ユーラシアの中の「天平」 交易と戦争危機の時代
河内春人 (こうちはるひと)
角川選書
令和6年8月29日 初版発行
2024年10月19日の日経新聞書評で紹介されていた本。
記事では、
”日本という国家の歴史は、8世紀のユーラシア大陸とともに立ち上がる。本書は、日本国家の誕生が、東アジアを超えるユーラシアの空間と密接に関係することを、鳥瞰(ちょうかん)的な視野と微細な観察を交えて明らかにする。
(中略)
本書が重点的に叙述するのは、聖武天皇(在位724~749年)から、孝謙・淳仁天皇を経て、孝謙天皇が称徳天皇として重祚(ちょうそ)するまでの時期であり、年号に「天平」の名称が続く約40年間である。確かに、この「天平」年間こそが、本書が詳述するように、日本列島の歴史とユーラシア大陸の歴史が連動し、日本が、律令制と仏教を主軸とする国づくりによって、東アジアでの国際的立場を強める重要期となるのである。
日本の「天平」年間は、中国大陸で安史の乱(755~763年)が勃発し、ユーラシア東部の国際関係が激変し始める時期にあたる。ユーラシア中部では、イスラーム国家がウマイヤ朝からアッバース朝に交替してバグダードが都となり、ユーラシア西部では、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力を破ったフランク王国が、国家の足場を固める時期である。各地で紛争と混乱が続き、より普遍的な宗教と法律にもとづくユーラシアの新たな制度設計が模索される状況の中で、日本も誕生した・・・”
とあった。
歴史の教科書でいえは、ほんのちょっとの時期。でも、天平文化として「天平」は一つの時代を表す言葉となっている時期。
マンガ日本の歴史なら、第七巻。
面白そうなので、 図書館で借りて読んでみた。結構、分厚い。 参考文献 や 年表を含めると 435 ページの 単行本。 、、 これは読みきれないかなと思ったけれど、 ざっくりとでも と思って読み始めた。 パラパラと読んでみると、 短い期間のことだけれども 地域的に広範囲にわたって、 日本との関係性 そしてその背景にある各地での 出来事が 綴られているので、 まさに鳥瞰的に見るのに楽しそう。
本の裏の紹介には、
” 東大寺大仏や 正倉院宝物など、絢爛な文化が開花した天平年間。シルクロードや遣唐使などの国際交流により、華やかな印象を持つ人も多いだろう。しかし外交が盛んになった 一方、ユーラシア全体を揺るがす 軍事的緊張が生じていた。 繁栄を謳歌していた唐を一気に奈落の底に突き落とした「安史の乱」。その混乱の中、藤原仲麻呂が新羅政党を計画ーー。 天平とはいかなる時代だったのか。豊富な資料をもとに世界的視点で解き明かす”とある。
著者の河内さんは、 1970年 東京都生まれ。明治大学文学部卒業。 同大学大学院博士後期課程中退。「 東アジア交流史のなかの遣唐使」で博士(史学)。 関東学院大学経済学部教授。専門は、日本古代史 東アジア国際交流史。
目次
序章 「天平」の開幕
第一章 「戦後」の再編
第一節 盛唐の国際関係
第二節 「歴史」の創出
第三節 動き出すユーラシア
第二章 長安の日本人
第一節 天平の遣唐使
第二節 国際都市長安
第三節 留学生の実像
第三章 変動の予兆
第一節 大仏開眼
第二節 孝謙天皇の登場
第三節 日本羅関係の破局
第四章 ユーラシアの接続
第一節 安史の乱
第二節 新羅「征討」
第三節 新しい国際秩序
終章 「世界史」への道標
あとがき
参考文献
図版出典一覧
ユーラシア年表
感想。
なるほど、ユーラシアで起きていたことと当時の日本政治の流れとの関係性が、物語のように、ちょっと理解できた気がする。
ただ、地域的に広範囲に及ぶのと、私自身の歴史知識が浅いので、一つ一つを詳細につかもうとすると、途方もなく疲れる。。。。し、時間がかかる。全体の流れ、どこで何が起きたのか、、、大枠を掴むつもりで読んでみた。
「遣唐使」という言葉を知っていても、その時によって遣唐使の目的も違うし、反対に海外から日本へやってくる人たちもいたということを理解できていなかったことに気づく。
面白いのは、「遣唐使」は、日本を代表していくわけで、日本をそれなりの国とみせるためには、本人の頭脳能力だけでなく、見た目も良い人間が選ばれた、、、という話。ルッキズムは、八世紀においてもパワーを誇っていたのだ。人間の性、かな。
そして、この時代に登場する国として、「唐」の他に、「新羅」「渤海」がキーワード。日本だけでなく、新羅や渤海も、当時のビッグパワーだった唐と対等にやっていくためには、同じような仕組みが必要と考えて唐の律令制度をまねたり、元号のつけ方をまねたり、、、、。裏と表の顔をつかいながら、互いに交易をしていたということ。
そして、その唐のビッグパワーは、楊貴妃に溺れていった玄宗の堕落に反抗した「安史の乱」で衰退への道をたどる。
絶対的パワーだった唐がすたれていくことで、各国の外交政策も変化する。ただ、日本は国内的に積極外交政策をとってきた藤原仲麻呂が失脚し、称徳天皇が道鏡を重用する時代と重なり、国内的要因で積極的外交をしなくなっていく。
このあたりの、因果関係は、膨大な資料を著者が読み解いたうえでの解釈なのだろう。
8世紀の歴史を読み解くのは容易ではない。後世にのこっている記録は、政治的意図で改ざんされている可能性もあるし、不都合な歴史は消されている可能性もある。その中にあっても、各国でみつかる資料を突き合わせて読み解いていく、というのが広範囲なグローバル歴史研究家が取り組むことらしい。私には、到底まねできない・・・。だれかが、まとめてくれた内容を読むのでもせいいっぱいだし、それでも楽しい。どこまで本当かはわからないよな、、とおもいつつ、歴史の点と点がつながるのは、楽しい。
私にとっての本書でのキーワードは、
・渤海
・玄宗と安史の乱
・称徳天皇
・吉備真備(遣唐使)
・ トゥール・ポアティエ間の戦い
これだけ分厚い本を読んで、それだけ?!って感じだけれど、なるほど!と点がつながったのだ。
・渤海:ぼっかい。 7世紀から10世紀にかけて 現在の中国東北地方( 満州)、 ロシアの沿岸地方 そして朝鮮半島北部に存在した国家。 仏教が広く信仰され、儒教が官僚制度に影響した国。日本とは、新羅や唐との関係をめぐって、協調したり、利用しあったりした国。
・玄宗:げんそう。唐の 6代皇帝。 「開元の治」と称される 繁栄を築いたが、 晩年に楊貴妃に溺れ、宦官を重用し、衰退をまねいた。
・安史の乱: 755年、玄宗の寵臣、安禄山(あんろくざん)が起こした反乱。安禄山は、 ソグド人の父と突厥(とっけつ:トルコ系)人の母の子ども。非漢人がおこした、唐のクーデター。
・称徳天皇:孝謙天皇( 聖武天皇と光明子(光明皇后)の娘)が重祚して称徳天皇となる。
・トゥール・ポアティエ間の戦い: 732年 フランク王国 カール・マルテルがイスラム勢力を破った戦い。 西ヨーロッパのキリスト教圏を守った、ヨーロッパ史として重要な戦い。 カール・マルテルの息子がピピン三世。 後にカール大帝 シャルルマーニュ に繋がる。
他にもたくさん、、、歴史の記憶として、覚書。
・『日本書紀』にある、各天皇の役割
神武・・・ヤマト朝廷を成立させる
崇神・・・ 支配領域の拡大
景行・・・ 蝦夷・熊襲の服従
・ 古代日本では 4世紀末の高句麗との戦争が馬の本格導入へとつながった。馬とは、きわめて軍事的な存在。
・8世紀の宗教は、キリストもイスラムも、「隠された救世主の再臨」という信仰があった。
・初めて遣隋使によって海外を知ったヤマト政権は、全てがカルチャーショックで、支配者層にはトラウマとなるほどだった。
・ 芥川龍之介 の『杜子春』冒頭、杜子春は老人から声をかけられて西市の「波斯邸(はしてい)」に来るように指示される。「波斯邸」は、 ペルシャ人の邸宅のことで、唐の時代、すでに サザン朝ペルシヤと 交易があったことを示す。
・ 厩戸王子(聖徳太子)の時代、大陸での宗教は、 ゾロアスター教・景教( キリスト教 ネストリウス派 東方伝道集団)・マニ教。仏教は、キリスト教徒も出会っていたはず。
・遣唐使は、唐に渡ると、唐風の名前に変更することが多く、資料によって様々な人物名になっているが、同一人物であることが多い。
・聖武天皇は、 日本国内における理想世界の実現のために大仏建立を位置づけた。が、 藤原仲麻呂は 大仏を通じて 日本の 東アジアの帝国としての位置付けを大きくしようとした。 大仏建立にも、それぞれの思惑が・・・。
・当時の外交は、それぞれの思惑があり、証拠が残ると都合の悪いことは口頭で伝える習慣があった。(って、どうして、証拠がないのに、、どうしてわかるのか?歴史家の研究って不思議だし、すごい)
証拠がのこるとまずいことを、口頭ですませるのは、今でも鉄板戦術。
・ 交易や贈り物として他国へ届ける品々は、その国の権力の誇示という意味があった。また、その品々を調べることで、当時の交易の範囲が見える。たとえば、新羅から象牙加工品がとどけば、新羅はどこかの産地から象牙を輸入していたことを示す。
・楊貴妃の身分。もとは、玄宗の第18子である寿王の妃。息子の妃を取り上げるのは外聞が悪いので、一度出家させ、5年後に寵姫として迎え入れた。
・8世紀、紙は貴重なもの。8世紀後半、イスラム世界で自前の紙の供給が実現。 サマルカンドに製紙場がつくられ、サマルカンド紙と呼ばれた。 安史の乱のあと、唐からイスラムへの紙の流通が停滞したことが、イスラム自前の製紙につながった可能性がある。
・ 新羅との 緊張関係が問題化していた日本は、 渤海との連携を強めようとした。 互いに人や物の交流があった形跡がある。
・阿倍仲麻呂は、遣唐使でありながら、玄宗に重用され、最後まで日本に帰国することはできなかった。が、安史の乱のなかにあっても生きのび、日本とコンタクトを取り続けた。
・藤原仲麻呂は、 日本の律令国家を古典中国的な儒教国家とすることを目指した。やりかたが無理やりなので、結局は、称徳天皇に嫌われ、干された。加えて、当時、飢饉や疫病がはやり、儒教でいうところの悪政に対する天譴(てんけん)か下されたと考える人が多かった。
・8~9世紀、身分が高くない出身で、大臣になった人は少ない。称徳天皇の腹心として活躍した吉備真備、道鏡、そして、菅原道真。
歴史の俯瞰として、なかなか面白い充実の一冊だった。
正倉院宝物とか、どこからきたものなのかな?という目で見直すと、さらに楽しい歴史妄想の旅ができそう。
最後の方で、著者が語っているのは、天平の時代の日本人は、すでに「白村江」から100年たっていて、その大敗の歴史を知らない人々だったということ。
過去に学ばない、、、ところは、当時もあったのかもしれない。
語りつぐというのは、大事なことだ。
記録が必ずしも正しいとも限らないが、記憶はもっと曖昧である、、、
という著者の言葉も心に響く。
歴史って、だからロマンなのかもしれない。