禅の言葉 「無字の体と用」

今日、教えていただいた禅の言葉。

「無字の体と用」

臨済宗公案


「無門関(むもんかん)」第一則 禅の公案の基本
「無門関」の最初の公案

 

趙州(じょうしゅう)という和尚の公案
趙州和尚とは中国禅界での大物。南泉禅師の弟子で120歳まで生きたという傑僧古仏らしい。

 

趙州無字(じょうしゅうむじ)・・・・

 

趙州和尚、因みに僧問う、

「狗子(くし)に還(かえ)って仏性(ぶっしょう)有りや也(ま)た無(な)しや」。
 州(しゅう)云(いわ)く、『無(む)』」

 

狗子とは、犬のこと。
みすぼらしい犬がいた。それを見て弟子が和尚に聞いてみた。

 

釈迦は、万物に仏性がある、禅の心があるといったけれど、犬にも仏性があるのかないのでしょうか? このみすぼらしい犬にも仏性はあるのでしょうか?

 

お釈迦様なら、「ある」と答えそうなところを、趙州は、「ない」と答えた。

これについて答えなさい、というのがこの公案

 

論理で考えた「無」つまり「有無の無」ではなく、「無そのもの」ということを趙州は言った、ということ。

ここでいう、無を、「無の体」という。

 

禅では、「体」という言葉と「用」という言葉を使う。
「体」というのは、事の本質、本体。
「用」というのは、働き。

 

無の「体」とは、むーーーーーーーーーーーー。なにもなーーーーーーい。

 

無の「用」とは、
”要行便行 要坐便坐
行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐す 
立つときは立つ、坐るときは坐る 自由自在”

歩こうと思うときには、歩く。
坐ろうと思うときには、坐る。
寝ようと思うときには、寝る。
仕事をしようと思うときは、仕事をする。

自由自在に、働く。


犬は、有無の無を越えた、無。そのままである。

と、そういうこと。
と言われても、さっぱり?!?!だった。
公案の最初の一文、ということで、修行の第一歩の公案
深い深い、意味があるのだと思う。

 

今日の私には、「無」には、「無の体」と「無の用」がある、というところまで。。。
それより先の深みは、わからない。考えなさい、という事なのだと思う。。。

 

わからないけど、「体」と「用」という考え方が、面白いな、と思った。


物には、物体としての「価値」があるけれど、それをどう使うかという「使用価値」がある、という、資本論の考え方がふと頭に浮かんだ。
というか、そういう資本論の考え方が、実は、禅の考え方なのかもしれない。

 

身近で言えば、「貨幣」。
一万円札だって、「ブツ」としてはただ精巧な印刷がある紙っ切れ。
それを人は一万円の価値のものと交換できる価値がある、使用価値がある、と信じているから流通する。

「使用価値」は人によって異なる。
一万円だって、食費になったり、書籍代になったり、あるいは寄付金になったり。
でも、その価値は、食うなら食う、読むなら読む、手放すなら手放す、、、。それぞれ。

 

「無」の価値。
禅においては、価値の有り無しをいうことではないのかもしれない。

価値ではなく、働き。

「無」の働き。

 

自由自在に、働く。
それに集中して、働く。
集中する。

マインドフルネス。

 

マルチタスクは効率がいいなんて、ほんとはウソだ。
やっぱり、限りある時間は、それぞれ一つのことに集中したほうがいい。

 

ながら〇〇は、やめよう。
未練がましく、何かを心に残しながら、次のことに取り組むのはやめよう。
いま、ここにある、これに、集中しよう。

 

今朝のMegの頭の中は、無字の体と用とは、ちょっと違うところへ飛んでしまったかもしれないけど、ま、これもこれ。

集中する、を思い出した、ということで良いことにしよう。

よし、今日は集中しよう!

坐禅の最中は、集中してなかったけど、、、、、。