「キリスト教で読みとく共産主義」 by 佐藤優

キリスト教で読みとく共産主義

佐藤優

2017年2月20日 初版第一刷

株式会社 光文社

 

図書館で、宗教の棚にあったのか?政治の棚にあったのか??忘れてしまったけれど、ふと目に留まったタイトル。

佐藤さんの本。

新書にしてはちょっと分厚いけど、借りてみた。

 

本書は、『共産主義を読みとく ー今こそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート』世界書院2011年7月刊に若干の修正、加筆をしたもの、ということで、オリジナルは、10年前の本らしい。

 

廣松さんは、1994年には亡くなってしまっているので、すでにこの世にいない人の主張に対して、佐藤さんが反対の意見から臨む。

だから、共産主義を読みとく、というよりは、「廣松渉を読みとく」と言った方がいいかもしれない、そんな内容の本だった。ただ、やはり、キリスト教共産主義を並べるのが、この本のタイトルとして、ふさわしい。

 

佐藤さんは、廣松さんを否定するわけではなく、なぜ、廣松さんのマルクス解釈は、「人間から社会へ!」「疎外論から物象化論へ!」「『経済学・哲学草稿』から『ドイツ・イデオロギーへ』!」となっていったのか、という点について語っている。

 

政治を理解しようとすると、歴史が必要となる。

歴史を理解しようとすると、哲学が必要となる。

哲学を理解しようとすると、宗教が必要になる。

宗教を理解するには、神学が必要になる。

 

そういうことだ。

 

だから、共産主義を理解するには、宗教としてのキリスト教を理解しないと、深い意味では理解できない。

廣松さんの「神はいないという立場からマルクスを見る視線」「物象化論」に対して、佐藤さんは「神がいるという立場からマルクスを見る視線」をもって「疎外論」を語る。

 

385ページ。

新書としてはぶ厚いし、内容も難しい。

 

でも、マルクスを理解するためにはエンゲルスの理解も必要で、エンゲルスを理解するには、当時の宗教的背景が理解できないと、わかりにくいということのようだ。

 

マルクスは、ユダヤ教からプロテスタントになり、のちに、無神論者となる。

エンゲルスは、敬虔主義の家庭に育ち、カルヴァン主義から時代の宗教の変遷に翻弄され、最終的にはキリスト教信仰からは離れる。

佐藤さん曰く、信仰から離れても、エンゲルスの発想はキリスト教的であるという。

 

疎外論と物象化論でいうと、疎外論キリスト教ユダヤ教と親和性がある。一方、物象化論は、仏教との親和性がある、と、佐藤さんは言う。

 

日本資本主義の講座派と労農派でいえば、講座派がカトリックと親和性があり、労農派はプロテスタントと親和するという。

 

疎外論・物象化論。

講座派・労農派。

 

なんだか、私にとっては、ぼんやりとした単語としてしか頭になかったものが、佐藤さんの視線をとおすことで、少し、輪郭がでてきた気がする。

 

今回も、内容の数パーセントしか理解できていない気がするけれど、また一歩、プロテスタントへの理解は深まった気がする。

 

プロテスタント啓蒙主義的な考え方が加わり、コペルニクスの地動説や、マゼラン世界一周の事実から、自由主義プロテスタンティズムへと変わり、シュライエルマッハーの神の位置を心の中とした「宗教の本質は直感と感情」という理解へ。そして、近代プロテスタンティズムへ。

 

相変わらず、佐藤さんの宗教の話の全容を理解はできない。

でも、まぁ、わからないなりの読み方というものがある。

ということで、マルクス共産主義を理解するのには、まだまだ道は遠そうな気がする。。。

 

でも、もう少し、マルクスを理解してみたいと思う。

そして、斎藤幸平さんの著書『人新世の「資本論」』を、もう少し深く考えてみたいと思う。

資本主義は、そんなに問題なのか?

本当に、格差拡大は資本主義のせいなのか?_

地球環境の維持に、経済成長は求めてはいけないのか?

成長という定義が、人によって違うのだな、と、思ったりもする。

 

私は、サラリーマンをやめて、ぷー太郎をしているからと言って、成長をやめたわけではない。

私なりの成長。

それでいい。

 

話がだいぶ飛んでしまったけど、思考って、そういうものだ。

それでいいことにする。

 

読書は、楽しい。