「Humankind 希望の歴史 下」  by ルトガー・ブレグマン

「Humankind 希望の歴史 下」  A Hopeful History
人類が善き未来をつくるための18章
ルトガー・ブレグマン 著
野中香方子 訳

2021年7月30日 第一刷発行  (原書 2020)
文藝春秋

 

上巻の続き。

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上巻では、これまで報告されてきた様々な「性悪説」を支持するようなレポートに、まったをかける彼自身の調査結果が紹介された。「人間の本質は善である」という、強いメッセージ。

 

下巻は、ではなぜ、戦争、殺人、いじめ、などが起こるのか?に焦点を当てている。
Part3 善人が悪人になる理由、という話から始まる。

本書の中で彼が言っているのは、戦争や殺人といった最悪な事件も、それを善と思っている人が起こすという事。
仲間意識と、マキャベリ君主論に取りつかれた冷血なリーダーの存在が、戦争を引き起こす。


実際、ドイツ兵は、イデオロギーのためにあつまったかもしれないけれど、イデオロギーのために戦ったのではなく、友情のために戦った。
1914年のクリスマスイブ。聖歌を贈り合ったイギリス兵とドイツ兵。これは、夢物語のようだけれど、事実だ。

 

第二次世界大戦で亡くなったイギリス兵の死因の75%は、迫撃砲、手榴弾空爆、砲弾といった遠隔操作による兵器によるもの。
より遠くから攻撃できるようになったことで、戦争による死者は増えた。
相手の顔が見えていると、人は簡単には引き金を引けない。心理的距離が広がれば広がるほど、攻撃しやすくなる。

 

仲間意識、身近な人への共感が、そうでない人への排除へつながる。でも、直接手を下すのではなく、遠隔操作で。それは、現代のネットでの誹謗中傷と同じ心理かもしれない。

 

下巻では続けて、人や組織がどういう時に、善に基づいた行動をとり、よりよい社会へつながっていったかという事例が紹介されている。

 

ローゼンタールの「ピグマリオン効果」。「君は成績が伸びる可能性があるよ」と励まされた子供の成績が実際に上がる。

 

子供に自由を与える、アゴラの学校。伸び伸びと成長する子供たち。


受刑者と刑務官の心理的距離を縮める試みを取った、ノルウェーでの再犯率の低さ。


NYの地下鉄の落書きを消すことで減った、軽犯罪と、殺人事件。


ベネズエラのトレス自治体で、住民主体の民主主義を実行したフリオ・チャベス

 

南アフリカ、初代黒人大統領のネルソン・マンデラ氏。

彼の当選を実現したのは、一時、心が離れていた二人の双子兄弟の活躍があった。双子の兄弟は、家庭の金銭的理由で、二人そろって大学に行くことはできず、後に南アフリカ国防軍の最高司令官となったコンスタンドは、アブラハムに大学進学をゆずる。アブラハムは、オランダとアメリカに留学し、アパルトヘイトは絶対に間違っていると確信する。一方のコンスタンドは、軍の最高司令官からアパルトヘイト推進の代表者へ。帰国したアブラハムと、アパルトヘイト推進の代表者コンスタンドは、思想の違いから対立し、次第に疎遠になっていく。
でも、アブラハムは、自分が動くべきだと確信した。
そして、動いた。
兄弟は、ふたたび、近づいた。アブラハムは、コンスタンドのオフィスを訪ねる。
そして、「マンデラと直接話をしてみたらどうだ」と、コンスタンドへ提案する。
コンスタンドはこれまでにも何度も言われたことがあったセリフで、これまでは聞き入れなかった。9回も断っていた。でも、この時は違った。やはり、他ならない兄弟の言葉だったからだ。
そして、秘密裏にマンデラとコンスタンドの会談が計画され、1993年8月12日、歴史的瞬間が訪れた。
それは、平和主義者マンデラと、戦争に向かおうとする男コンスタンドとの初めての対峙だった。そして、二人が握手を交わした瞬間から、国の未来へつながった。
当時の大統領ですら蚊帳の外で秘密裏に重ねられた会談だった。そして、コンスタンドは、マンデラと会って握手をするたびに、かつて自分がテロリストとみなしていた男への敬意を深めていった。マンデラも、コンスタンドへの敬意を深め、元将軍を信頼するようになった。
そして、マンデラ大統領は実現したのだ。
交流することで、信頼がそだち、信頼が社会を新しくした。

 

知る、という事の大切さ。
障害者、同性愛者、外国人、身近にいないと、しらないから偏見が生まれるだけ。
知れば、理解できるのが人間なのではないだろうか。

 

以前、多様性をテーマに研究していた時に、とある東京都内の小学校の知り合いに協力いただいて、子供たちにアンケートを取ったことがある。様々な国の子供たちが通う、都立の小学校。子供たちは、外国人についてどうおもっているのか?というアンケートだったのだが、私たちが認識したのは、子供たちにとっては、クラスメートしかいなくて、そこに外国人はいない、、、ということだった。
大人が勝手に、外国人の小学生、と思っているだけで、子供たちにはただのクラスメートだったのだ。たとえ、日本語がうまく話せなくても。
数字でそれが示された時は、自分たちがどれだけ偏ったものの見方をしているのか、気づかされた。
遠くの息子より、近所に住む留学生、という高齢者の言葉も耳にした。

 

身近な人であれば、人種、宗教、性別、年齢に関係なく、理解しやすくなるのだが、ただ、知らないというだけで、自分の共感の外に置いてしまう。それは残念なことだ。

 

下巻は、最後に彼自身の人生の10か条で締めくくられる。

彼自身、自己啓発本は好きではない、と言っている。でも、自分がここ数年間で学んだことを基盤とする自分の人生指針10か条を紹介することが、読者が「自分の内面だけでなく外にも目を向ける」ことのきっかけになれば、ということで、以下のように紹介している。

 

1 疑いを抱いた時は最善を想定しよう
2  win-win のシナリオで考える
3 もっとたくさん質問しよう
4 共感を抑え、思いやりの心を育てよう
5 他人を理解するように努めよう。例えその人に同意できなくても。
6 他の人々が自らを愛するようにあなたも自らを愛そう
7 ニュースを避けよう
8 ナチスを叩かない
9 クローゼットから出よう。善行を恥じてはならない
10 現実主義になろう

 

そのこころは?という指針もあると思うが、それは本を読んでいただければと思う。


本書の中では、新約聖書福音書が引用されていて、全般にわたってキリスト教的な考えがあるのだと思う。この10か条の中にも、それに基づくものがある。
読みながら、トマス・アクィナスが思い起こされる。

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共感についての見解は、ジャミール・ザキとは少し違うかもしれない。

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でも、全般に、人は善き人になれる。

ただ、冷血なリーダーの存在や、知らないというだけで共感を生めないということが、カタストロフィックな歴史を作ってしまう事がある。


でも、やっぱり、私たちは、善き人になれるのだ。
そう主張し、そう思わせてくれる本があるというのは、希望の本だ。

 

訳の良さもあるだろう。

比較的読みやすい翻訳本だと思う。

身の回りの困った人に悩まされていたら、希望の本になるかもしれない。

 

人間の本質は善である。

その意見に、賛同し、人の可能性を信じて生きていこうと思う。

 

読書は楽しい。

 

 

 

 

 

 

英日通訳 わからない「音」に、フリーズする。

英語で通訳中に、わからない単語に出くわすと、そこで思考が停止するのは、どういう仕組みなのだろうか??

 

日本語で、新聞や本を読んでいても、わからない言葉が出てくることはある。

でも、いちいち辞書を引くことはあまりしない。

文脈から、なんとなく意味をとって読み進めば、読んでいくうちに、あ、さっきの言葉はやっぱり、○○って意味なんだ、と分かってくるから。

それでも、気になれば、あとから調べてみればいい。

 

歴史上の人名がでてきたときに、あまりにも何をした人だかわからないと辛いかもしれないけど、それでも話の流れから、哲学者かな、科学者かな、芸術家かな、、、と、なんとなくはわかるし、読み進めると概要はつかめてくる。

で、あとから調べれば、あぁなるほど、この人のこういう業績をもって、こういう解釈をつけていたんだ、ってわかる。

 

日本語であれば、読んでいても、聞いていても、それなりになんとか後から追いつける。

 

でも、英語のリスニングの途中で、知らない単語が出てくると、そこで一瞬脳が停止してしまう。リーディングだと、その先の単語も目に入ってくるからわからない単語があっても、そんなに停止することなく読み進めるのだが、リスニングで一生懸命聴き取ろうとすればするほど、一瞬停止がおこる。

 

これは、何なんだろう?

??があったとき、リーディングではスキップできても、リスニングではスキップできない。

 

聴覚の不思議。

 

視覚は前後、全体がぼんやりと目に入っている中である文字に焦点を当てているわけだけど、聴覚というのは、受信したそのものだけがそのときに存在する。

残音、というものはあるけれど、これから先に何が来るかは、推定はできるけれど、先に聞くことは絶対にできない。

 

そして、知らない音が出てきたときに、脳の中????が出ると、そこで一瞬、聴覚が遮断されて、続きを聞くことを忘れてしまう。

いわゆる、新幹線現象、、、、。

景色が流れているのがわかっても、その景色が何かが見えない。

音が流れているのはわかっているのに、耳に残らない。

 

日本語の講演でもあるかもしれない。

わからない言葉が出てきたときに、一瞬、そのあと数秒間に話された言葉をつかみ損ねる。それでも、日本語ならば残音が頭にあって、後から追いつくことが出来る。

 

でも、第二言語の英語、わたしにとってはそれができないのである。

わからない「音」に出くわすと、一瞬フリーズして、そのすぐ後の音を聞き逃す。

プロの通訳には許されない。

だから、通訳勉強中の身としては、何とか解消したいのだが、、、、。

 

聴覚って不思議だな、とつくづく思うのである。

 

日常生活の中でも、聞きなれない音は、ふとそっちに興味が持っていかれる。

あるいは、聞いたことがある音でも、場違いだったり、違和感を感じると、集中力がふと途切れて、意識が持っていかれる。

 

電車の中での赤ちゃんの泣き声。

静かなはずの公園のなかで、大きな物音。

静かなレストランの中で、子供のはしゃぎ声。

新幹線のグリーン車の中で、携帯電話のプッシュボタン音。

 

その場にそぐわない、と自分が思っている音がすると、ふと、注意がそがれる。

本能的な、危険察知なのだろうか?

 

狩猟生活時代、獣が襲ってくる音に気が付かなかったら、パクリとやられてしまう。

耳を一生懸命そばだてているわけではないけれど、脳の中では安全な音と、危険な音を聞き分けているのか?

 

人の発する言葉だって、同じ

「ありがとう」といわれたときに、そのトーン、大きさ、スピードで、

本当に心からの言葉なのか、形式上の言葉なのか、なんとなく察知する聴力。

安心していい言葉か、安心してはいけない言葉か、、、。

 

人間の聴力ってすごい。

 

そして、わからない音に反応してしまうのだ。

逆に、まったくわからない言語であれば、フリーズするのもなにも、音そのものがただの音だから、聞き流すことができてしまう。

アフガニスタンのニュースで、現地の人のインタビューは、ただの音でしかない・・・。

 

英語の知らない音にフリーズしないコツ。

あったら、教えてほしい。

先生は、音として、カタカナでとらえればいい、とよくおっしゃるのだが、

私には、まだそれができない。

英語を聞きながら、どんどん概念化させてしまうから、概念化できないものが来たときに、フリーズしてしまう。

 

英日通訳って、かたっぱしから日本語にしていくものとおもっていたら、そうではない。

先生曰く、英語の音で脳に貼り付ける。

貼り付けてから、日本語に変換する。

英語の音の貼り付けであれば、知っている、しらない、は関係ない。

貼り付けた後で、日本語に変換できないものは音のまま出す。

 

もちろん、ある程度英語のできる人のテクニックなのだが、なかなかその道は遠そうだ。。。

 

聞きなれない音を減らすのが、一つの対処法なのだろう。

だから、勉強法としては、シャドーイングが効果的。

ヴォーカライゼーションだと、自分のスピードでしか発話しないから、スピードに乗った音になれるには、やはり、シャドーイングが効果的だという。

 

とりあえず、TOEICのリスニング満点がとれるようになるまでは、シャドーイングを続けてみようと思う。

 

先は遠い。

でも、目指したい先があるから頑張れる。

継続は力なり、を信じて。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本人は思想したか」 by 吉本隆明・ 梅原猛・ 中沢新一

「日本人は思想したか」

吉本隆明
梅原猛
中沢新一

平成11年1月1日発行

新潮文庫

 

日本を代表する思想家たち3人の鼎談。一番若い中沢さんが全体の進行役を務めるような形で鼎談が続いていく。
あとがき含めて343ページの文庫本。なかなか、充実。

 

吉本隆明さん、1924年大正13年)東京生まれ。詩人。思想家。
梅原猛さん、1925年(大正14年)仙台生まれ。哲学者。
中沢新一さん、1950年(昭和25年)山梨生まれ。宗教学者チベット密教に詳しい。

 

大体、なぜこの本を読もうと思ったかと言うと、聖徳太子のことを書かれた何かを読みたいなと思って検索していたらこの本が引っかかった。
聖徳太子」「お薦め本」かなにかで検索したと思う。ただの歴史の教科書ではないものがいいな、とおもって選んだのがこの本だった。


確かに聖徳太子のことも少しは出てくるのだが、まぁ全体には昔の日本人の宗教観とか政治、文学、、あるいは和歌を作った時代の人の話。聖徳太子とは別に、なかなか興味深かった。


鼎談で、わかりやすい話ことばだし、三人の軽快なやり取りが小気味よい。だが、難しいと言えば難しい。何が難しいかというと、出てくる固有名詞、単語が、聞きなれていないというか、すぐにその言葉の背景やら概要が把握できないと、読んでいても思考がハタと止まる。


で、よく、工夫されているなぁ、と思うのが、単語の説明が各ページの下に記載されているのである。つまり、文庫本であるが、本文はページの下2割程度を使わずに記載されていて、*のついた言葉が、同じページの下に説明されている。
これは、なかなか、読みやすい。きっと、毎度毎度ページをめくって*の説明を見にいかなくていいような工夫なのだろう。
おかげで、知らない人の名前を、それなりに理解して読み進めることが出来る。
そうしないと読み進めないくらい、たくさんの固有名詞がでてくるということだ。

 

本の後ろ表紙に書かれた説明。
縄文人弥生人、半目から共存への図式。「あいだ」の表現としての歌。城壁なき律令国家の誕生。仏教変容の宇宙的規模。「近代の超克」はさらなる超克へ。極東のこの島国で連綿と演じられてきた精神のドラマ。その独自性と真価を、広く世界をも見据えつつ徹底検証する。常に時代と切りむすんできた三知性が集い、火花を散らした全記録。5つの鼎談が今、価値大転換期の混迷を照らす。”

なんて、分かりにくい説明、、、、、。と思うけど、、、、。

 

最後の一文にあるように、5つのテーマで鼎談が進む。

 

1 日本人の「思想」の土台
「日本思想」と言う言葉の意味について語り合いながら、国家というものへの日本人の、ものの見方、アイヌ・沖縄・本土との関係性、などなどが語られる。
壬申の乱(672年:皇位継承内乱)やら、神仏習合の話がでてきて、天皇と神、国家神道などについて語り合う。
日本の思想の土台というと、やはり、神話が切り離せないようだ。

 

2 日本人の「思想」の形成
ここで17条の憲法の背景が出てくる。聖徳太子、といえばやはり仏教。日本の仏教に一番大きな影響をあたえたのが天台本覚論で、仏性はすべてものに存在するという「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」の考え方。これは、神道にも近づく。
それが、人間中心から自然中心へと大きな思想の流れになったのではないか、というのが梅原さんの説。
そして、梅原さんが重要な思想家として「行基」(668~749)をあげる。私にはあまりなじみのない人の名前だったけれど、本書の引用文によると、


行基薬師寺で修行した後、弟子たちと諸国を巡業し、弾圧を受けながらも民衆教化や社会奉仕に尽力した。後に聖武天皇より専任され大僧正になり、奈良の大仏の建立などに当たった。 


と、奈良の大仏を作った人。


本書のなかでは、他にも行基の話がたくさんでてくる。
行基は、思想家だけども本を一つも書いていない。
梅原さんは、
「私はどうも本をかかない人の方が書く人より偉いという考え方をこの頃持っているんですけどね(笑)」といい、
それに吉本さんが、
「ああ、そうですか。僕は恥ずかしいですね。百以上あるそうです(笑)」
と返す。
難しい議論の合間に、なかなか、楽しい会話が合間に挟まる。

 

3 歌と物語による「思想」
和歌の発生について、語り合う。『古事記』は歌物語ではないのか、という話。ほか、竹取物語源氏物語、今昔物語等、懐かしいタイトルが並ぶ。


「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かも寝む」
久しぶりに目にした。柿本人麿。
百人一首にもなっているから、懐かしい人は多いのでは?


西暦600年代の人の言葉の巧みさ、現代人よりよほど旨いのでは?

頭の使い方、使いどころが違ったのだろうなぁ、という気がする。


また、中沢さんが、レヴィ=ストロースもフランス語で「古事記」を読んでいたという話をする。そして、レヴィ=ストロースは「日本神話は素晴らしい」、と。
へぇぇ!という、感動。レヴィ=ストロースなりに、南米神話と日本神話を比較していたらしい。面白い。古事記、やるなぁ、って感じ。

 

レヴィ=ストロース

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4 地下水脈からの日本宗教
ここでは結構詳しく宗教のことが話される。
面白かったのが「毛坊主」の話。坊主ではなくて毛が生えてるから毛坊主。普段は他の人と変わらない生活をしているのだけれども、お葬式があったりするとお葬式を取り仕切ったりちょっと僧の役割をしていた人たちのことらしい。そういう毛坊主が普通の仏教を伝えていたのではないかと言う話。
そこから話は、親鸞から聖徳太子親鸞聖徳太子の生まれ変わりではないかという話。法然デカルト的な思考であったと言う話。
多神教一神教の起源に関すること。やっぱり怨霊鎮魂というのが日本人の宗教の基本だったのではないかと言う、梅原さんの得意な学説。

 

5 近代の超克から現代の超克へ
空海最澄新興宗教だ、といった人の話。結局、分裂性パラノイア的でなければ新しいものを生み出せないのではないか?という話に飛ぶ。

 

最後に吉本さんが「終わりに一言」、梅原さんが「鼎談の楽しさ」、中沢さんが「とりあえずここまで」と言うあとがきを書いている。

 

日本人は、思想したんだね。

それが詩になり、文学になり、政治になる。


とにかく、たくさんの人の名前がでてきた。
平安~室町の人々、最近でいえば、
折口信夫和辻哲郎鈴木大拙丸山真男西田幾多郎、などなど。。。
海外の思想家で言えば、デカルトニーチェハイデガー、などなど。。。。

とにかくたくさんのバックグラウンドとしての知識がないと読み進むのは大変だろうなと思う本だった。ページごとの引用に感謝。

 

でもなんとなく全体的に言いたい事は、昔から日本人はやっぱり何かを考えてきた。
そしてその根底にあるのは、確かに仏教だったかもしれないけれども、その昔はやはり八百万の神、自然の中の神様、あるいは怨霊となってしまった霊魂。
怨霊を神様とは言わないかもしれないけれども、怨霊となってしまった故人を鎮魂するために作ったお寺、神社。そう梅原さんはそういう意味で法隆寺を見つめた人。

 

日本人の思想と言う話をしたときに、アイヌや縄文、沖縄の話が必須というのも、こうして順序立ててくるとよくわかる。
ちょっとした、日本史の教科書のような本だった。 

 

聖徳太子についての情報を求めてよんだけれど、そういう意味ではちょっと違ったけど、「日本のこころ」を考えるという意味では面白い。

 

日本人って、いつの時代から日本人なんだろうか?

縄文人もやはり、日本人なのか?

言葉を持ってからなのか?

どうでもいいけど、そんなことも考えてしまった。

 

なかなか、日本の成り立ちを勉強するのにも面白い本。

やっぱり、歴史を理解するのって大切かもなぁ、と思わされる。

また、もう少し日本の中世の歴史を勉強してから読み直してみよう。

 

読書は、楽しい。

 

 

 

お願い事 どうする?

何か一つお願い事を、と言われたら、何にするか?

初詣だと、あれこれたくさんお願いしちゃうかもしれないけど、

今、この時期、何か一つ言われたら?

 

疫病退散?!

いや、何か違う、、、

もっと、個人的事でいいとして。

 

 

坐禅会でお世話になっているところの住職から、「瓦志納のお願い」、があった。

昭和53年落慶依頼、四十数年の歳月が経過し、屋根瓦の痛みが激しく、雨漏りが生じ始めたという。

私たちが坐禅をしている本堂の真上が、じつは雨漏りしていてブルーシートを屋根裏に敷いているとのこと。

 

歴代の総理大臣も坐禅に通うという、由緒ある庵。

岸田内閣も、入閣大臣の4人は、ここに坐禅を組みにきているという。

山岡鉄舟ゆかりの庵。

大切にしたい。

力になりたい。

で??いくら??

瓦一枚、1万円とのこと。

それなら、一枚、、、志納しようかな。

 

「こういうことに、遠慮はいりませんよ」という住職の力強いお言葉で、志納しようと決意は固まった。

で、瓦一枚につき、一つのお願い事ができるという。

はて?

何をお願いしよう・・・。

 

申込書には、

① 心願成就

② 身体健全

③ 家内安全

④ 学業成就

⑤ 商売繁盛

⑥ その他 (     )

とある。

 

はて、、、どうしたものか?

一枚の瓦、何をお願いしよう・・・。

 

先日いただいた案内だけれど、まだ、決められずにいる。。。

① 心願成就 だと、心に思っていることが何でも叶いそうだから、これでいいじゃないか、という気もするのだが、なんとなく熟考が足りていない気がする。

 

やっぱり、

② 身体健全

か。

健康第一だ。事業も学業も、健康でなければ難しい。やっぱり、健康か?

いやまてよ、健康は他力ではいけない。自分しか自分の健康はつくれないのではなかったか?

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健康は、お願いしている場合ではないのではないか?

 

 

家内安全?いやいや、べつに、いまも家内安全だ。

学業成就?いやいや、とりあえず53歳のお願い事で学業成就もないだろう。

商売繁盛?いやいや、まだ商売始めてないし・・・。

その他?いやいや、その他って、その他ってことないだろう・・・。

 

ってことで、迷っている。

どういでもいいかもしれないけど、迷っている。

だって、

「瓦に、お名前、お願い事をお書きします」って案内にあるんだもの。

瓦に書かれるお願い事よ。

そりゃ、真剣に考えるわ!

ちゃり~~ん、二礼二拍でするお願い事とは、ちょっと重さが違うだろう!

散歩の途中の稲毛神社では、ちゃり~~ん、もせずに二礼二拍でお願いしている。

だって、だれかが、「お賽銭なんて神様への賄賂だ」とかいっていたから、、、。

それはそうかも、、って思って、賄賂なしにお願いだけしている。

 

その私が、1万円をかけた志納にお願いを付けようっていうのだから、真剣に考えるわ。

 

前に、コーチングの無料講義を聞いたときに、興味深い事例があった。

コーチングを受けているのは、20代のサラリーマン。

会社の中がぎくしゃくしていて、この会社の雰囲気を何とかしたいので人事部に掛け合いたい、というのが彼の願い。

でも、コーチは、「それは本当に、あなたのやりたいことですか?」と何度も何度も聞く。

彼は、「どうにかしたいんです」と、答える。

コーチは、「雰囲気をよくすると、何がいいことがあるのですか?」と聞く。

 

結局、コーチが言いたかったのは、「会社の雰囲気をよくする」というのは、やりたいことを達成するための手段でしかない。会社の社長ならともかく、一従業員がそこに自分の資本、つまり自分の時間を費やすことが、本当に自分のやりたいことなのか?と、繰り返し、問いかけていたわけだ。

 

最後に、20代の彼は、「たしかに、僕はやりたいことがあってこの会社に入ったのであって、会社の雰囲気をよくするために入ったのではない」と気が付く。

 

目的と手段

ends and means

 

瓦の修理は、住職にとっての目的で、志納を募るのはそのための手段。

そう、それは、住職にとって。

 

私が志納するのは???

庵を守りたいからだ。

坐禅する場所を守りたいからだ。

なぜ?

心地よい空間を守りたいからだ。

なぜ?

たちどまる時間が欲しいからだ。

なぜ?

迷っているからだ。

 

そうだ、迷っているんだ。

人生に迷いません様に、っていうお願いはどうだどう。

 

どうしたら、迷わないのかは、いまだにわからない。

迷っていないのかもしれないし、迷っているかもしれないし、

それも、わからない。

 

でも、今は、なにか一つの目標に向かって突き進んでいる、という気はしていない。

だから、迷っているんだと思う。

 

次の道が見つかりますように、っていうお願いはどうだろう。

見つけるのは自分だけど。

 

お願いごとは、人に言うとかなわない、っていうから、

ここから先は、心の中で考えよう。

 

申込書には、

① 心願成就

って、しておこうかな。

 

そうだ、そうしよう。

迷わず、そうしよう。

 

お願い事を真剣に考えるって、結構大切かもしれない。

住職は、こんなふうにも、ヒントをくれる。

ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

「Humankind 希望の歴史 上」 by ルトガー・ブレグマン 

「Humankind 希望の歴史 上」  A Hopeful History
人類が善き未来をつくるための18章
ルトガー・ブレグマン 著
野中香方子 訳

2021年7月30日 第一刷発行  (原書 2020)
文藝春秋

 

上下巻のうちの上を読み終わった。
いい!
いいよ!
好きだ!


すぐに、下巻が読みたい。

でも、図書館で予約して借りた本。まだ、下巻の順番はまわってこない。
買ってもいいかな、、と思っている。
上下を読んだところで、Megurecaに書こうかと思ったけれど、興奮するほど良かったので、取り合えず、上巻しか読んでいないけど、書いておく。

 

2020年、本国オランダでは発売してすぐに25万部突破、世界46カ国ベストセラーとなったという本。上巻は、ユヴァル・ノア・ハラリの推薦の言葉。下巻は、斎藤幸平さんの推薦の言葉。
先週末、人生の大先輩、尊敬する知り合いの本のプロが、これはいい、と言っていた。
やっぱり、買おうかなとおもっていたところに、上巻の予約の順番がまわってきたので、とりあえず、図書館の本で読んだ。


著者のルトガー・ブレグマンは1988年生まれ。33歳か、若い!
オランダ出身の歴史家、ジャーナリスト。ユトレヒト大学(オランダの公立大学)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) で歴史学を専攻。広告収入に一切頼らない先駆的なジャーナリズムプラットフォーム(デ・コレスポンデント)の創設メンバー。文藝春秋からの図書には「奴隷なき道  AI との競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働」というものもある。

翻訳をされたのは、野中香方子さん。ルトガー・ブレグマンの「奴隷なき道」も翻訳しているらしい。 


本のメッセージは、「人間の本質は善である」ということ。


ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」はどちらかと言うと人間が善であるということに対しては否定的だ。そのハラリが「私の人間観を一新してくれた本」として本書を推薦している。

 

ルトガー・ブレグマンは、広告収入に頼らないジャーナリストプラットフォームを作った、ということからもわかるように、自分自身で見て聞いて納得したことを書いている人なのだと思う。


これまでに報告されてきた、人間の基本は悪であるといったような主張に対し、果たしてそうなのだろうかと思った疑問を、自分で徹底的に調べて解明していく。
数々の心理学の本、教科書に書かれているようなことを、事実をもう1度調べなおし、彼が導いた結論は「 人間の本質は善である」ということ。


本のタイトルにあるように、 希望の本だ。


歴史上の出来事の調べなおし、まだ証言者が生きているならば会いに行って直接調べる、そうしていくうちにあきらかになってくる、これまでの報告の恣意的な偏り。


一般的にも言われることだがメディアの報道というのは基本的には悪いこと、トラブルの報道、人が嫌悪するような内容ががほとんど。人間の良い行いはわざわざ報道されることは少ない。大抵は、殺人事件であったり、詐欺事件であったり、戦争であったり、、、、。
でも、そこには、「人間はこんなに卑劣なんだ」と主張したい思惑に都合のいい証拠だけをならべていないだろうか?と、そこに疑問をもって、再調査をしているところがすごい。


彼が、本のなかで次々に明かしていく、これまでの報道や研究報告の恣意的な偏り。


ギュスター・ルボンの「群集心理」は、群集は危機に対して本性を表し、パニックと暴動になる。その主張を熟読し、利用しようとした、ヒトラームッソリーニスターリンチャーチルルーズベルト、、、、。でも、実際のロンドン大空襲の時に起きたのは、空襲があろうと、人は自分の生活を粛々とつづけていて、暴動なんて起きていなかったという事実。

 

2005年、ハリケーンカトリーナに襲われたニューオリンズ。避難所付近は略奪・強姦・殺人が横行したと報道されたが、実際にはそんなことは起きていなかった。

 

第二次世界大戦の戦場で、多くの戦士は、手に持った銃の引き金を引かなかった。打ったとしても人に向けてではなく、空に向けてだった。


フィリップ・ジンバルドの「スタンフォードの監獄実験」。ミルグラムの「電気ショック実験」。心理学関係の本には、必ずと言っていいほどでてくる実験だが、どちらも、実験主催者の主張とことなる証言が、実験された人たちからでてきた。

 

ほかに、たくさん、これまでに言われていたことの言質をとると、主張したい人に都合よく解釈されたことが報告されていただけ。

 

トマス・ホッブス(英国 1588-1679)の性悪説。「万人の万人に対する闘争」
ジャン・ジャック・ルソー(フランス 1712-1778)の「文明は人を破壊する」という説。
どちらにも、疑問を投げかける。


私たちは、本質的に善人である。
そこから始まる、物事のみたて、認識、のほうが希望の未来が見えてくる。

実際には、いじめがあったり、戦争があったりするのだけれど、
トマス・アクィナスの言葉をかりれば、すべては、その人の「善」から起こるのだ。

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私たちは、本質的に善人である。
胸をはって、そう言える説があるというのは、なんて、希望の未来なんだ、と思う。


自分自身にも、「善」があるのだと信じられるって、なんて気持ちが明るくなれるんだ。

読んだだけで、ちょっと元気なれる。

やっぱり、明るい本はいい。

 

はやく、下巻が読みたい。 

禅の言葉  掬水月在手 水を掬すれば月手に在り

水を掬すれば月手に在り

(みずをきくすればつきはてにあり)

 

意味:

両手で水を掬いあげると、月が掌の中にくっきりと宿る。
自と他、主観と客観、物と心、が一体となる境地。

禅において、月は悟り、仏心のたとえであるから、自己と仏心が一枚となった三昧の境地。

実生活において例えるならば、仕事の時は仕事、遊びの時なら遊び、その時、そのものに徹するということ。
また、水を掬えばそこに月が現れるというのは、そこに仏心が現れるという事。
悟りの月は、どこにでも輝く。

 

 

10月になって、久しぶりに、リアルな坐禅会に参加した。
コロナによる緊急事態宣言で、しばらく、お預けとなっていた坐禅会。
住職のお話も、久しぶりに聞くことが出来た。

 

10月の夕刻だというのに、ちょっと蒸し暑いような感じ。

通常の半分の人数に減らしての開催。

隣の人との距離が、遠い。

でもいつも通り、20分の坐禅を2回。

 

久しぶりに、お堂の中の音、外の音、一緒に坐禅を組んでいる仲間の気配、住職の気配、、、感じながらの坐禅だった。

気配を感じているというのは、、雑念ではあるのだけど。。。

 

外は、虫の声。

車の音。

時にはサイレンの音。

風の気配。

中は、お堂の中の空気の気配。

住職が踏みしめる畳の音。

自分自身の呼吸の音。

 

都会の中なので、色々な音がまじりあう。

でも、久しぶりに心地よい空間での坐禅だった。

 

坐禅が始まる前、久しぶりにお会いした住職に、

「今はどうしているの?」と聞かれ、

「まだ、ぷー太郎です。」と答えるわたし。

「それもいいね。」と言ってくださる住職。

 

実際には、ちょこちょこ仕事らしきものはしているのだけれど、どこに所属しているわけでもない。

何をしているかと聞かれると、

「○○をしています。」と、答えることができないというのは、なんて不安定なんだ、と思う今日この頃。

 

やりたいことはたくさんあるけれど、仕事としてやりたいのかと問われると、何か違う気がする。改めて、自分はなにがしたかったんだっけ?と思う。

 

そして、今回の禅の言葉。

 

水を掬すれば月手に在り

 

これは、秋の句で、春の句もあるという。

 

花を弄すれば香衣に満つ  
(はなをろうすればかおりえにみつ)

 

これも、同じように、どこにでも輝くものはあるということ。道端にあるようなお花でも、美しさに見とれて戯れれば、その香りは衣服に移り、いつまでも香る。 

 

いま、そこにあるものに、没頭する。

それが大切。

ということ。


実生活において例えるならば、仕事の時は仕事、遊びの時なら遊び、その時、そのものに徹するということ。
でも、実際には、仕事をしていても遊びのことを考えたり、遊んでいても仕事をかんがえてしまうのが人。
であれば、坐禅の時間が、没頭するための修行なのかもしれない。

 

没頭できる、夢中になれる、というのは、なんて贅沢なことなのだ、と思う。

フロー状態、という言葉がある。

スポーツ選手が、素晴らしい成績をおさめたときなど、「フロー状態だった」といういう言い方をする。

考えていない、感じている。没頭している。ただ、そこに集中している。

没頭できる時間があるというのは、実は、ストレスフリーの時間があるという事。

 

最近、そこまで、没頭したことがあっただろうか?

 

と、そんなことを坐禅を組みながら雑念として考えてしまった。

 

本当に没頭できること。

とりあえず、仕事とか、趣味とか考えず、好きなことに徹してみよう。

 

コロナとか、アフガニスタンとか、経済の不安定さとか、、、、

世の中は、不安材料にあふれていいて、良いニュースがないなぁ、と思うけど、

そもそも、報道されることというのは事件、、、。

 

楽しいニュースは、自分で作ろう。

うれしいニュースは、自分で作ろう。

 

リアル坐禅会に、半年ぶりに参加できた、という良いニュースを覚書き。

 

そして、2021年、あと3か月。

まだ、3か月もある。

目標未達がたくさん。

もう一度、計画を練り直そうと思う。

 

住職には、何を言われても励まされる。

不思議な方だ。

 

こうして、いただいた言葉をきっかけに、また今日も一歩、動きだせる。

ありがたいことだ。

ありがとうございます。

感謝できることに、感謝。

 

さて、晴天。

今日も頑張ろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「近代神学の誕生」 シュライアマハー『宗教について』を読む   by 深井智朗 佐藤優

「近代神学の誕生」シュライアマハー『宗教について』を読む
深井智朗 佐藤優
2019年1月25日
春秋社

 

佐藤さんの神学関係の本、読んでみた。
シュライアマハーは、神学者であるということ、『宗教について』を書いた人、という事以外はほとんど知らない。
なので、読んでみたものの、理解できたのは、1割?
読んだと言えないかもしれない。
でも、目は通してみた。

覚書として残しておこうと思う。

 

著者の一人、深井智朗さんは、東洋英和女学院院長。1964年生まれ。佐藤さんより4歳若い。佐藤さんがもっとも尊敬するプロテスタント神学者の一人だという。 最近、『宗教について』の新訳を出された。

プロテスタント二人の対話。 

 

深井さんは東京神学大学を卒業されていて、牧師の資格もお持ち。
一方の佐藤さんは、同志社大学神学部の卒業で、牧師の資格を持っているわけではない、普通の信徒。
教会の実情について詳しい深井先生と、外交や国内政治についての内在的論理がわかる佐藤さんと二人の対話。 それぞれの得意な分野を持ち寄っての対話、という事。

 

しかし、その深みまでは、私には理解できなかった。

頭の整理に、少しだけ、覚書。

 

シュライアマハーは、1768-1834年、ドイツのシュレジェン地方の都市ブレスラウで生まれる。父は改革派の牧師で熱心な敬虔主義者。マクデブルク近くのバルビーの敬虔主義の神学校で学んだ後、ヴュルツブルク大学の神学教授などを経て、1811年、ベルリン大学教授、初代の神学部長を務めた人。『宗教について』という本を書いた。

 

日本では、西田幾多郎がシュライアマハーに影響を受けているという。でも、実は西田幾多郎は外国語があまり得意でなかったので、最初の数十ページを読んでその先を読まず、それでも大体の理屈がつかめるから、、、という事だったらしい。オリジナルな思想を持つ人にとっては、それでいいらしい。

 

私なんて、わけわからないままによんで、わけわからないまま、、、、だが・・・。
比べるものではないか。

 

シュライアマハーは、その時代の教会のありように疑問をもっていたから、『宗教について』という本を書いた。副題には、「宗教を侮蔑する教養人のための講話」とあった。でも、深井さんと佐藤さんの読みは、そう書きながらも実際には、教会の内部にいて、教会を取り仕切っている当時の人々に対して書いたのではないか?と。内部批判のようになるから、そうは書かなかった。「今の教会指導部に対する根源的批判」なんて書いたら、大変なことになる。。。佐藤さん曰く、シュライアマハーの特徴として、めんどくささを避ける傾向にある、と。平和主義、対立を好まなかったのかな、と思う。

 

そして、シュライアマハーが言いたかったことは何かというと、「宗教と道徳を一緒にしてはいけない。区別するべきもの。」ということ。宗教は、一人一人が直感と感情で感じる普遍的なものであって、教会が「このように生きなさい」と説教するのは違うのでないか、という事だった、、と、私は理解した。


啓蒙主義のように、教会が生き方を啓蒙するのではなく、一人一人が、直感で感じればよい。啓蒙主義は理性が必要なわけだが、理性だけでは人は上手く生きていけないから、感情とのハイブリッドでいいのではないか、ということ。
啓蒙主義の克服、というのがシュライアマハーが目指したものだった。それは、形而上学の否定、という事でもあった。


とまぁ、難しい話が続くのだが、シュライアマハーが対峙しなくてはいけなかった、啓蒙主義形而上学というのがなんとなくわかるような気がした。

 

広辞苑から復習。


啓蒙主義
ヨーロッパ思想史上、17世紀末に起こり、18世紀後半に至って全盛に達した旧弊打破の革新的な思想。人間的・自然的理性を尊重し、宗教的権威に反対して人間的・合理的思惟の自律を唱え、正しい立法と教育を通じて人間生活の進歩改善幸福の増進を行うことが可能であると信じ、宗教・政治・社会・教育・経済・法律の各方面にわたって旧慣を改め、新秩序を建設しようとした。代表者にイギリスのロックヒューム、フランスのモンテスキューヴォルテールドイツのヴォルフ・レッシング・カントなど。
 
形而上学
元来「自然学の後に置かれた書」の意で、ロドスのアンドロニコスがアリストテレスの死後、著書編集の際に、存在の根源的原理を論じた書を自然学書の後に配列したことに由来。アリストテレスにおける第一哲学。
現象を超越し、その背後にあるものの真の本質、根本原理、存在そのものなどを探求しようとする学問。神、世界、霊魂などをその主要問題とすることが多い。

 

理屈や理性もいいけど、直感と感情も大切にしよう。でも、人とのかかわり、社交も大切にする。。。と、そういうことなのか?

 

シュライアマハーが「宗教について」で、言いたかったことを読み解く、というよりは、どうしてこういう本を書いたのか、その背景は何だったのか、という事の対談だったように思う。

 

廣松渉の言葉が引用されていた。
「哲学者は失敗した政治家だ」

なるほどね。

 

神学も哲学も、やはり、まだまだよくわからない。
わからないから、色々読んで、点と点がつながる日を待ってみようと思う。 

 

難しい本だったけど、つまらない本ではない。

つまらない本は、途中で読むのをやめるけど、途中で投げ出したくなる感じではなかった。

難しい本は、一度で理解しようとしないでいいと思う、、、ことにしている。

似たような言葉が、またどこか出てて来ると、あ、あれかもしれない、って点と点がつながることがある。

たぶん、それが、読書や勉強していて楽しいことの一つだ。

 

ヨーロッパの歴史、哲学、宗教をもう少し読んでみたら、また読み直してみようと思う。

だいぶ先になりそうだけど。

こういう本がある、ということが認識できただけ、収穫だ。

 

そう、だから、それでも、読書は楽しい。