「山下清の世界 放浪美術館」へ行ってきた。
目的地として行ったわけではなく、自分の意思で行ったわけでもなく、蓼科に遊びに行った際に、現地の人が連れて行ってくださった。
所在地
〒391-0001 長野県茅野市ちの2764-3
Tel 0266-72-9908
茅野駅から車で10分足らずの場所だったと思う。
案内には茅野駅より徒歩25分、と書いてある。
山下清の作品、ゆかりのものが飾ってある小さな美術館 。
山下清といえば東京浅草生まれ(1922~1971)、「放浪の天才画家 裸の大将」だ。
その山下清の美術館が、なぜ茅野に??と思ったら、山下清の作品の中で諏訪の花火大会というのが有名らしい。
そういえば、知人が数年前に出版した「心が元気になるちょっといい話」という本の装丁が、山下清の「花火の絵」だった。どういう経緯で、山下清の絵を使ったのかはきいていない。でも、内容にぴったりな優しい装丁だった。
山下清は、放浪中は駅のベンチや神社の境内などを宿代わりにし、ときには野宿をすることもあった。そのため気候の変化に応じて、夏は涼しい信州・東北地方へ、冬は暖かい四国・九州地方へと、まるで渡り鳥のように旅を続けたという。
夏の信州の放浪中、「諏訪湖の花火」を題材にした作品を多く残している。
美術館の入場券(大人800円)に描かれているのは。「ナイアガラ花火と見物人」という作品の一部。貼り絵だ。
私は、山下清の作品実物を見たのは初めてだった。
もちろん目にしたことはあったけれども、実物を見るのは初めて。
そして初めて認識した。
彼の作品の多くは貼り絵なのだ。
よくもまぁ、こんな小さな紙を貼り合わせたわ、、、という、細かい貼り絵。
紙による点描、と言った感じ。
ちょっと、パラノイア的というか、、、、、。
山下清は、10歳のころから、知能の遅れが目立ち始め、周囲から侮辱や嘲笑をうけ、劣等感に苦しみ始める。学校ではいじめを受け、転校を繰り返す。12歳の時には養護学校へ転入する。
15歳(昭和12年)の時、養護学校の児童たちの小展覧会が開かれ、彼の作品は観る人々を驚嘆させたという。
18歳(昭和15年)から34歳(昭和31年)まで、16年間にわたり、放浪・帰郷を繰り返し、全国各地を波乱万丈の放浪生活を送る。
迷子にならないように、線路の上を徒歩で移動したという。そして、暑いときに裸で線路上を歩いている姿の写真が、新聞にでかでかと掲載される。その時には、噂の放浪画家、ということで、すでに有名になっていた。当時の新聞のコピーが、美術館にも保管されていた。記事は、神出鬼没、噂の放浪画家の連載だった。
そして、「裸の大将」。
放浪生活の最中に、お世話になったお礼にと絵をかいたり、時には描いた絵を売ったりしていたという。
美術館には、小さなものから、大きなものまで、様々な作品がおさめられていた。
戦争中の兵隊を描いたもの。
風景を描いたもの。
花や昆虫を描いたもの。
人物を描いたもの。
いずれも、見る角度によって、構図が異なるように見えたり、不思議な絵だった。
貼り絵ならでは?なのか、仕組みはさっぱりわからないのだけれど、絵に向かって立つ場所を変えても、人物の視線がずっとついてきたり、建築物の構図が、伸びたり縮んだり、、、。なんとも、不思議な絵だった。
彼は、49歳(昭和46年)、脳出血で急逝する。
放浪の旅から、強制的に連れ戻されてから15年後のことである。その15年の間には、清ブームがおこり、画家として地方へ遠征したり、ヨーロッパへのスケッチ旅行に行ったりしたという。
49歳、若いな。
でも、きっと、幸せな人生だったのだと思う。
まだまだ、描きたかっただろうと思うけど。
美術館入場者には、もれなく、一枚の絵ハガキがプレゼントされる。
いくつかの種類から選ぶことが出来る。
もちろん、諏訪の花火大会もあった。
わたしは、「グラバー邸」というフェルトペンの点描の一枚を選んだ。
シンプルだけど、美しい。
じっと見れば見るほど、美しい。
美術館には実物も飾ってあった。
実物は、もっと、美しい。
特にリクエストしたわけでもなく、強制的に?!連れていかれた美術館だったけど、ゆっくり見ることが出来てよかった。
小さな美術館だけど、ぎゅっと詰まった感じだった。
欲を言えば、、、、、
館内の案内の方の声が大きすぎる、、、、、。
作品のすごさを説明したいのはわかるが、がなり立てるように話さなくてもいいのに、、、、、って感じだった。おじさんもおばさんも、、なんでこんなに声が大きいのだろう?!?!と思ってしまった。
しかも、話し続けるものだから、ちっとも静かに鑑賞できなかった・・・・。
あれは、「おもてなし」、、、のつもりなんだろうな。
美術館は、やはり、静かな方が好きだ。。。。
静かな美術館に、行きたくなった。