『マンガ日本の歴史37 寛政の改革、女帝からの使者』  by 石ノ森章太郎 

マンガ日本の歴史37
寛政の改革、女帝からの使者
石ノ森章太郎 
中央公論社
1992年11月5日 初版印刷 
1992年11月20日 初版発行

 

 『マンガ日本の歴史 36 花ひらく江戸の町人文化』の続き。36巻では歴史の流れを振り返って、文化人たちの話。37巻では、松平定信寛政の改革

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目次
序章 松平定信の登場
第一章 寛政の改革
第二章 外圧と海防
第三章 《寛政の遺老》

 

1783年に始まった「天明の飢饉」から、米価の暴騰はつづき、1787年(天明7年)の春には平年の6倍の価格になっていた。端境期の5月になるとその不満が爆発。西日本からはじまった打ちこわしが東日本まで波及し、江戸にまでおよび「江戸大打ちこわし」が起こる。米屋、酒屋、木綿屋など商家8000余軒が被害にあう。ただ、一切の盗難はなく、提灯の火は消して火事に注意するなど、「まことに礼儀正しい狼藉」だったとか。

 

田沼意次の息のかかった側近らは解任され、あらたに松平定信の活躍始まる。

 

松平定信は、 第8代将軍吉宗の孫にあたり、吉宗の次男で国学者・田安徳川宗武の7男。17歳で、陸奥国白川藩藩主 松平定国の養子となり、26歳で家督をつぐ。幼いころから英明の聞え高い俊才だった。1787年、老中首座に就任。

 

松平定信の行ったこと
・質素倹約のすすめ=吉宗の「享保の改革」と同じ方針の復活 ⇒寛政の改革
・藩の蓄え米を領民へ出し、餓死から救う
・田沼時代と変わって、賄賂なしの政治
・下からの「上書」を重視し、儒学者や行政・農政の実務者らの意見を政策に反映
・「芸術見分」学問・武芸といった芸術に精励している人物を発掘、大事にした
昌平坂学問所を幕吏養成機関として充実させる。寛政の三博士、岡田寒泉・尾藤二洲・柴野栗山を教授に抜擢。
・1791年 江戸の湯屋に混浴禁止令
・好色本の禁止
・火附盗賊改加役 長谷川平蔵の登用:江戸に集まる無宿人を「石川島・人足寄場」で職業訓練
・貧民救済策「七分積金令」:災害などの備え基金
・百姓を大事にする「民は愚かではない」という信念。

 

人びとの声をよくきき、農村でも慕われた定信だったが、1793年、突然老中職を辞職させられる。まだ、36歳の働き盛りだった。定信は表舞台から消えたが、彼の起用した人物はほとんど幕閣の主メンバーとしてその後も活躍した。

 

1790年代、日本付近に外国船が出没するようになる。1792年、ロシア帆船が根室湾内にイカリをおろした。ロシア女帝エカテリーナ2世の名から名づけられた「エカテリーナ」号だった。その船は、10年間にわたって、異国流転の生活をていた大黒屋光太夫を連れてやってきた。

 

大黒屋光太夫は、1782年に紀州藩の廻米や木綿を乗せて江戸に向けて白子を出発したが、駿河沖で難破し、8か月の漂流の後、ロシア領のアムチトカ島へ流れ着いた。光太夫は、日本語の教師として活躍したが本人はずっと日本へ帰りたがっていた。そのことを知ったキリル=ラックスマンは日本と通商のきっかけになればと、エカテリーナ2世に光太夫をあわラせ、光太夫の帰国が実現する。特派使節は、キリルの次男のアダム・ラックスマンだった。

が、日本は鎖国中。海外にいた日本人の帰国も許されていない。

 

江戸城では対応が協議され、
一、国書や贈答品はうけとらない
二、江戸回航は認めず、
三、漂流民は受け取り、
四、通称の望みあらば長崎に回航せよ
との回答を用意した。


太夫は、無事に日本の土を踏んだ。

一方で、1794年、ロシアはウルップ島へ進出し、北方の緊張が高まる。幕府の海防策は、江戸中心から蝦夷へ重点がうつった。

そうしているうちに、イギリスの船も蝦夷に現れる。

幕府の蝦夷地調査が始まり、アイヌの人々は和人化政策を押し付けられた

1804年 長崎にロシア軍艦「ナデジュタ」号が入港。長崎奉行所はすぐに役人を差し向け、国書、肯定の親書受け取りを拒否する。レザノフはこれに怒って、力ずくで日本に交易を迫る。

ロシアによって、サハリンのアニワ湾、エトロフ島のナボイが襲撃され、利尻島では幕府船が焼討にあう。

幕府は、ただちに「ロシア船打払令」をだす。

 

1807年、幕府は松前藩陸奥国梁川に移封したうえで、 東西蝦夷地の幕府直轄化を宣言。 日露関係は一気に険悪な事態を迎えた。

 

小林一茶は、「春風の国にあやかれおろしや舟」と詠んだ。

 

1808年8月15日、フェートン号事件発生。イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に不法侵入し、オランダ商館員を人質に食料や水、薪などを強要した。その結果、長崎奉行佐賀藩 家老数人が、責任をとって自刃した。幕府にはおおきな衝撃。

1811年、ロシアの測量艦デイアナ号艦長ゴロウニンがクナシリ島で逮捕される。松前へ送られたゴロウニンは2年間幽囚される。その俘虜生活と日本人の風習についての観察が後に『日本幽囚記』として出版され、ロシアや西欧で広く読まれた。

1813年、ゴロウニンは、クナシリ沖でロシアにつかまった北方開拓商人・高田屋嘉兵衛と交換で無事に帰国。

この時期、多くの探検家、冒険家が輩出した。その一人が間宮海峡間宮林蔵伊能忠敬は、50歳にして歩数測量によって蝦夷地全域の地図作りを始め、17年に渡って日本全国へ足をのばし、弟子たちが『大日本沿海輿地全図』を完成させた。


定信の寛政の改革から10年、幕府の財政は黒字に転じて安定するかに見えたが、今度は奢侈好みの徳川家斉(第11代)の時代となって、出費がかさむようになる。地方では、幕府への不満が噴出し始める。また、米価が大幅に下落し、相場が15年前の1/3程度まで落ちる。幕府は、買米で市場価格を吊り上げようとするが、江戸や大阪では米価の下落がつづいた。一方で、地方では局地的凶作などで、米価暴騰もあり、打ち毀しも発生。

 

寛政の改革で米にかわる地方特産品の生産が奨励され、「銭をつかって米をかう」農民層が激増していた。

 

1817年、西丸側用人水野出羽守忠成(ただあきら)が老中格として入閣。家斉の第一の側近として活躍する。

 

1822年、突然長州下関でコレラ発生。病原菌は、インドの風土病であったものがイギリスの世界制覇によって各地に運ばれた。

江戸築地の下屋敷に隠居していた定信は、
「泰平200年、ただ恐るべきは、蛮夷と百姓の一揆なり」といった。

そして、時代は、天保の動乱へ・・・。

 

こうして、ここまで読んできて1800年代になると、ほんの200年前か、、、という気がしてくる。旅で観てきた小倉城広島城も、、、大坂城江戸城も、それより前に作られていたものかと思うと、時の流れってすごいなぁ、って思う。

 

そして、日本は再び動乱の世へ・・・。