禅の言葉:月穿潭底水無痕 (つきはたんていをうがってみずにあとなし)

禅の言葉:月穿潭底水無痕
(つきはたんていをうがってみずにあとなし)

 

先日、全生庵の秋季坐禅に参加してきた。そこで、平井住職に教えていただいた言葉。

「月穿潭底水無痕(つきはたんていをうがってみずにあとなし)」

 

広間の床の間に飾られた今月の掛け軸は、先代、つまりは住職のお父様の書。



もとは、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕
(ちくえいかいをはらってちりどうぜず、つきはたんていをうがってみずにあとなし)という句。

 

竹の影が箒のようになって階を掃いているが、塵は微動だにしない。
浩々と光る月光は水面に輝き、その光は水底までとどいている。しかしながら、水には何の傷跡ものこさない。

どのような環境にあろうともその影響をうけず、何ものにも汚されない不動の心。

ということ。

 

たしかに、月の光は影をつくり、水面を照らす。でも、実際には影は何物もを動かさないし、水面を照らす光も、水底をかきみだすわけではない。ただ、月の光としてそこにある。そして、私たちはそれを美しいと感じたり、涼やかだと感じたりする。

 

住職は、もうひとつ、法華経のなかから、「蜂は花の蜜をあつめるけれど、花そのものには変化をあたえない。でも、実は受粉という役割をはたしている」、という話をしてくださった。蜂は、受粉しようとして蜜をあつめるのではない。でも、結果的に花の種子をのこす手伝いをしている。

 

どんな日常の仕事(行い)も、何かの形で誰かの役にたつもの。世のため、人のためと大げさに構えなくても、毎日の小さな行いが、社会に貢献できることがある、ということ。

 

目の前のやるべきことに一生懸命になりなさい、ってことかな。。。

 

坐禅しているときは、坐禅に無心になればいい。

食べているときは、食べることに無心になればいい。

働くときは、仕事に無心になればいい。

 

どんな環境にあろうともその影響をうけない。その心の強さをもちなさい、ってこと。

 

報酬の有る無し、高低ではなく、、、、やるべきことをやればいい。。。と。。。私は、自分に都合よくそう解釈した・・・。

「無職」だって、やるべきことはあるのだ。。

 

気が付けば、コロナ以降、このところ4年間くらい、仲間の企画する全生庵での坐禅会に皆勤賞。サラリーマン現役のころは、仕事の都合で出席できないこともあったのだが、フリーランスとなった今は、めったなことでは夕刻の坐禅会を欠席せざるを得ないということがない。特に、必死になって出席していたわけではないけれど、気が付けばそうなっていた。

 

年に数度坐禅したくらいでは、何も変わらない、、、という気もするし、小さなことの積み重ねだから、それでいいのだ、、、という気もしている。

 

そして、時々、住職の言葉にハッとさせられて、気を引き締める。それくらいでもいいじゃないか。。。。と。

 

ときどき、初心に返ってみる。

私にとって、坐禅の時間は、立ち止まる時間なのかもしれない。

善悪とか、正しいとか正しくないとか、悩む前にただ、黙って座ってみる。

そういう時間が必要な時がある。

 

私自身を振り返ってみても、年下の友人たちからの相談を聞いていても、同じ仕事を10年以上していると、「今の仕事をこのまま続けていていいのだろうか?」って、思うときがあるように思う。でも、10年以上続けられているということそのものが、実はすごいことなのだ。結果的に、私は30年間同じ会社で務めたわけだけれど、気が付かない間に、とてつもなく多くのことを経験していた。今、フリーランスで仕事をしていても、自分が直接担当の仕事でなかったことでも、身近で起きていたことが知らない間に自分の糧になっていることに気が付く。あ、これはあの場面の応用、あ、これはあの知識の応用、、と。

 

もしかすると、成功だけでなく、私の失敗を横で見ていた人にも、同じ過ちをおかさない、、、という反面教師の役割を担えていたかもしれない。どんな失敗も、今ではすでに笑い話になっている。たくさん失敗しているから、笑いのネタにこまらない・・・。

 

このままでいいのだろうか?と思ったときも、目の前にあるやるべきことをコツコツとやっていると、世界が開けるときがある。

 

正直に、ズルをせず、コツコツとやるって、すごいことなのだよ。

どんな本も、どんな勉強も、自分自身が行動して経験する事にはかなわない。

 

コツコツ。

継続は力なり。

 

そう信じて、今日もコツコツ、、、やるべきことをやり続けてみよう。

たとえ、何も変わっていないように感じても、何かになっているはず。。。