正解を求めないということ

昨日言及した、”考える練習帳”の中に、

”正解を求めない”というのが、考えるにあたって重要なことがある、というようなくだりがあった。

普段の生活の中でも正解を求めがち。

意見が対立すれば、どっちが正しいかとことん闘争してみたり。

でも、世の中には正解のないことはたくさんあって、白黒はっきりしないことをそのまま飲み込むという器の大きさも必要なのだな、と思うようになった今日この頃。

 

若いころは無理だった。

常に、自分は正しいとおもって、自分にとっての正しさを主張していたと思う。正しいかどうかなんか、わかりもしないのに。でも、それでいろんな意見の人とぶつかったり、混ざったり、いろいろしていく中で、自分の価値観とかものの考え方とかが形作られていくのだと思うから、若い時は、自分の意見が何なのかを考えることが大切だと思う。そして、人と意見を交わすことで色々なものの見方があるという事を経験していく。

 

内田樹さんの”日本習合論”の中でも、両立しがたいものを両立できる前提に立って「正解」を必死で探しているからうまくいかない、という話が出てきた。そしてその仲立ちをできるのは生身の人間である、と。

生身の人間だから、”頭で考える”ことができるので、”正解を求めない”解をだせるのは、AIではなく、人間なのだと、私の中で腹落ちしたような気がしている。

 

正解を求めなくていい、と思うと、人と意見が違ったとしても、人に自分の意見を否定されても、”あぁ、そういう考え方もあるか”と、思えるようになる。

 

どちらかが正しい、ではなく、どちらも一理ある、と飲み込んでみるのも悪くない。

 

行動の記録:

いちご大福だって、お餅がいちごとあんこを包んでいる。なんて思いながら、季節限定のいちご大福を食べた。10年ぶりくらいかも。美味しかった。和菓子なんて、めったなことでは買わないのに、なぜ今日は買ってしまったのだろう?

理由なんかなくてもいい、というのもいい。