「佐藤優さん神は本当に存在するのですか?」 by 竹内久美子  佐藤優

佐藤優さん神は本当に存在するのですか?」
宗教と科学のガチンコ対談
竹内久美子  佐藤優
2016年3月15日
文藝春秋

 

佐藤優さんと動物行動学者の竹内久美子さんとの対談。

図書館で見かけて借りてみた。

 

正直言うと、私は、竹内さんの著書というのはあまり得意ではない。何か一方的に彼女の主張を押し付けられてるような感じがして、読者と対話しているというより、一方的な竹内さんの主張を読むのがあまり得意ではない。かつ、自然科学の観点からもちょっとずれている、、、と思う事が多いからだ。


でも佐藤優さんとの対談だし、、、と思って、本図書館の棚から取り出してみた。すると表紙にあったのはヨシタケシンスケさんのイラストだった。
あら、出会ってしまった一冊、、、という感じ。

なので借りてみた。

 

255ページの単行本。まぁまぁ、の厚さ。

 

第1章 神様はホントにいると思いますか? 宗教と科学のデスマッチ
第2章 聖書っていいかげんではないですか? 天才イエスと悪人パウロの合わせ技
第3章 愛する隣人って誰のこと? 血縁と非血縁のはざま
第4章 人はなぜ浮気をするのですか? パートナーと愛人の選び方
第5章 将来のこと動物に訊いていいですか? 人間と動物の合わせ鏡

 

面白かったのは、やはり、第1章。

 

プロテスタント神学者である佐藤さんと、無神論者でリチャード・ドーキンスの主張に共感しまくる竹内さん。
神、という視点では、まったく、立ち位置の異なる二人。

だから、宗教と科学のデスマッチ。


結論から言えば、佐藤さん曰く「立場が違う」ので、科学で説明したいのでしたら、どうぞそうしてください、私はそれを否定も肯定もしません。。。って。

 

佐藤さんは、基本として、
「全知全能の神によって作られたこの世界を、それ自身に制約がある人間の理性によって解明することはできないと考えている。」と言っている。

人間の理性の限界。
たしかに、人間が考える自然科学も限界がある。
竹内さん自身も、
「科学というのは、その時点での真実であって、明らかな反証ができるまでの真実に過ぎない」という事を認めている。


だから、佐藤さんは、森羅万象、神までもを人が説明しようとすること自体に限界があるのだから、それでもやりたい方はどうぞ、、、と、そいういう事のようだ。

なるほど、と思う。
分かる。

 

ただ、今の私だからわかるのであって、若いころの私なら分からなかった。
自然科学が絶対だと思っていたから。
世のなかには一つの真実があって、それ以外は間違っていると思っていたから。
でも、そんなことはない、、、と、歳を重ねると、理解できるようになるものだ。

 

 

佐藤さんは、リチャード・ドーキンスがその著書「利己的な遺伝子」や「神は妄想である」のなかで、徹底的に神を否定しようとしている姿勢は、そうすること自体が神のことを一生懸命考えているからである、として、特に、否定も肯定もしない。


いや、そういわれちゃっちゃぁね。

愛しているの反対は、嫌いではなく、無関心。
そういうこと。。。かな。

 

今回、佐藤さんのいう事を否定しまくろうとする姿勢の竹内さんと、それをいなしつつ話をすすめる佐藤さんとの対談で、プロテスタント神学というものの立ち位置への理解が、また少し深まったような気がする。反証したがる竹内さんへの佐藤さんの回答は、わかりやすい。

 

プロテスタント神学にも、古プロテスタンティズムと近代プロテスタンティズムがあるという事。
プロテスタンティズムというのは、宗教改革当時の「イエス・キリストに戻れ」という復古主義
近代プロテスタンティズムというのは、宗教改革以降の啓蒙主義の出現とその後の世界大戦における大量殺戮という矛盾を克服するために、あらたに生まれてきた、「宗教の本質は直感と感情である」、というシュライエルマッハーによる解釈。

シュライエルマッハーの「神は心の中にいる」という考え方ができてから、地動説のような宇宙観、自然科学も受け入れることができるようになった。
祈りの言葉である「天にまします我らの神よ」の天というものも、神が心の中にいるのであれば、それで地動説があることによって神が否定される必要はない。

 

私の思考では、地球は丸くて、地球が動いていても、上は上で、宇宙を、空を、上と思っていればいいじゃないか、、、という気がするけれど、、、。地球が丸いという事より、地球が動いているという事の方が、当時はセンセーショナルだったのかもしれない・・・。

 

二人の対談を通じての、私なりの解釈は、
「神様がいると思う人には神様はいる。」
それは、心の中かもしれないし、森の鎮守の神様かもしれないし、、、。

 

そして、
「結局、特定の宗教でなくても、人は何かを信じている」
という、事のような気がする。

 

佐藤優さんのいう事を信じる、佐藤教かもしれないし、
神様はいないという事を信じる、無神論教かもしれないし。
あるいは、絶対的に自然科学が世界を主導すると考える自然科学主義教。。。

 

佐藤さんのことばを借りると、
「人間というのは本質において宗教的な生き物」

 

動物の行動は、本能。
人の行動は、本能+理性。

その、理性の根拠になっているもの、原理原則を作っているものがその人にとっての宗教みたいなものなのかもしれない。


そして、時にそれが、ブレインブロックを起こす。
よい、ブレインロックと、外した方がいいブレインロックがある。

何かを信じ込んでいるだけかもしれない、
と、自分の思考を時々疑ってみるのは大切だ。

 

思考の転換のためにも、やはり、異なる意見の人の話を聞くっていうのは大事だ。

竹内さんの出てくる本だから、といって一瞬避けようかと思った本書だけど、読んでみて良かった。

 

この本も、一種の反証主義がもたらす、解説本ともいえるかもしれない。

タイトルは、「宗教と科学のガチンコ対談」なのだが、
神学と宗教学は違うのだ、、、ということをちょっと垣間見た一冊だった。

 

 

面白い。
やっぱり、読書は楽しい。 

 

話は飛ぶけど、ヨシタケシンスケさん、好きだ。

彼のイラストがあることで、やもするとケンカ腰な竹内さんの主張が、やわらげられている気がする・・・。

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「ジニのパズル」 by チェシル(崔実)

「ジニのパズル」
チェシル(崔実)
2016年7月5日 第1刷発行
講談社


「〈危機〉の正体」 (佐藤優 富岡幸一郎) の中で、在日の人たちの現実としての危機が小説という形でしめされているもの、として、紹介されていた。

megureca.hatenablog.com

日本で現実に起きている、在日朝鮮人在日韓国人の方の話が小説という形で表現されている、ということで、ちょっと辛そうだし、どうしようかと思ったのだけど、図書館で借りてみた。

 

著者の崔実さんは、1985年生まれ東京都在住。

2016年、本作で第59回群像新人文学賞を受賞。

 

以下、ネタバレあり。

 

Amazonの紹介文には、
”「日本には、私のような日本生まれの韓国人が通える学校が、二種類あるんだ」――。1998年、テポドンが発射された翌日、チマ・チョゴリ姿で町を歩いていたジニは、警察を名乗る男たちに取り囲まれ……。二つの言語の間で必死に生き抜いた少女が、たった一人で起こした“革命”の物語。”
と、ある。

 

が、これは、彼女が起こした革命の物語ではない。
だって、朝鮮学校で起こした革命は成功しなかったのだから。。。。
それに、そこだけを読んではいけない本だと思った。
「〈危機〉の正体」で紹介されていたから、そこに気が付いて読むことが出来た気がする。
もっと、暗く、深く、社会にある、辛く、厳しい現実の物語。

そして、そこから、救ってくれる手もある、という物語。

 

この本は、在日朝鮮人学校の現実、チマ・チョゴリをきた生徒が実際に受けたであろう差別、そして、なぜそんなことが起こるかを理解できない少女が行き場を失い、家族からも離れ、遠いオレゴンの土地で自分を取り戻す、そんな物語だ。

読み終わって、本を閉じた瞬間に、涙があふれた。。。。
そういう、本だ。
あってはいけないことなのに、きっと、事実あった出来事だ。


ストーリーは、女子中学生、ジニが日本を離れ、オレゴンでホームステイをしながら学校に通っているところから始まる。そして、そこでも、ジニは退学の危機にある。。。
ホームステイ先のおばさん、ステファニーは、そんなジニを優しく、静かに見守ってくれている。そして、「あなたはどうしてそんなに悲しい目をしているのか。ここに来る前に日本で何があったのかを語ってくれないか」という。

語りだす、ジニ。

そこから、日本朝鮮人学校での回想が始まる。
実際に、話の軸になるのは、テポドン発射事件前後の現実。

ストーリーは、日本での出来事を語り終えたジニの場面に戻り、オレゴンの生活場面に戻る。誰にも言えなかったこと、親にすらいえなかったこと、それをステファニーに話したことで、ジニの心は、何かを取り戻す。

 

「ジニのパズル」のパズルは、無くしかけた自分のかけらを取り戻す、という事なのかもしれない。

最後は、一応、ハッピーエンド、かな。

 

”ステファニーは両手で包み込むように私を抱きしめてくれた。その腕の中に身を任せるようにもたれ掛かると、どこまでも続く終わりの見えなかった長旅を終え、やっと家にたどり着いたようなそんな気分になった。”

 

よかったね、ジニ。
涙が出ちゃったよ。

 


1998年、テポドン発射って、、、、。
崔実さんは、1985年生まれというから、1998年当時、13歳。中学生。
実際にその時に朝鮮学校へ通っていたのかもしれないし、本人、あるいは友人が命の危機を感じたのかもしれない。


私は、1998年には既に社会人だったので、たしかにテポドンのニュースは、外交問題の一つとして記憶にある。その時、在日の人たちに何が起きていたのか、という視点では見ていなかったと思う。

ただ、中学、高校と横浜市の学校だったので、「チョーセン学校」という単語は、当時よく耳にした。チマ・チョゴリを着た女子生徒を街で見かけることもあった。そういえば、2021年の今は、まったく、目にすることがない。もう、何年も前から、見かけなくなった。
もしかすると、テポドン発射以降、街中でチマ・チョゴリをみることが無くなったのかもしれない。

 

関東で育った私には、「部落差別」という言葉は、あまり身近ではなかった。恥ずかしながら、私が、「部落差別」とういことを教えられたのは社会人になってから、会社の新人研修が初めてだったと思う。
その代わりと言っては何だが、「朝鮮人」という言葉は、なにかよくわからない、自分とは違う人、という偏見を持っていた気がする。「朝鮮人学校と喧嘩する」、とか、そいう文脈で存在していた気がする。

インスタントカメラを、「馬鹿チョンカメラ」と言っていたら、「チョン」って差別用語だと言われて、驚いた。「馬鹿でも、チョンでも」って、意味を分からず使っていた。
子供って、怖い。
「チョン」という言葉は、江戸時代からあったそうだが、差別的に使われるようになったということで、今では放送禁止用語ではないだろうか。
耳にすることが無くなった気がする。


人間の本質は善である、と信じたいけれど、偏見や差別があるのも事実だ。
偏見や差別は、知らなければ起こらない、ともいう。
親が何気なく言っている言葉で、子供が同じ見方をするようになる。
大人が何気なく使う表現で、子供に刷り込みが生じる。

 

知らなかった、ではすまされない。
大人は発する言葉に責任を持たなくてはいけないな、と。
そんなことを思った。

 

「ジニのパズル」は、最終的にはジニが救われるし、ジニが前に歩き出そうとする希望のハッピーエンドで終わるから、小説としては前向きだ。

 

でも、それは、ジニにとっては希望であって、「在日朝鮮人」が抱える社会問題はなにも解決していない、という事実もあるように思う。

 

無意識の差別ほど、罪なことはない。

それを、思い出させてくれた気がする。

本の読み方って、色々。

小説も、色々。

 

だから、読書は楽しい。

 

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「隠された十字架  法隆寺論」 by  梅原猛

隠された十字架
法隆寺
梅原猛

昭和56年4月25日 発行
平成16年6月15日  45刷
新潮文庫


先日、「日本人は思想したか」で、吉本隆明さん、梅原猛さん、中沢新一さんの鼎談を読んだ。その中で梅原さんが、ご自身の著書について言及されていて、それが「隠された十字架 法隆寺論」だった。

megureca.hatenablog.com

 

そもそも法隆寺にも、聖徳太子にも、私はそんなに詳しくないのだが、「法隆寺」と言う言葉と「十字架」と言う言葉の組み合わせが気になったので、図書館で借りてみた。なかなか分厚い新潮文庫

 

秦恒平さんの解説、年表を含めると、なんと602ページ。だいぶ、分厚い。

 

著者の梅原猛さんは、大正14年(1925年)仙台生まれ。
昭和23年、京都大学哲学科を卒業。立命館大学教授、京都市立芸術大学学長を経て、多方面で活躍された哲学者。2019年に、93歳で亡くなられている。

 

「隠された十字架 法隆寺論」は、当時季刊紙だった「すばる」に3回にわたり連載ののち、昭和47年5月に出版され、版を重ねつづけてきた。その間に、厳しい批判や反論も現れたものの、平成16年で45刷、というのだから、すごい。

梅原さんがこの本で語っているのは、法隆寺聖徳太子一家の怨霊を鎮めるために建てられた寺だ、という仮説。

 

法隆寺は怨霊鎮魂の寺。美しく妙(たえ)なる法隆寺像は、この本によって崩壊する。
大胆な仮説によって、学会の通説に華麗な挑戦を行い、推理小説のような面白さで真実の古代思想を蘇らせた知的冒険の書。”
と、単行本の帯に、こういう文章が刷り込んであったそうだ。
秦恒平さんの解説)

 

梅原さん自身が言っているのが、
”この本を読む際にして、読者はたった1つのことを要求されるのである。それは物事を常識ではなく、理性でもって判断すると言うことである。
私は哲学を天職として選んだ。
哲学の仕事は常識を否定して人々を懐柔の中に突き落としそこから新たに根源的な強いを始めさせようとする仕事である。”
ということ。

 

本は、梅原さんがたてた法隆寺は怨霊鎮魂の寺だ、という仮説を如何に証明していくか、というもの。

 

私にとって、法隆寺法隆寺で、怨霊鎮魂でも、仏教万歳でも、なんでもいいのだが。。。。ちょっと、面白そう。梅原さんの文章は、骨があるというか、なんというか、骨太な感じ。理性でもって、理論でもって書かれているからかもしれない。

分厚くて、一瞬、読むことを躊躇したのだけど、せっかくなので、法隆寺に関する勉強だと思って、よんでみた。
歴史素人なりに、面白かった。

 

途中で、法隆寺の復習をした。

(参考図書:いっきに学び直す日本史 古代・中世・近代 教養偏 東洋経済新聞社)


法隆寺 
厩戸王(うまやとおう)(聖徳太子 574~622年)が斑鳩に建てた寺、と言われている。聖徳太子は他にも大阪難波四天王寺など、全部で7つもの寺を立てている。仏教のお寺。時は飛鳥時代仏教文化といわれるくらい、仏教のお寺がたくさん建てられた。法隆寺は、たくさんのお寺の中でも特に重要で、五重塔・金堂や回廊の一部は、当時の建築様式をよく伝え、現存する世界最古の木造建築物。

 

 

世界最古だって!!しらなかった。

そういわれると、何十年も前に、学校で習ったような気もしなくもない・・・。

で、教科書にも、「聖徳太子が建てたと言われている」と書かれているわけだが、いや、聖徳太子の鎮魂のために建てられたのだ、というのが梅原さんの説。

 

法隆寺は、607年に創建されたが、「日本書紀」に天智天皇のとき670年に全焼した、と記されている。この記事から現在の法隆寺は再建されたと言う説と、建設の様式から創建当初のものであるとの説があった。
「年輪年代測定」という科学的手法による分析結果から、現在では、再建された、という説に落ち着いている。

ということで、やはり、創建は聖徳太子かもしれないけれど、現存しているものは、その後、再建されたもの、という説は支持されそうだ。

 

また、法隆寺の建設には、柱の中央よりやや下の部分に膨らみが持たせてあり、ギリシャのエンタシス様式が認められるそうだ。仏教って、やはり元をたどれば、西に、西に、、つながっていく。

 

あぁ、こんなことなら、9月に国立博物館でやっていた、”聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子法隆寺」”にいっておけばよかったなぁ、、、。気になったのに、行かなかった。

やはり、気になる展覧会は躊躇せずに行くべきだ。。。。


聖徳太子に対する冒涜かもしれない、と言いつつ、梅原さんなりの「法隆寺は鎮魂のためのお寺だった」と言う説を裏付けするような、梅原さん理論が展開されていく。

 

もともと歴史に詳しいわけではない私にとっては、何が一般的に言われている常識かもわからない中で、梅原さんの理性的な説明についていこうとしながら本を読んでみた。

 

「十字架」と言う文字に、どこかでキリストの話が出てくるのかと思ったが、そういうわけではなかった。
ただ聖徳太子は、イエス・キリストのように厩戸で生まれたと言われている。そして聖徳太子弥勒になって復活したとも言われる。

そう考えると馬小屋で生まれて、死後に復活する人と言う生涯は、聖徳太子イエス・キリストのような人と言う説があるのもわからなくはない。梅原さんはそうはいっていないけど。 

 

本書の初めの方に、法隆寺の7つの謎、が紹介される。一般的に言われる7つの謎。そして、石田茂作さんの「法隆寺雑記帖」に紹介される7つの謎。そして、梅原さんにとっての7つの謎。

自分自身の疑問を最初に提示し、それを順に謎解きしていく。

骨太な文章。

読み応えがある。

なにが正解かはわからないけれど、こうして論ずることが楽しい。

だから、梅原さんの文章は楽しいのかもしれない。

 

法隆寺の救世観音は、フェノロサによって、夢殿から発見されたのだそうだ。そして、モナ・リザと比較されている。なかなか、興味深い。

 

法隆寺が、聖徳太子の怨霊鎮魂の寺であるとういことの真偽は、まぁ、歴史の不思議として取っておくとして、仮説をたてて、それを立証していこうという試み、そのものが面白い。

歴史の真実は、やはり、なぞだと思うけど。

 

世のなか、白黒はっきりつかないことはたくさんある。

過去のことですらそうなのだから、未来のことなんて、わからない。

現在だって、わからない。

でも、あーでもない、こーでもない、、、って妄想してみることが楽しい。

 

明るい未来を妄想しよう。

歴史に触れると、未来を妄想したくなる。

人の思考は、時空を超える。

そして、思考しない限り、未来は創れない。

 

 

 

 

禅の一言 「遠山無限碧層々」(えんざんむげんへきそうそう)

今日教えていただいた、禅の一言


遠山無限碧層々
(えんざんむげんへきそうそう)

 

碧巌録第20則

禅語、公案の一つ。

お茶室などにも良く飾られるらしい。

書で書いたら、けっこう、素敵かもしれない。

 

漢文:
堪對暮雲歸未合、遠山無限碧層々。

 

読み:
対するに堪えたり、
暮雲の帰って未だ合せざるに 遠山限り無き 碧へき層々。

 

意味:
遠山は、果てしなく遠い山。山々が、幾重にも、緑をなしてつらなっている。暮れなずんで、夕焼けが出始めた頃の雲の中に、緑の山々が幾重にもつらなっている。
素晴らしい境涯、限りなく続く、素晴らしいではないか、、、。

 

十牛の図』という、禅における心境の変化を表したものがある。
牛、というのは、禅で言う心の最高の状態。

1.    尋牛 (じんぎゅう) 
2.    見跡 (けんせき)
3.    見牛 (けんぎゅう)
4.    得牛 (とくぎゅう)
5.    牧牛 (ぼくぎゅう)
6.    騎牛帰家 (きぎゅうきか)
7.    忘牛存人 (ぼうぎゅうそんじん)
8.    人牛倶忘 (じんぎゅうぐぼう)
9.    返本還源(へんぽんかんげん)
10.    入鄽垂手(にってんすいしゅ)


どうしたら心が安定するかと、牛を探すところから修行が始まり、牛を見つけて、牛を捕まえる。そのうちに、牛は捕まえておかなくても、心が安定してくる。
修行の途中の状態。

 

第7段階の『忘牛存人』(ぼうぎゅうそんじん)の段階は、もう、悟りや心境のことを忘れてしまって、人だけがある。


迷いはもとより悟りの臭みをもきれいに拭い去り、人格の完成という修行の目的の一半をなしとげた段階。
これを『長い苦しい旅を終えてわが家に帰り、威儀も軌範も忘れてドッカと安坐する』境涯という意味で、『帰家穏坐』ともいう。

「堪對暮雲歸未合 遠山無限碧層々」は、そんなドッカとした安坐している感じ。


でもそれでも、まだ修行は終わらない。

 

日々の暮らしは続き、その中で、ゆったりと、どっかりと、安坐しつつも暮らしていく。
ただ、そこに安住するのではなく、日々、暮らす。
出かけたり、商売をしたり、家族と暮らしたり、、、

そして、修行は続いていく、、、


毎日が、修行、ってことかな?

あれもこれもと欲張らずに、小さな感動に感謝して、そして日々暮らしていく。
そんなことかな。

 

今日も、コーヒーが美味しい。
そんなことにも感謝しよう。

 

今日の朝の坐禅は、「無」というより、「眠い」、、、だった。
それでも、自宅からオンラインで参加できる坐禅を毎週開催してくださる主催の方に、感謝。

先週は、うっかり寝坊してしまったので、今週は出たかった。

眠かったけど、坐った。

坐れば、すっきりする。

 

ありがとうございます。

 

朝から、ありがとうを口にすると、ちょっと気持ちいいね。
ありがとうございます。 

 

今日も一日、がんばろう。

 

 

「〈危機〉の正体」 by 佐藤優 富岡幸一郎

「〈危機〉の正体」 

佐藤優 富岡幸一郎

2019年10月28日 第一刷発行

講談社

 

図書館の棚で見つけた本。手に取ってみた。
表紙には、
「暴発するテロ、迫るファシズム、広がるインターネットの闇、底なしの格差と貧困。見えない危機の時代を生き抜く最強の読解力を身につけろ!」
とある。

 

著者の一人、富岡幸一郎さんは、1957年東京都生まれ。文芸評論家。関東学院大学国際文化学部比較文化学科教授。鎌倉文学館館長。そしてプロテスタント神学者


プロテスタント神学者である二人の対談。

 

「まえがき」の中で佐藤さんは 、危機について語るときには、単に危機を分析、認識するだけではなくて、危機から抜け出すための処方箋についても考えなくてはならない、と言っている。


そして、そのことを徹底的に語り合いたかったのが、富岡幸一郎さんだという。富岡さんも佐藤さんも、日本基督教団に所属しているプロテスタント。二人に共通しているのは、スイスのプロテスタント神学者カール・バルトから、強い影響を受けているということ。

 

カール・バルトは、第一世界大戦の大量殺戮、大量破壊によって、キリスト教文明が崩壊する状況を見て、神とは?ということを根本的に見直した神学者。バルトの神学は、危機の神学ともいわれる。

 

神学も、いくつかの種類があるそうだ。また、時代のなかで色々と変わってきたわけで、最近つくづく、世界の歴史や哲学を理解しようとすると、神学に触れないわけにいかないということを思う。


そして、この本を通じて、ようやく、少し、佐藤さんのいわんとすることが、少し、、、少しだけ、見えてきたような気がする。

 

時代を円環でとらえる日本の文化と、直線でとらえるキリスト教の考え方。
その違いがあるのだという事を認識すると、キリスト教終末論を前提に危機を受け止める佐藤さんたちキリスト教徒の考え方と、昨年のことは水に流して新年を迎える習慣がある一神教ではない日本人の物事の受け止め方、違って当たり前、ということが見えてくる気がする。


その違いがもたらす危機への対応も異なる。だから、危機が起きた時に、個人の受け止め方も異なる。

 

始めがあって、終わりがくるまで続く直線的な時間への理解。
始めがあって、終わりはなくいつまでも輪廻する、円環な時間への理解。

 

なるほど、そういうことか、と、ふと、腑に落ちた気がした。

 

そして、「まえがき」のなかで、佐藤さんが、
キリスト教徒である私は、私を含む全ての人間が罪に濡れていると思っている。罪が形をとると悪になる。危機の時代には、罪が形になりやすく、世界が悪であふれることになる。このような状況で救済が外部から到来することを『急ぎつつ、待つ』ことが重要なのである。この『急ぎつつ、待つ』ということの意味について、本書を最後まで読んでくださった読者には理解していただけると信じる。」
と書いているのだが、「まえがき」として最初に読んだ時には、さっぱり意味が分からなかった。
さらっとだけれど、2回続けて読んでみた。
そしたら、少し、分かった気がする。

 

佐藤さんは、「二人のプロテスタント使徒として」この本をつづる、という事も言っていて、お二人の対談が、「使徒の言葉」なのだと、それは、読者にとっては外からの救済なのだと、そいうことなのかな?と思った。

 

佐藤さんは、「救済」がくるのを黙って待っていよう、と言っているのではない。だから、「急ぎつつ、待つ」のだと。

 

新自由主義によって、あらゆることが「自己責任」と言われる時代に生まれ育った若者たちは、やもすると、「自己責任」という価値観を押し付けられているところがある。いやまてよ、生まれた時代は、自己責任とは違うだろう。

 

生まれた時代、国、家庭、自分ではどうにもならない外部環境もある。それを「自己責任」で何とかしろ、と言うのは間違っている。すでに格差のなかで生まれたことを、「自己責任」で片づける社会は、無責任だ。
だからこそ、声をあげる。
それは、文学という形をとることもある。


本書では、さまざまな文学作品が取り上げて、そこで語られている危機、それこそは一つの声である、という。

 

なかなか、面白い本だった。

 

最後の方で、富岡さんが、戦争孤児は言葉をもっているけれど、今の貧困にあえぐ子供たちは、言葉がない、、、という事を言っている。
言葉を持たない。
つまりは、自分を表現することができないということ。
相対的貧困の深い闇。
絶対的貧困は、わかりやすく、救済の手ものべやすい。
でも、義務教育は受けた、高校も通ってはいる、けれど続かない。相対的貧困
難しい課題だな、と思った。


でも、そいう現実こそが「危機」であり、その危機をより多くの人に知ってもらうためにも「文学」で表現する世界がある。

 

本書の中では、いくつもの小説が紹介されている。
沖縄の問題、在日の問題、貧困の問題、、、、ちょっと、読むと辛そうだな、、、と思う作品も多く紹介されていて、そいう類の本は、手に取るか、、悩むところだ。
でも、読むことで世界が広がるのだろうな、とも思う。 

小説という形で読むことで、悲惨なニュースで知るよりも、救いようがあるかもしれない・・・。

 

表紙に「見えない危機の時代を生き抜く最強の読解力を身につけろ!」とあった意味が、本書を2回通して読んでみて、少しわかった気がする。

 

なかなか、深く、じんわりと、考えさせられる一冊だった。

小説も、ただストーリーをなぞるだけではない読み方もあるな、と改めて思う。

 

難しくても、

悲しい話でも、

やっぱり、

読書は、楽しい。

 

 

 

 「渋沢栄一  天命を楽しんで事を成す」  by 鹿島茂 監修

渋沢栄一」 天命を楽しんで事を成す
鹿島茂 監修
2021年1月15日
別冊太陽 日本のこころ 285

 

大河ドラマは見ていないのだが、大河ドラマのおかげで、今年は渋沢栄一さんに関する本がたくさん出版されている。
最近、明治維新のころの本を数冊よんだこともあり、改めて、渋沢栄一の本を手にしてみた。

 

やっぱり、すごい人だなぁ。。。というのが、感想。

すごい。

家庭人としては問題あり?!だったかもしれないけれど、

これだけ、社会に貢献しているのだ、やはり、偉大だ。

バリバリの起業家だったわりには、柔和な顔立ちで、お札になったとき、、、どんなかんじだろう?!?!と、、思わなくもない。。。くまさんみたい、、、な、、、優しいお顔。

 


別冊太陽の一冊。A4よりちょっと大きい、29cm、写真が満載の本。
最後には、渋沢栄一略年譜が付いている。
1840年2月13日の誕生から、1931年11月11日 永眠まで。

 

監修が鹿島茂さん。
最初に、「いまこそ渋沢栄一」というタイトルで、出口治明さんが執筆されている。 
改めて、その生い立ちを復習として引用、
渋沢栄一は、1840年天保11年)埼玉の豪農の家に生まれた。
7歳の時に従兄の尾高惇忠(じゅんちゅう)の下で、四書五経を呼んだという。
渋沢は、一時、時代の風潮を反映して尊王攘夷運動に身を投じるが、縁あって徳川慶喜に仕えることになった。そして幕臣として1867年(慶応3年)慶喜の弟、徳川昭武(あきたけ)の随員としてパリの万国博覧会に出向き、その後ヨーロッパ各地を昭武と共に視察した。いわば、岩倉使節団の先駆けを行ったようなものである。
この経験が二十代後半の若き渋沢栄一の目を開かせたのであろうことは想像に難くない。
渋沢の生涯を貫く合理的精神は、おそらくこの度で培われたものであろう。そのままパリで留学を始めた昭武一行は、明治維新後、新政府から命じられ1868年(明治元年)に帰国した。”

 

幕末の時に、日本にいなかったことが、渋沢栄一にとって自分の価値観形成に大きく影響したと思われる。


そして、帰国後に一度は大蔵省に入省するものの、大久保利通や、大隈重信と対立して大蔵省を退官。そして、数々の民間企業の設立にかかわるわけである。
その数、500社以上というのだから、そりゃ、日本の資本主義の父と言われる訳だ。

 

渋沢さんの 著書といえば、一番有名なのは、「論語と算盤」だろう。10数年位前か?私自身がサラリーマンの一人として管理職となり、経営という事に興味を持ち始めたころに読んだ。
富をなす根源は道徳であり、道徳があって経済がある。道徳経済合一説。
初めて読んだ時、私なりに至極「がってん!」したものである。


拝金主義とか、儲け主義とか、稼ぐことが悪いことのように言われることがあるけれど、稼いでそれを社会に還元することが、何よりの社会価値創造。稼いだものを私利私欲に使ってしまうのは違うけれど、社会のために稼いで還元するのは、それこそが徳である。
と、私は思っている。

内村鑑三だって、『後世への最大遺物』で、お金を残せと言っている。

 

私利私欲ではなかった渋沢栄一
出口さんは、だから、渋沢は、岩崎弥太郎安田善次郎のような財閥めいたものは残さなかったのだろう、という。
言行一致。
それが、渋沢栄一の魅力なのだと。

 

本書のなかでは、渋沢の数々の業績が記されているのだが、中でもそうだったのか、と印象的だったのは、大蔵省時代に、「公債証書発行」という発案で、廃藩置県を達成したという事。
確かに、それまでバラバラだった財政を国として一つにするのだから、それは、、、いったいどこから手を付ければいいのやら??だっただろう。借金だらけの藩、そこそこ蓄えている藩、、、そういう課題があったという事ですら、私にとっては、新たな気づきだった。


数々の起業もすごいことだし、後世まで会社として残るのだから、業績としては分かりやすい。でも、仕組みをつくったということが、実な何よりすごいことなのではないだろうか?


鹿島さんの解説によると、フランスで学んだ「サン・シモン主義」の循環理論に、渋沢が知らず知らずのうちにならっていたのではないか、という。

渋沢流にいうと、「細流主義」。
それぞれの家のタンスに眠っている滴のようなお金でも、銀行に集められ、そこから大きな流れとなって新事業に投資されれば、お金は循環し、日本経済の血液として大きな活力を作り出すに違いないという考え方。


銀行や証券会社が普通に身近にあって、個人も株式投資などで運用することが一般的になっている今では当たり前のことかもしれないけれど、銀行という仕組みがあって、初めて成り立つこと。そして、銀行を成り立たせる紙幣制度のためには、紙と印刷技術が必要だから、製紙会社、印刷会社を作った。
なるほど、そういうことか!と「がってん!」。


鹿島さんは、渋沢栄一の「道徳経済合一説」は、現代の行き過ぎた新自由主義グローバリズム、そしてコロナがさらに助長するナショナリズム保護貿易主義を克服し、私たちがこれからの第三の道へ進む、その道になるのではないか、と言っている。

 

必要なものを、必要なところへ届ける。
それが、経済活動というものだ。
それが、グローバルになり、届け先の顔がだんだん見えなくなる。
顔の見える経済って、大切だな、と、ふと思う。

小さくても、循環をつくる一員でいたいな、と思う。

 

渋沢栄一の新一万円札は2024年度から流通予定だ。
あと、三年か。

聖徳太子から、福沢諭吉。そして、渋沢栄一
聖徳太子が、諸説あるが574年ころ生まれ。
福沢諭吉が、1835年生まれ。
渋沢栄一が、1840年生まれ。


次の次の一万円札には、1900年代生まれ位になるかな?
さて、だれになることやら。

個人的には、白洲次郎さんのようなイケメンになってほしい、、、。

くまさんのような、優しいお顔の渋沢さんもいいけどね。

 

渋沢栄一を改めて読んで、やっぱり、経済を回すのって楽しいことだと思う。

経済活動、しよう。

 

一生、フローで生きるために。

ストックにこだわらない。

フローで生きよう。

 

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「LISTEN」 by ケイト・マーフィ

「LISTEN」 ~ 知性豊かで創造性がある人になれる ~
ケイト・マーフィ 著
篠田真貴子 監訳
松丸ひとみ 訳
日経BP
2021年8月9日 第一刷発行

 

8月の発売当初から気になっていたけれど、まぁ、よくある「聴く」の本だよな、と思って読んでいなかったのだが、ここ数週間で繰り返し話題に出てくることがあって、読んみた。
500ページを越える大作。

 

結論から言うと、内容的に特に目新しいことは無く、従来の日本人の書く「聴く技術」に関する本とあまり変わらないような気がした。

とはいっても、内容は充実しているので、良い本だとは思う。色々とリマインドされることがあったし、視点として、なるほど!も、あった

 

宗教的な視点が、なるほど!、だった気がする。

 

著者のケイト・マーフィは、ヒューストンを拠点に活躍するジャーナリスト。もしかすると、アメリカ人にとっては、新しかったのか??という気がしなくもない。

表紙には、「マルコム・グラッドウェルも絶賛」と金ピカで書いてある。


本の目新しさについては、もともと、自分の意見を主張するのに慣れている文化(アメリカ)と、自分の意見を主張することを遠慮する分化(日本)の違いがあるような気がした。まぁ、それも、今の時代においてはステレオタイプで、偏見かもしれないけれど。

 

改めて、心にとめておきたいと思ったこと、覚書。

 

繰り返し、言われていることだけれども、やはり大切だな、とリマインドしてくれたのは、人の話を聴く時の注意事項。

・「自分は間違っているかもしれない」という可能性を持って聞く。
・「次に何を言おう」と考えない。
・「なぜ?」は、尋問になってしまうので言わない。
・ 会話をコントロールしようとしない。
・ アドバイスしようとしない。
・「うなずき」や「オウム返し」は、聴くことではない。

 

「うなずき」や「オウム返し」は、コーチングの世界では推奨されることだ。あいては、聞いてもらえていると思って安心する、というけれど、私はそれはどうかな?と思っている派。どちらかというと、 

「うなずき」や「オウム返し」は、聴くことではない。

に、同意!

 

アドバイスについては、「我慢した方が良いアドバイス」というのも紹介されている。
・どんな気持ちが自分にも理解できると言う
・問題の原因を突き止める
・その問題についてどうすべきかを言う
・相手の心配事を矮小化する
・無理やりポジティブな視点や陳腐な言葉を使って違う見方をさせようとする
・相手の強さを賞賛する

 

うなずきも、オウム返しも、アドバイスもしない。

沈黙を恐れるな、ってことだと思う。

 

若いころは、沈黙が怖かったけど、いつからか、沈黙が怖くなくなったなぁ、と思う。

本書の中で、「ほとんどの宗教は沈黙を大切にする」という一文があって、なんとなく、しっくり、腑に落ちた。うまく説明できないけど、取り立てて宗教心のない私にとって、様々な人の宗教を理解したいと思うようになったのと、沈黙が怖くなったのと、同じくらいな年ごろのような気がする。。。。

上手く言えないけれど、沈黙って、べつに怖いものではない。それは確かだ。

 

沈黙が怖いと、ついつい、沈黙ができた時に何かを言おうとしがち。

くわえて、人の話を聞きながら、自分の思考のスピードの方が速いと、処理能力があまり、ついつい、あれを質問してみようとか、考えてしまいがち。

でも、優れた聞き手は、余っている処理能力を頭の中で寄り道に使わず、相手の話を理解的に理論的に直感的に理解するために全力をあげているという。


相手の言っていることを、理論的に組み立てることに時間を使う。
そうすると、あれを聞いてみようとか、こう意見してみようとか、思考の寄り道を避けられるのかもしれない。

 

”短い講演を聞いた直後、ほとんどの人は内容の半分以上聞き逃している。”という。
読書も、結構同じことが起きている気がする。


フォトリーディングとか、アクティブリーディングとか、速読法と言われるものの多くは、「自分が何を知りたいのか的を絞って読め」ということを言う。つまり、自分の興味の対象を文字の中から拾って読むようなものだ。
たまには、ゆっくり音読するくらいの速さで本を読むことも必要かもな、、、と、ふと思った。

 

”人として成長する唯一の方法は反対意見に耳を傾けること”
なかなか、耳の痛い話かもしれない。でも、反対意見を聞くという事と、それに同意するという事は全く異なる。自分と異なる意見にも、ちゃんと耳を傾ける。そうでなければ建設的対話は生まれない。


Humankindの中に出てきた、マンデラとコンスタンドの対話が、まさにそうだったのだろう。話を聞くことでしか生まれなかった、信頼。この二人の場合は、コンスタンドがアパルトヘイトは間違っているということに、反対意見だったものに、同意するようになったわけだけど。

megureca.hatenablog.com

聴くには、環境を整える大切さも言われている。
騒音がないこと。余計な音はないほうがいい。
余計な音があって、相手の言葉が聞こえない時に、脳が勝手に補うから聞き間違いが起こる。
聞き間違いから、誤解が生じる。
そういうことがないように、環境も整えよう、という話。


聞く力を伸ばすために、誰かと話した時に、
「この人はなぜこの話を私にするのだろう?」と考える。
「この人について、私は今何を学んだろう?」とあとから振り返る。
そういう事も、大事だという。

 

今日は、ちょっと、そんなことを気にしてみようかな、と思う。

 


目にはまぶたがあって、閉じることが出来るけれど、耳にはみみぶたはない。 

聴く、大切にしよう。

 

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LISTEN 定価2420円(税込)