栄に感心するだけでなく、イスラムのしきたりに驚きを示す。加えて、貴族の生活を見て、

” 一夫一婦のほかに妾をもっている。多いのは数十人の妾を持つという。
  西洋は東洋諸邦と違って、 帝王から庶民に至るまで妻を1人持っているだけで、妾はない。 これは閨門(けいもん)を正すことに始まって天下に道を及ぼすという道理からなのであろう。 しかるに、 この国には妾が多いのを誇りとする風習があって、現に トルコ帝には480人あまりも妾があるという。”

渋沢は、これをみていたので、たくさん妾をもったのか?!?!

 

パリでは、博覧会以外にも、上下水道による都市の近代化を目の当たりにして、これは国民の健康のためにすばらしい、と考える。そのころ日本では、まだまだ下水は整備されていなかった。それどころか、肥溜めがあった時代だ。


動物園や植物園では、日本では目にしたことのない動物をみて驚く。カンガルーはそのお腹に子供を入れていることを珍しがり、カバは「たとえようもなく醜悪」な見た目と言っている。。。ひどい・・・。

 

病院でみたシャワーの設備、浄水場での水管理、、、と、しっかり仕事をしつつも、シャンパーニュでは、本物のシャンパン酒を飲んで、「はたして 他の土地産のものに勝ること数段の違いで、その名声は、嘘ではなかった」と。

うらやましぃ。。。ワインもシャンパーニュもたくさん飲んだんだろう・・・。

 

博覧会でみたものも、日本の出店の人気、他国との違い、、さりげない観察が面白い。

多くの外国人は、結局自国のブースにとどまっているのは、食事が合うからだろうと。また、ものを測るのに日本の升だけが四角いことに注目している。たしかに、なんで、四角いのだろう。木工だったからかな。

 

そして、他にもスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、、、、と、どうしてこういう行程にしたのか?!とおもうくらい、あっちへこっちへと視察が続く。ドーバー海峡を越えてロンドンに渡り、女王にも拝謁。ロンドンでは、「銀行」を目にする。

そりゃ、色々な目が開かれるよなぁ、、、と思う。うらやましい。

 

普通に旅日記として読んでも、面白い。20代、30代で読んでいたら、もっとワクワクして読んでいたかもしれない。今、こうして各国の話をきいても、「遊びに行く」対象としては頭に浮かぶけれど、「自分が働く場」としては想像できない。「行ってみたい」の種類が、若い時と変わったなぁ、、、なんて思う。

 

不思議と、渋沢らが旅したのは1867~1868年のはずなのに、『坂の上の雲』よりも近代の話のように感じる。日露戦争は起きたのが1904年なので、30年以上前なのに。

 

それは、日記にしるされていることが、日本にとって新鮮だったヨーロッパの文化だからだろうか。日本、ロシア、イギリスを中心に話が展開する『坂の上の雲』に比べると、でてくる国の数がずっと多い。そして、内容もバラエティーに飛んでいる。オランダでは、当時のオランダが他国勢力に押されて劣勢になっていたにもかかわらず、日本だけはオランダ国旗を長崎に掲げさせてくれていたので、その恩をわすれていない姿勢がよい、、等と書かれていて、鎖国時代にもヨーロッパとつながってた日本の姿が垣間見える。確かに、江戸末期のことなのに、、、なぜか、近しいことのように感じる。

 

渋沢栄一を表す言葉として、解説の中で昭和天皇が渋沢が亡くなった際に送った御沙汰書が紹介されている。

 

高い志を抱いて、政を行い、将来のことを深く考えて、民間人になり、経済活動を率先して企画し、 数多くの施設を社会に設立し、人材育成に投資し、 国際親善に努力した。 一生 公に奉仕し、 誠実を貫き、 経済界で尊敬される人物であった。 政府や民間からの信頼は厚く、 社会人の手本として国内外から尊敬された。

 

そんな人が新し日本銀行券 10000円の顔となった。

 

先日、銀行で両替したら新券がでてきた。なんだか、まだなじまないけれど、ここに使われている様々な新しい技術も、明治時代の産業振興の延長ともいえる。日本経済の父、渋沢栄一。イケメン過ぎなかったことも、人から好かれる理由だったりして、ね。

 

渋沢栄一は、還暦を過ぎてから、日本の国際的地位を気づくために度々アメリカに渡っている。1921年には、81歳という高齢で、ワシントン海軍軍縮会議に日本側代表として参加する。20代でみたヨーロッパ。還暦以降のアメリカと交渉。思想の背景にあった「論語」。彼の視野をそこまで広げたものは、「自らの経験」そのものだったのかもしれない。

 

一歩踏み出して、外の世界をみることでしか、「無」を理解することはできないのかもしれない。

 

やっぱり、旅は人生を変える可能性を秘めている。

そして、それは、社会をも変えるかもしれない。

 

旅に出よう!

書をもって。

 


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