『マンガ日本の歴史35  田沼の政治と天明の飢饉』  by  石ノ森章太郎 

マンガ日本の歴史35 
田沼の政治と天明の飢饉 
石ノ森章太郎 
中央公論社
1992年8月5日 初版印刷 
1992年8月20日 初版発行

 

 『マンガ日本の歴史 34 将米将軍吉宗と江戸の町人』の続き。34巻では、8代将軍徳川吉宗(8代)の活躍。35巻では、吉宗の後をついだ家重と、それを支えた田沼意次の時代。

 

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目次
序章  将軍家重の側衆
第一章 全藩一揆への対処
第二章 田沼意次の擡頭
第三章 新たな政策と賄賂
第四章 天明大飢饉の中で

 

1745年(延享2年)享保の改革を進めた将軍吉宗が、30年近い政治の後、不肖の子と言われた家重に将軍職を譲った。

 

9代将軍、家重は、男のくせにぺちゃぺちゃ喋り、その言葉を理解できるのは一人しかいないと言われた。

と、本書を読み終わってから気が付いた。家重こそ、『まいまいつぶろ』の主人公ではないか。

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現在では生まれつきの脳性麻痺だったと言われているけれど、本書が出版された90年代には、そこまで研究が進んでいなかったのかもしれない。出来の悪い、ダメ男、と書かれている。側申次・大岡忠光がそばでささえたことが出てくる。この、涙無くしては読めない家重のお話の方が、本当の歴史を語っているのだと思いたい。忠光と家重の信頼関係、そして、つづく政治を支えたのは田沼意次

 

1751年、家重に心を遺しつつ、吉宗は死去。やはり、なんだかんだいって、長子・家重を信頼もしていたのだろう。弟ではなく、長子・家重に将軍を継がせたのだから。

 

もともとは小禄旗本の子であった大岡出雲守忠光は、家重に仕えている間に、1万石の大名となった。『まいまいつぶろ』で語られた、ただ一人、家重の言葉を理解した側申次。その陰では、田沼が着々と政治に影響力をつけていく。

 

と、そのころ、日本の医学の発展があった。

1754年、山脇東洋が日本で初めての人体解剖=腑分けを行う。のちの杉田玄白らの『解体新書』に先立つこと、15年も前のこと。そして、人も社会も少しずつ変容していく。
吉宗の頃から続く財政難のなか、百姓たちの暮らしも楽にならない。しかし、年貢の取り立てはますます厳しくなる。各地で人々があつまり、一揆が起こる。中でも有名なのは、郡上一揆。ほかにも、人びとが集まって、陳情にあがるなどしたが、首謀者たちは、斬首された。つづく一揆評定所へのうったえに、幕閣も介入し、幕府関係者の処分も行われた。

 

田沼は、年貢だけで国政にあたるのはもはや間違っているのでは、と考えた。そして、商業の発展に向かう

 

1760年 (宝暦10年)早春、 江戸は連日のように大火に見舞われ続けていた。
この年、 側用人大岡出雲守忠光が亡くなり、家重も病気がちのために、将軍を家治(家重の息子)にゆずる。『まいまいつぶろ』の中では、父・家重を信頼し、父の意志を理解した家治。

 

家治付きの老中のうち、 秋元但馬守凉朝(すけとも)だけが本丸老中にうつってきた。家治は、幼少より帝王学を授けられ、四書五経に通じ、騎射を好んだ。父家重の遺言もあったが、紀州藩足軽の子からのし上がってきた田沼意次を重用するようになる。意次の子・意知(おきとも)は、父について政治を学ぶようになる。

 

1764年、日光例幣使下向のための助郷重課税に対抗する大一揆が起こる。武蔵から上野・下野・信濃にひろがり、20万人の人々が蜂起したと言われる、「伝馬騒動」。

翌年からは、 近畿一円の水害、 弘前青森の大地震、各地での凶作と災害がつづく。そんな中でも 田沼意次側用人に昇り、 五千石 を加増され、遠江国相良の城主となる。

 

田沼は、微禄より身を興して側用人になった、 柳沢吉保(吉宗に仕える)、間部詮房(家宣に仕える)らの例をみて、彼らの轍を踏まないように(のちに外されている)、家治に仕えることだけを考えた。

 

そのころ、大奥ではやったのが、 鈴木春信の錦絵(浮世絵)。意次は、大奥の懐柔にも抜かりがなかった。

意次は、紀州藩出身で幕藩をかため、息子意知には、老中松平康福の娘をむかえるなどして、縁戚をかためた。54歳になるころには、3万石の大名になっていた。

 

同じ時代、海外に目を向けると、
1757年:ブラッシーの戦(イギリスがフランス軍を破る)
    イギリス東インド会社がインドの支配権確立
1776年:アメリカ独立宣言(イギリスから独立)
1778年:ロシアの「聖ナタリア号」が松前藩と直接交渉

 

国内は、
1778年 伊豆三原山噴火
1779年 大隅国桜島噴火
1780年 関東大洪水
と、天災がつづく。
1781年 天明改元
1783年 浅間山噴火、二万人の死者、4年にわたる凶作 → 天明の大飢饉

と、困難がつづき、米価高騰。打ちこわしの発生。

 

人びとの怒りは頂点に達し、意次の息子、意知は殺されてしまう。

意次は、貸金会所をつくるなど、商業の発展をめざす。が、それによって賄賂が横行するようになり、だんだんと人々の恨みを買うようになる。


人というのは、自分だけはいい思いをしたいと、、、おもってしまうものなのか。子供の間ですら、「にぎにぎ」(賄賂)という言葉が流行ったという。

 

商品経済の安定のため、通貨を安定させようと、田沼は関東の金と関西の銀を一元化しようとした。だが、それは両替で美味しい思いをしてきた商人の反発をかい、だんだんと、田沼への恨みを募らせる人が多くなる。


一方で、積極的、開放的な政策は、人びとの間に自由な精神もうまれた。そうしたなかで活躍した人のひとりが、平賀源内(1728~1779)。

 

平賀源内を含め江戸文化のお話は、36巻に続く。