「縁(えん)の手紙」 by チョ・ヒナ

「縁(えん)の手紙」

チョ・ヒナ著

株式会社マガジンハウス

2021年7月15日第1刷発行

 

縁あって、出来たてホヤホヤの本が手元に届いたので読んでみた。

 

帯に書かれているのは、

「孤独な私を癒してくれたのは君からの運命の手紙だった。

 心に傷を負った高校生に訪れた優しい奇跡」

 

著者のチョ・ヒナさんは漫画家。韓国、中国で漫画賞を次々と受賞されている方らしい。長編アニメ映画化も計画されているとのこと。

 

漫画の本であるが、なんと全編カラーである。なかなか作るの大変だっただろうなぁと思われる本。全体に色のトーンが緑と言うか青と言うか 。

ストーリーとあっている色合い。

思わず、タイトルを「緑の手紙」を読み間違えたくらい・・・。

 

以下ネタバレあり。

 

主人公は高校生の女の子。ある時学校でいじめられている友人を見て、友人を助けるために「やめなよ」とクラスメイトに言う。いじめの矛先は主人公に向かう。そしていじめられていた友人は転向を選択する。主人公は悩みながらも自分自身も転校することにする。

転校先ではいじめられることはないものの、 転校してきた理由を聞かれてもクラスメイトに言えない自分。なんとなく孤独が募っていく。

そんな時、自分の机の中から、誰からかわからない自分宛の手紙を見つける。

手紙は、 まるで彼女のことを知っているよう。学校のことも知っているようだけれども誰からなのかわからない。

そして手紙は次々と続いていく。最初は机の中から。そしてその手紙に記された場所を探すと2通目の手紙が。2通目の手紙に指示された場所を探すと3つ目の手紙がと。。。

そして次々に続く手紙を探しているうちに、いつもその場所で出会う男子生徒がいることに気がつく。でもどうやら彼が手紙の主ではなさそう。

彼との友情を育みながら、手紙の主を探す二人。

最終的には手紙の主に出会える、ハッピーエンドのお話。

 

でも出だしがいじめだったことから何となく心が締め付けられるような、痛いような、でもハッピーエンドで嬉しくなるような、一気に読んでしまう本だった。

 

「いじめからは逃げればいい」

というメッセージと

「あなたのことを思っている人は必ずいる」

というメッセージと。

なかなか、素敵な本だった。

 

いじめ、という言葉は本当に胸が締め付けられる。

私自身は、繊細ではないし、いじめられっ子だったわけでも、いじめっ子だったわけでもないとおもうのだけど、誰でも、いじめっ子になる可能性も、いじられっ子になる可能性もある。

 

2016年のアニメ映画、「聲の形」を観た時、映画が終わっても立ち上がれないほど号泣した。いじめがいじめをよんで、、、、でも私だってこの中の誰かになっていたかもしれない・・・・。いじめっ子もいじめなんかしたくないのに、してしまう心の弱さ、つらさ。。。

 

「いじめ」のない世界にしたい。

「自殺」のない世界にしたい。

本当にそう思う。

 

大人の世界にも「いじめ」はある。

ネットの中傷だってそうだ。

ネットでの中傷は、現代の暗殺だ、と思っている。

 

「あなたのことを思っている人はかならずいる」といメッセージを、多くの人にとどけられたらいいのに、と思う。

 

痛ましい事件は、後をたたない。

べたないいかただけど、命を大切にしてほしい。

残されたものが、どれだけ悲しく、つらい思いをするか、、、。

だからとしって、つらい思いを我慢しなくていい。

逃げよう!

理不尽なつらいことからは、逃げよう!!

それでいいのだ。

 

 新しい世界は、いくらでもある。

今日の自分は、自分のこれからの人生の中で一番若い。

そうだ、そうだ。

がんばろう。

 

本は、色々なことを考えるきっかけになる。

本を読むのは楽しい。

 

 

 

 

 

四法界と不立文字

今日教えていただいた、禅の言葉。

「四法界と不立文字」

 

「四方界」とは、4つの見方。

全宇宙を本体と現象からみて4つに類別した見方、観念。

華厳経の経典による。

理法界 :理としての平等の本体の世界

事法界  :事としての差別・現象界の世界

理事理事無碍 (むげ) 法界 :本体と現象界は一体不二であるとする

自自無碍(むげ)法界 : 現象界の一々の現象をままが絶対であるとする

 

「不立文字」とは、文字や言葉では伝えられない、ということ。

 

坐禅というのは、ものを考えない。

思念、理想、論理、と言ったもの頭の中で考えない。

出し切るというのがポイント。

 

文字である「お教」というのは、考えたこと。

 

「四法界と不立文字」

つまり、孔子の教えである禅の教えというのは、経典のようなもので語りつくせるものではない。

原体験から学ぶことが大事。

経典は、ヒントに過ぎない。

 

経典はヒントにするくらいにして、自分で体験することで学びなさい。

という事らしい。

 

釈迦の悟り体験を、自分自身で追体験してみるのが禅。

 

あまり、そんな風に考えたことはなかった。

ただ、無心に呼吸に集中しようとすればするほど、雑念がたくさん湧いてきて、朝の坐禅をしていると、今日は何を食べようとか、時間をどうやりくりしようとか、今日一日の過ごし方について、ついつい雑念が出てきてしまう。

 

今朝の坐禅中は、鰻が食べたい、、、と何とも原始的雑念が、、、、

 

自分が無になろうとするから、雑念が湧いてくるのかもしれない。

今、自分は釈迦の体験を経験してみようとしているんだ、と、

釈迦になりきってみるといいのかもしれない。

 

まぁ、釈迦になりたいと思って坐禅をしているわけではないのだけど、、、。

 

いずれにしても、自分で経験してみること。

それが大事。

 

ワインの勉強も教本を読み込んで覚えるのもいいけど、

やはり、飲んで体験してみることが大切か!?

一度飲んで、感動したワインのことは、覚えられるから、確かに体験は大事。

 

行動すること。

やってみること。

 

頭で考えているだけでは前に進まない。

やってみよう。

行ってみよう。

読んでみよう。

食べてみよう。

 

私なりの解釈。

Don't think! Feel!

Don't think! Do it!

 

 

 

 

 

 

 

 

「手の倫理」 by 伊藤亜紗

「手の倫理」

伊藤亜紗 著

講談社選書メチエ

2020年10月9日

 

図書館で予約していたのが回ってきたのだが、なぜ、予約したのかを忘れてしまった。

でも、読み進めるうちに、あぁ、共感。。。というところが多くて、誰かに薦められたか、書評を読んだのか?わからないけれど、概要を読むと、私のアンテナに触れたのが自分で納得するような気がした。

 

以下、概要から。

「人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、
コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。
ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。
相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。」

 

共感とか、批判とか、信頼とか、、、人と人との関係に興味があるので、きっと、私のアンテナに触れた。

 

本書の中で、伊藤さんは、「触覚」と「視覚」による人と人との関係を、「手の人間関係」と「まなざしの人間関係」と読んでいる。

手の倫理は、主に、「触覚による手の人間関係」に関する話。

 

英語の「touch」を辞書でひくと、「触れる(ふれる)・触る(さわる)」とでてくる。

「ふれる」と「さわる」について、伊藤さんの解釈でとらえた違いを話している。

 

「ふれる」は、相互に触れられる感触を確かめながらふれあう。相互的コミュニケーション生成モード。

対して、

「さわる」は、一方的なもので、コミュニケーションでいえば、伝達モード。

 

「ふれる」は、安心を与える、親密さを示す。

「さわる」は、警戒感を与える、かもしれない。

空気にふれることはできるけれど、空気にさわることはできない。

 

そして、面白いことを言っている。

「体育とは、他の人の体に対して失礼ではないふれる技術を身に着けさせること。」

 

なるほど、と思った。

 

子猫がじゃれ合って、爪の立て方の程度を覚えるように、人間も体育の時間にそういうことを学ぶのかもしれない。

 

数年?前に、新聞の投稿で、
「私の赤ちゃんにさわらないで」というのがあって、一時話題になったことがある。

電車で、高齢の方が赤ちゃんにいきなり触ってくるのが嫌だ、という親の投稿。

高齢の方は、「ふれている」つもりでも、親にとっては「さわられている」の感覚だったという事かもしれない。

 

昨日、私が着ている洋服の襟がよれていたのに気が付いた女性(私よりは高齢と思われる)が、「触ってもいい?」といって、手を伸ばされた。私も、「あ、どこか変なのかな」とおもったから、自分で直したのだが、「さわってもいい?」と聞かれたその女性の自然な感じが、なにか感じがよかった。素敵な女性だな、と思った。

「言葉」も大切である。

電車の赤ちゃんの親も、高齢者が「さわっていい?」ときいていたら、少し違う感情を持ったかもしれない。

 

 

そして、伊藤さんは「倫理」と「道徳」の違いについても述べられている。

 

倫理は、具体的なある状態においてどうふるまうか。

道徳は、いついかなる時でも○○せよ。

 

ここから、私の解釈だが、必要なのは倫理であって、道徳ではないのではないだろうか?

 

前に、内田樹さんだったか、ヤマザキマリさんだったか、わすれてしまったのだが、
「小学校で道徳の授業をうけて、道徳的人間に育ったなんて話は聞いたことがない。実体験でしか学べない。」

というようなことをおっしゃっていた。

 

本当にそう思う。

経験が人を成長させる。

失敗も、成功も。

テストであいまいながら回答して、運よく正解だったことは頭に残らない。

間違えると、復習するから頭に残りやすい。

 

倫理と道徳の違い。

深いなぁ、と思った。

 

「いついかなる時も、○○せよ」より「どうふるまうかはその時考える」方がいい。

そして、それを考えられる、地頭を作ろう。

 

なかなか、良書。

勇気が湧いてくるような本。

なぜ借りたか忘れているけど、読んでよかった。

 

やはり、いろいろ読んでみるのは楽しい。

 

 

 

ヒアリングミスは英語だけではない

今回のTOIECでも、ヒアリングミスがあったと思う。

なぜ、ヒアリングミスが起こるのか?

 

先生からの指摘で、

ヒアリングミスは、何も英語だけで起こるのではない。日本語でも起こしている。」

とのこと。

 

確かに、日本語の会話でも、100%聴き取っている訳でなく、話の流れから、

「あ、さっきいっていたのは、○○か、、」と、理解することは少なくない。

なぜ、あとからでも理解が追いつくかというと、それは、「リテンション」がかかっているから。リテンションというのは、頭の中に、残音が残っている状態。

日本語だと、先に流れていた音が残音として頭に残りやすく、後からでも理解が追い付きやすい。

 

英語のヒアリングも、残音が残っていれば、あとから意味を類推して、なんとか訳につなげることができなくもない。

が、この残っている残音が、「ミスヒアリング」していると、意味不明のまま、会話やアナウンスはどんどん流れてしまう。

やはり、おそるべし、「ミスヒアリング」なのである。

誤解につながるミスヒアリングは、恐ろしい。

単語の頭の、un- とか、 in- とか、反対の意味になる音が取れないというのは、恐ろしい、、、、。

「incompetent」無能 が「competent」能力のある、になってしまう。。

頭の中の残音に耳をそばだてる。

今の音には、頭に、なにかついていなかったか?

接頭語は、聞き落さない様に気を付けるべし!

 

もう一つ、根本的に「ミスヒアリング」しやすいのは、聞いたことがない言葉だろう。

 

先日、英語の授業中に私が聞き間違えたことば、

「Census」

"Census figuers of the year 2000 show that the 31 percent of the population is comprised of minority residents."

 

census:  名詞: 人口調査、国勢調査

 

私は、cencusという言葉をこれまで聞いたことがなかった?ので、

「since」と聞き間違いえた。

 

センサス を シンス と聞き間違えたのである。

 

そして、「2000年の数字以来、、」と訳した。

正しくは、「2000年の国勢調査の数字は、、、、」となる。

 

聞いたことのない音は、ミスヒアリングの可能性が高くなる。

 

では、どうやって、ミスヒアリングを減らすか。

音に慣れるしか、なさそうだ。。

 

とにかく、聞いた音を自分で発話してみる。

中国語だろうが、タイ語だろうが、アラビア語だろうが、

音を正確に繰り返して発話する、というトレーニングがよいそうだ。

 

さすがに、意味不明の中国語やアラビア語では面白みもないので、

英語で練習しようと思う。

タイ語は、5年間タイに在住している間に、だいぶ聞けるようになったし、話せるようになった。

でも、やはり日本語にはない発音・声調(抑揚)がたくさんあるので、正確に発音するのは難しかった。

それでも、毎日タイ語の洪水のなかで暮らしていると、一日中音が耳に入ってくるし、会話する機会もおおいので、実践的に学んだ気がする。

私がタイ語をいわゆる語学学校で学んだのは、タイへの赴任がきまってからの3か月くらいで、タイに行ってからは特に学校に通ったわけでもないけれど、自然と身についた。

毎日、その音に触れるというのが一番の語学習得方法だ。

 

やはり、英語は使える国も多いし、もう少し頑張って習得したい。

 

また、前述の

"Census figuers of the year 2000 show that the 31 percent of the population is comprised of minority residents."

は、教材の中の文章だけど、なかなか内容も面白かった。

 

トピックスとしては、コミュニケーションのハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の話だった。

日本のグローバル企業においては、いまや必ず研修材料になる話ではないだろうか?

 

こういう教材は、ストーリーが面白いから、英語の勉強をしつつ、内容そのものも勉強になる。

 

そういえば、私がそもそも英語勉強を始めた材料は、NHKラジオのビジネス英会話で、それは内容も面白かった。

 

何を勉強するにも、ストーリーは大切だ。

 

TOIECの点数をあげるには、TOEIC対策の勉強は必要かもしれないけれど、実生活で活用できる本当の語学力を鍛えるには、ストーリーのあるものを聞いて、発話する、それに尽きるかもしれない。

 

楽しんで音を聞こう。

一人でブツブツ、発話してみよう。

 

留学なんてしなくても、インターネットにある素材をいくらでも活用できる。

やはり、日本に関するニュースを英語できける、

NHK World Japan」は、お薦めだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボキャブラリーの増やし方

日本語でも、英語でも、多分他の外国語でも、

ボキャブラリーを増やすには、繰り返し同じ言葉に出合うのが一番。

 

言葉に出合うには、読書なり、音読なり、視覚・聴覚からインプットするしかない。

素読は、視覚・聴覚の両方をつかうことになる。

そこが、訳が分からなくてもインプットになる所以であろう。

 

「橋頭堡」という言葉に出合って、その言葉に対するアンテナが立つようになった。

megureca.hatenablog.com

そして、先日、また、新しい本の中で「橋頭堡」という言葉に出合った。

 

個々の民衆の代理人のひとりひとりは、こちらの政党かあちらの政党、こちらの町かあちらの町、こちらの橋頭堡かあちらの橋頭堡を代表しているにすぎない。」

(「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」 カール・マルクス著 丘沢静也訳 講談社

国民議会の代議員と大統領の権限について述べられている文章の中の一節。

 

もう、しっかり私のボキャブラリーに追加された。

まぁ、普段の会話で「橋頭堡」なんて言葉を使う事はないだろうけど。

 

一方で、単語、だけを繰り返し聞いても、覚えられない経験はないだろうか?

私が、英語の勉強をしていて、まさにそう。

いわゆる、単語をひたすら羅列したボキャブラリーの本はたくさんあるけれど、そうそう頭に残らない。

ところが、昨日調べた単語が、翌日に他の場面で出てくると、あ、これだ!って、頭に入る。

それは、その言葉が使われている場面とセット。

すなわち、文章になっていることが大切。

 

「sluggish」という単語、「動きの遅い、停滞」という意味だが、聞きなれない英単語だったけれど、ニュースを聞いているとよく出てくるのである。

NHK world Japanでも、PBS News Hourでも。

経済の回復がsluggishであるとか、コロナ感染患者の減少がsluggishであるとか、

一度、調べた単語が、ほかの場面ででてくると、頭に残る。

バカの壁を越えたという事だろう。

アンテナが立っている状態。

 

英語のボキャブラリーを増やすのに、興味のある分野の本を英語で読むというのもよい。

「susceptible」という単語、「感受性の強い、感染しやすい」という意味だが、ワインの教本を読んでいると、

「果皮が薄く、貴腐菌が付きやすいセミヨンが主体・・・」

「Semillon dominates because of thin skin and susceptibility to botrytis・・・」

といった、表現がよく出てくる。

 

「granite」「花崗岩」。

花崗岩なんて、普段の会話でつかうことはまずないだろうけれど、ワイン用語ではよく出てくる。

そう、あのフランス、ボージョレーの土壌が花崗岩

ワイン用の葡萄は栄養が少ない土壌のほうが品質の良いワインになるのだが、花崗岩は栄養分が少ないのである。その土壌と気候がGamey種の栽培に適していて、あの、「ボージョレー・ヌーボー」が生産される。

 

こうして、普段使わない単語でも、自分の好きな分野の本を読んでいて、たびたび出てくると、覚えることができる。

 

他にも、もっとボキャブラリーを増やせる方法はないだろうか?

 

間違える、という経験も、一つかもしれない。

 

昨日、TOEICを受けた。

??わからない単語があった。

試験終了間際に、修正したら、間違えた・・・。

「chronological」 形容詞 年代順の。

 

人間間違えることもあるさ。

でも、そして、一つ賢くなる。

 

いかに、ボキャブラリーを増やすか。

まだまだ課題だけれど、こつこつ、日常のなかで積んでいこう。

本を読もう。

英語でも本を読もう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

郵便切手 の 思い出

新聞の記事で、無線・文通といったアナログなコミュニケーション手段が息を吹き返している、という内容がでていた。

文通とはまた、懐かしい言葉。

ペンフレンドって言葉、今の子たちは知らないのではないだろうか?

直筆の文章を、やり取りする。

文字に、その人の個性もでていて、楽しい。

そして、貼る切手も、定番のものから、季節のものから、自分で選んで貼るわけで、その人の個性が出る。

 

ふと、思った。

最後に、切手を買ったのはいつだろう・・・。

 

私は、比較的筆まめだった。

 

小学生のころ、遠方へ暮らす祖母へ、手紙を書いていた。

最初は、一人暮らしをしていた父方の祖母へ。

子供ながらに、一人ではさみしいとおもったのか?

ただ、自分がなぜ書きたかったのかとか、何を書いていたのかは覚えていない。

手紙を書くのは、一つの習慣だった。

 

その祖母が入院してしまったからか、いつの間にか、母方の祖母へも書くようになっていた。

祖母は、よく返事をくれた。

母方の祖母は、私がバンコクに赴任していた5年間には、エアメールもくれた。

封筒と便箋が一体型になっている、薄いブルーのエアメール専用封筒で。

ちゃんと、横文字で宛名を書いてくれて。

大正生まれの祖母は、達筆過ぎて、時々なにが書いてあるのか読めないこともあったけど。

「めぐちゃん、いつもありがとう」の書き出しはいつも同じ。

懐かしい。

私は、バンコクから、タイの国中のいろいろな絵葉書を送っていた。

美し風景や、寺院、食べ物、色々。

祖母は「タイに行ったことがある気持ちになるよ」と言っていた。

時々、俳句が添えられていたりして。。。

その祖母も、今は天国。

捨てるに捨てられない、祖母からの手紙の束。。。

 

その昔、私の手帳には、切手と絆創膏が常備されいた。

いつのまに、切手を持ち歩かなくなったのだろう・・・。

切手は、もちろん、いつでも手紙が出せるように。

絆創膏は、、、もちろん、ケガをした時のためでもあるけど、いざとなったらセロテープの代わりにもなる、優れモノなのだ。

絆創膏は、今も入れている。

 

旅に出ると、旅先から自分宛ての手紙もよく書いた。

どこへ旅をしたかの記録になると思って書いていた。

ほとんど一人旅なので、写真をとることもないから、

地元の絵葉書を自分宛てに送ることで、思い出にしていた。

 

海外旅行でも、必ずポストカードを家族宛てと自分宛てに書いていた。

一人旅の最中に手紙を書くということが結構好きだった。

E-mailなんてない時代。

誰かとつながっていると思えること、帰る場所があるという事が、一人で旅をしていても安心材料になっていた気がする。

 

海外からだと、私の方が先に帰国することもしばしば。

時には、忘れたころに、1か月くらいしてカードが届くこともあった。

各国の郵便局に立ち寄って、スタンプを買って、ポストに入れる。

それが好きだった。

スタンプも各国色々あって楽しい。

 

5年くらい前、アメリカのセドナに行ったとき、郵便局で買ったスタンプは、

”MERRY CHRISTMAS” のかわいいサンタの絵が描かれていた。

酷暑の8月だったというのに、、、。

一瞬、迷った気配をさせつつ、「これでもスタンプとして使えるから文句ないでしょ」ってな感じで売ってくれた窓口のおばちゃん。

そういう、のんびりさもいい。

 

手紙を書いて、封筒に入れて、切手を貼ってポストに入れる。

何年やってないだろうか・・・。

返信ハガキや、年賀状をだすとしても、切手は貼らない。

いやはや、本当に何年切手を貼っていないだろう。

 

昔はなんでも郵便局で送っていたけれど、小包だって今は宅急便。

 

記念切手が出ると、いそいそと郵便局に買いに行ったものだけど。

切手収集の趣味っていうのもあった。

そうだ!

小学生のころ、切手、集めていた。

だから、祖母たちは、色々変わった切手を貼って、手紙を送ってくれた。

懐かしい。

切手のところだけ封筒から切り取って、そっと水につけておく。

水分で切手の糊がはがれて、封筒から離れた切手だけを取り出し、水分を取ってそっと乾かす。。

押し花のように、そっと上から抑えるように水分をとっておくと、新品のようにパリッとした切手にもどる。

でも、消印が付いている。

懐かしい・・・。

 

最近では、切手の裏が最初からシールのようになっているものもある。

キティちゃんやら、アニメのキャラやら、商業チックな切手まである。

いや、今や、水でぬらして貼る切手は存在してるのだろうか?

なめると美味しくないから、指に水をつけて、ちょんちょん、って。

 

なんか、手紙が出したくなった。

旅に出たい。

旅、欠乏症だ。。。。

 

コロナが収まったら、旅に出よう。

そして、手紙を書こう。

 

 

 

 

 

 

「たちどまって考える」 by ヤマザキマリ

「たちどまって考える」

ヤマザキマリ 著

中公新書ラクレ

2020年9月10日初版

 

コロナで立ち止まらざるを得なかった、ヤマザキさんの2020年の著書。

なかなか面白い。

共感。

 

まさに、文字通り、自宅のあるイタリアへ帰れず、日本に足止めされているヤマザキさんが、たちどまって考えたことがつづられている。

新書だけど、なかなかの読み応えのある一冊。

 

やはり、旅をして、想像力を養う事は人生にとって重要なことなのである!

と、強く共感。

 

日本とイタリアを比較して表現してあったり、具体的なことと抽象的なこととがうまく混ざり合って表現してあったり、本当に、モノを書くのがうまい方だな、と思う。

具体的な事例を示しつつ、抽象的な話のまとめにもっていく。

頭いいなぁ、と思う。

彼女のたくましさというのか、生きる生命力が好きだ。

 

2020年3月に開催された、ヤマザキさんが司会進行を務められた、六本木アートカレッジのwebiner(有料)に参加したことがある。

「文化と経済を考える」というようなタイトルだったか??

その時に彼女言っていたのが、

「民主主義とは参加すること」

すごく、頭に残った言葉だった。

 

本書にも、その言葉が出てきた。

「民主主義とは参加すること」

国民が政治についてきちんと批判したり、意見できないというのでは民主主義は成り立たない、と。

 

本書の中で、外国人でありながら日本の教育現場に携わっているウスビ・サコさんのインタビューを引用し、日本の民主主義の問題を指摘している。


”(ウサビ・サコさんは)『日本人は指示を待っている』という指摘をしている。確かに日本の人は自らが政治を知ろうと思うよりも、政治家が何か言ってくれるのを待っているところがある。しかし、その待ちの姿勢では民主主義は成立しません。民主主義というのは社会の全員が政治に参加するもので、そのため一人ひとりには政治の構造への理解も求められます”
と。


イタリアのベルルスコーニ元首相の時代、国民もメデイアも、彼のことを完全に「悪党」と認識していた。けれど、国民がベルルスコーニをきちんと批判できる、意見を言える環境があったから、イタリアの民主主義は機能していた。と。

 

それに比べて、日本では、「専門家でもないのに意見するな」といった空気がある。

専門家ではない人が意見して何が悪い?素人だから普通に持つ疑問を口にして、何が悪い?

同様なことを、内田樹さんもおっしゃっている。

 

ふと、ヤマザキマリさんの内田樹さんの共通点を見たような気がした。

専門ではなくても、ちゃんと自分の意見を発信する。

素人ですけど、それが何か?

という、姿勢が好きだ。

私は、そういう人に共感しがちだ。

発言内容に必ずしも同意できなくても、きちんと意見を発信してくれる人がいい。

そうでないと、建設的対話は成立しない。

専門家がいつも正しいことをいっているなんてことはない。

だれもが意見できる社会のほうがいい。

そして、船頭は一人でいい・・・。

正しく選ばれた船頭が一人いればいい。

選んだ船頭が、「悪党」だったら、また選びなおせばいい・・・。

 

本書の中には、たちどまっているあいだにできることもたくさんある、というメッセージもある。

古い映画や本も、この機会にじっくり観なおし、読み直しができる。

 

本書の中でも、いくつかの映画や本が紹介されている。

名作の観なおしもいいかもしれない。

個人的には、また、「テルマエロマエ」を観たくなった。

これも、一つの名作!

本なら、安部公房

政府のコロナ対策に愚痴っている暇があったら、本を読もう!

安部公房は、まだ読んでない本がたくさんある。

読みたい本リストがまた増えた。

 

できた時間を何に使うかは、自分で考える。

そうそう、たちどまったときこそ、考える時間ができるのだから、

自分の頭で考えよう。

 

たちどまる時間があるということは、結構重要だ。

仕事に忙しく、たちどまる暇なく働いていると、時々大切なことを忘れていることがある。

 

たちどまって、考えよう。

それには、旅が一番なんだけどね。

 

ま、今は、妄想のなかで旅をしよう。

あるいは、近所でも、いつもと違う道を通ってみよう。

 

今日は、梅雨の合間の久しぶりの晴れ。

ちょっと、散歩を楽しもう。

プチ旅気分。

 

そして、ちょっと、考えてみよう。