世界は「関係」でできている
カルロ・ロヴェッリ
富永星 訳
NHK出版
2021年10月30日
『時間は存在しない』に続いて、カルロ・ロヴェッリの最新作を読んた。知人が面白いと言って薦めてくれた本。
本の帯は、森田真生さんの言葉が。
「物理に心を解放された。この世界は僕が信じていたよりずっと自由なのかもしれない。」
数学の話を詩文にしてしまう森田さんと、物理の話を詩文にしてしまうカルロ・ロヴェッリ、なにか、共通している感じがする。本の中に、プラトンやウィトゲンシュタインが出てくるところも、共通。
結局、3回読み直した。そして、わかったのは、やっぱりカルロ・ロヴェッリは物理学者なのだろうけれども、文学者であり哲学者であるということ。今回も前作『時間は存在しない』と同様、様々な物理学者や哲学者が登場し、それぞれの自論の展開とその反論、討論の物語として読むこともできる。確かに途中で出てくる物理に関する説明、実験の説明、ちょっと難しいのだが、理解できないところはすっとばして、ずんずん読み進める。すると、色々な登場人物が出てきて、”量子とは何なのか?世界とは何なのか?”を、その答えを求め続けてきた人々の物語。そしてロヴェッリは何を思ったのか、解き明かす一冊として読むことが出来る。
もちろん、量子学についても、わかりやすく解説されている(と思う)。まだまだ、わかっていないので、何とも言えないが、、、。
前半は、1925年、23歳のドイツの物理学者、ヴェルター・ハイゼンベルク(1901-1976)が、アレルギーの療養のために来ていたヘルゴランド島で、「量子力学の数学的構造」すなわち「量子論」の確立へとつながる着想を得る話から始まる。そして、ハイゼンベルクの書いた論文を見せられた研究仲間の40代・マックス・ボルンが、その論文を著名な物理学会の雑誌におくる。ニールス・ボーア(1885-1962)に指導されつつ、ドイツの物理学者たちが、量子論について「オブザーバブル=観測可能量」なものからの学説を導き出す。量子は確率の問題なのではないか?
それに反するように、オーストリアの物理学者、エルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961)が 、アインシュタイン(1879-1955)に薦められた論文を読んでいて、「電子は波だ」とひらめき、Ψ(プサイ)を持ち出す。
確率か?波か?
アインシュタインは、自身を無神論者だというが、しばしば神を引用する。そして、「神はサイコロを振るのか?」と言った。確率??
自然法則は、実は、決定的ではないのかもしれない?という、命題が発生する。
波動力学を巡る論争は、電子は粒なのか?波なのか?今も結論はでていない。
中盤からは、どんどん、哲学的な話になっていく。
”論理的に存在し得る世界(可能世界)すべてを含む巨大な宇宙的波ψは、ちょうどヘーゲルが批判した「すべての牛が黒くなる闇夜」のようなもので、それ自体は私たちが実際に観測する現実の現象について何も語らない”
(ヘーゲルは、シェリングの同一哲学を「絶対者をすべての牛が黒くなる夜(一切の差異を塗りつぶした同一性)」と述べることは、反省的思考を放棄することだと批判した)
アンソニー・アギーレ(アメリカの宇宙論学者)の「できごとは、とびとびで連続しておらず、確率的で、相対的」と言う言葉は、「私たちは、宇宙によってつくられたものとしてのみ存在する。仏陀は、それを『空』とよんだ」と解説される。
認識論、QBイムズ(量子ベイズ主義)から、ブラックやピカソのキュビズムの世界。
この世界は、単純な形で表すことはできない、という思想。
(だからといって、ピカソの絵はやっぱり謎だ、、、、)
西洋哲学と言うのは、何が基礎かという問いに答えようとする試み。自然法則にある決定的法則を見出そうとしていた。でも、自然法則は、決定的ではないのか??
ロヴェッリは量子を理解しようとし様々な哲学文献を読みあさったそうだ。
そして、「ナーガールジュナ(龍樹)」(2世紀に生まれたインド仏教の僧)の『中道の基本的な詩文』に出会う。東洋思想のなかにある「独立した存在がありえない」ということ、そしてそれを「空(シュニーター)」としたこと が、ロヴェッリにとって、西洋哲学と共振していると感じられた。
ヒュームの徹底的懐疑主義、ウィトゲンシュタインの哲学の問題=疑似問題。
この世界が錯覚であるという輪廻(サンサーラ)の世界は、仏教の普遍的テーマ。そして、錯覚だと悟ることで涅槃(ニルヴァーナ)に至る。すなわち、解放と至福に到達する。
輪廻と涅槃が「空」だ。
自分が自立的な実体として存在しているのではないという悟りは、自信を愛着や苦しみから解き放つ助けとなる、と。
量子の話は、気がつけば、「色即是空」の世界になっていた。
印象的なロヴェッリの言葉がある。
「何かを理解しようとするときに確かさを求めるのは、人間の最大の過ちの一つだ」
物理学者の言葉か??と思うのは、物理学が物質をひたすら解析する世界とおもっているからで、物理学者というのは、自然を探求する学者であり、つまるところ、哲学者なのだ、という事がわかると、なるほど!!という言葉だ。
学問と言うのは、それぞれの専門用語があるものではあるけれど、「わからないもの」を知りたいというのは共通であり、そこには、哲学があるのかもしれない。
確かさを求めない、という自由。
この本を読むにも、曖昧なままでいいこともあるのかもしれない。
この数週間で3回読んでみたけれど、やはりまだまだ分からない。
でも、それでもいいのかもしれない。
不思議な本だったなぁ、という感想。
本書もまた、すごい量の登場人物と、文献。
人と人とのつながり、物語、よくこれだけ点と点がつながるなぁ、と思う。
知人に本書を紹介された時、すぐに読みたくて、kindleで購入したのだが、紙の本として手元に置いておいてもいいかもしれない。物理と哲学のガイドブックになるような気がする。
ロヴェッリの言葉では、量子論とは、
「現実について考えるための新たな地図、自分たちにとっての世界をもう少し正確に記述する地図を発見する」もの。
ここで言っている地図は、現実についての精神的な地図。自分の概念の構造を更新して、より良いものにしていくための地図。
本書は、生き方のガイドブックといってもいいかもしれない。
文献が146もある。
美しい、詩もでてくる。
美術も、芸術も、文学も、つまるところ、哲学なのか。
面白い。
世界は関係でできている。
だれも、一人ではない。
主体と客体。
松尾芭蕉の世界だ。
イマジネーションが、想像が、妄想が、点と点とをつなぐ。
読書は楽しい!!