『マンガ日本の歴史 現代篇2 大日本帝国の成立』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 現代篇2 大日本帝国の成立 
石ノ森章太郎
中央公論社
1994年1月5日 初版印刷
1994年1月20日 初版発行

 

現代篇1 明治国家の経営 の続き。

megureca.hatenablog.com

 

1では、初めての普通選挙とその後の議会の混乱。度々変わる内閣。その中での日清戦争と、その後の三国干渉によって高まる反露感情。明治の終わりころ、日本がいかに西欧の列強と対等になろうと画策していたか。2でも、その画策はつづく。

 

目次
序章 義和団、跳梁す
第一章  日露戦争前の日本
第二章  日露戦争と戦時下の日本
第三章  近代化・産業化のあゆみ

 

1につづいて、内閣の主導権争いが続く。伊藤博文が、保守というか穏健でいながらも、「国全体」を考えて革新的なことも実行に移していった様子がうかがえる。かつて1000円札の顔だった、伊藤博文は、やっぱりすごい人だったんだ、、、という気がする。 司馬遼太郎の『 坂の上の雲』の中でも、ずっとロシアとの戦争に反対していたのは伊藤博文。冷静に物をみるひとだったのだろう。最後は、韓国を支配するために日本が設置した統監府の初代統監となるも、4年後ハルビンで活動家の安重根に暗殺されてしまう。気の毒な最後だ。

 

1900年頃、清国は、日本、 ロシア、 ドイツ、 イギリス、 フランスに各地を蚕食されていた。ロシアは、対日共同防衛の密約を清国とかわし、大連・旅順など25年の租借権を得るなどもしていた。そんな国の状況に我慢ならなくなって立ち上がったのが山東省に始まる「義和団」。 諸国による植民地化の象徴ともいえる鉄道を破壊し、 キリスト教会を焼き払うなど、暴力的な動きが各地に広がった。列国公使館も包囲される事態に、各国は対策を協議。日本もここで存在感をしめさなきゃ!と桂太郎陸軍大臣)はいきり立つ。

1901年9月7日、義和団は各国軍に押されて敗走し、北清事変終結。清国はますます植民地化されていく。

 

日本国内では、度重なる内閣解散。 大隈重信佐賀藩出身・進歩党)と 板垣退助土佐藩出身・自由党は、反発し合いながらも内閣の地租増徴案に反対するために協力し、憲政党を設立。いったんは、隈板(わいはん)内閣として日本政治史上初めて政党人による内閣を立ち上げる。が、4か月のちに、やはり、再分裂。

 

自由党星亨が、アメリカから帰国して、伊藤博文を巻き込んで政治の世界に戻ろうとするが、伊藤は、星の言いなりになるのではなく、 立憲政友会を立ち上げて、より国家的・国民的政党として活動する。星亨は、出世欲の強い人だった?最後は、暗殺される。

議会は、金融恐慌の影響もあって、常に予算審議でもめる。

 

そのころ、ロシアは着々と清国から朝鮮にかけて圧をかけていた。日本国内は、イギリス派、ロシア派にわかれる。ロシア派だったのは、伊藤博文井上馨。イギリスと同盟を組むほうが得策だとしていたのが、 桂太郎山縣有朋小村寿太郎ら。結局、イギリス派が強硬に同盟交渉をすすめ、伊藤が ニコライ2世に謁見し、 ラムストルフ外相と交渉している最中にも拘わらず、 1901年12月7日に日英同盟が決まり、 1902年1月30日 日英同盟成立

そこからは、日露戦争へ・・・・。

 

1904年2月4日 御前会議で対ロシア戦について討議。
2月6日 ロシアへ国交断絶の公文をうつ。
2月10日  宣戦布告

 

そして、日露戦争。本書では本の数ページで描かれる日露戦争東郷平八郎乃木希典、 旅順攻防、203高地、旗艦「三笠」、 児玉源太郎、 クロパトキン、28サンチ砲、、、。旅順港閉鎖作戦失敗。

 

そのころ、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ・・・」の詩が詠まれ、人気をはくす。

 

バルチック艦隊の到着と、 秋山真之の「本日 天気晴朗ナレド波高シ」の一報。 ロシアの「スワロフ」が砲門を開いて、日本海海戦が始まる。日本軍、勝利。

 

勝利はしたものの、日本はもうお金も尽きていた。これ以上戦争が続けば、ロシアの反転になすすべもなくなる。駐米公使の高平小五郎は、かつてから懇意にしているルーズベルト大統領に会い、ロシアとの講話仲裁を依頼する。ポーツマスにて、無事に講和交渉は妥結。が、日本得たのは、ロシアが妥協したサハリン割譲、つまり樺太50度以南の土地だけだった。それを聞いた日本国民は、勝ったのにそれっぽっちで講和するとは政府はろくでもない!といって、暴動を起こす。中でも有名なのが、日比谷焼き討ち事件

 

日本人も、2021年1月6日のトランプ支持者、アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件を笑えない。今の日本人には無いエネルギー、、、ともいえる。

 

国民の不満タラタラのなか、第一次桂内閣(山縣、桂)から第一次西園寺内閣(伊藤・西園寺)、そして、第二次桂内閣から第二次西園寺内閣と、長州閥官僚内閣と政友会系内閣が交互に成立するようになる。桂園(けいえん)体制

 

1905年、伊藤博文が、統監府初代統監として韓国へ赴任。

国内では、帝国国防方針が山縣らによってまとめられ、軍備拡張路線が進む。

1909年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文暗殺。

 

国内では、国を挙げての産業化の歩みで、紡績工場や製糸工場が建てられた。紡績・製糸業は飛躍的に発展し、1909年には清国を抜いて生糸の輸出高で世界一となる。裏では、「女工哀史」的状況も生まれていた。

 

1910年、大逆事件発生。明治天皇の暗殺計画を企てたとして社会主義者無政府主義者が逮捕・処罰された。

大逆事件は、幸徳秋水らを中心に、多くの人々が冤罪で処罰されたとされ、社会主義運動への弾圧を目的とした政治的な事件。権力の手による刑法の拡大解釈で12人が死刑となり、当時、既に獄中だった大杉栄も死刑。

 

1912年7月30日 明治天皇崩御。9月13日、大喪の礼

 

ひとつの時代が終わった。