クリスマス・キャロル
チャールズ・ディケンズ
池 央耿(いけ ひろあき)訳
光文社 古典新訳
2006年11月20日 初版第一刷
原作:A CHRISTMAS CAROL 1843
言わずと知れた名作、クリスマス・キャロル。多分、訳本だけでも何種類もあるだろう。なんせ、1843年の作品だ。そんな昔の作品が今なお読まれているというのがすごい。
そして、時代で言えば、日本は、江戸時代で老中・水野忠邦が”天保の改革”で幕府権力を強化し、庶民に厳しい倹約を強いていた頃。
ディケンズの住む街、ロンドンでは清とのアヘン戦争に勝って国は景気づいているものの、富む人は富、貧しい人は貧しいまま、、という時代。そんな時代の物語。おとぎ話と言うのか、小説と言うのか、、、。
児童文学として訳されているものもあると思うし、とにかく、色々と目にする機会のあるお話の一つだろう。
この夏の暑い中、なんで、『クリスマス・キャロル』よ、、、と思うのだが、目についてしまったのだ。図書館の棚で。
本に呼ばれている気がして、おもわず、借りてしまった。
本の裏の紹介には、
”並外れた守銭奴で知られるスクルージは、クリスマス・イヴにかつての盟友で亡きマーリーの亡霊と対面する。マーリーの予言通りに3人の精霊に導かれて、自らの辛い過去と対面し、クリスマスを祝う、貧しく心清らかな人々の姿を見せられる。そして最後に自分の未来を知ることに。”
と。
*守銭奴(しゅせんど:金銭に対する欲が強く、ためることだけに執着する人)
作者のチャールズ・ディケンズは、1812~1870年。イギリスの作家。親が借金を抱え、ロンドンのスラム街で少年時代を過ごす。法律事務所の使い走り、速記者などをしながら大英博物館に通って勉強し、新聞記者になる。ジャーナリストの目で社会を凝視した作品は大衆に歓迎された。
古典の中の古典ともいうべき、一冊。
感想。
結末をわかっているのだけれど、やはり、ついつい引き込まれてしまう面白さ。楽しいという面白さではない。 人間の性善説を信じたくなるような、人は誰でもいつでも変われるという前向きさを信じたくなるような、、、、。意固地になっても何もいいことは無い、感謝の心をわすれずに、素直に生きるのが一番、と思わせてくれる、そんな一冊。
人生の教えがあるという表現は重すぎる。なんというか、こんなおとぎ話あるかいな!という話の展開ではあるのだけれど、、、、1時間のアニメにでもできそうなくらい、単純なストーリー。でも、よかったね、、、って感じ。
以下、ネタバレあり。
物語は、ケチンボの偏屈爺さん、スクルージが主人公。
スクルージがどれだけケチンボかって?
そのまま、ディケンズの表現を引用しよう。
”いやはやそれにしてもスクルージは並外れた守銭奴で、人の心を石臼ですりつぶすような、情け知らずだった。搾り取り、もぎ取り、つかみ取り、握りしめて、なお欲深い因業爺である。鉄片を打ち付けても盛んな火花を散らすことのない、硬く尖った燧石(ひうちいし)に等しく、腹を明かさず、我が強く、牡蠣のように人付き合いが悪い。冷たい心は老顔を凍らせて、鷲鼻をかじかめ、頬に皺を刻んだ。足取りはギクシャクとぎこちなく、目は血走って、薄い唇は青黛を引いたようである。物言う声は耳障りで、その口は陰にこもって悪賢い。”
まぁ、よくも、これだけ感じの悪い人間を表現できるものだ、、、ってくらい、スクルージはとんでもない人として描かれている。
そんなスクルージの、ある年のクリスマスイヴが物語の始まり。明日のクリスマスパーティに家に来ないかと誘ってくれる甥には、「くだらない!」といって追い返し、救貧院への寄付を募る訪問人には、救貧院の人間なんて「さっさと死ねばいい。余分な人口が減って、世のためというもんだ」と、言い放つ始末。
まぁ、要するに、他人のことはどうでもいい、自分の事だけ考えている頑固爺。
そして、その晩、以前の仕事相棒だったマーリーの亡霊にであう。そして、マーリーの亡霊に、これから、3人の精霊にであうことになるだろう、と言われる。
マーリーの亡霊の言った通り、毎日、夜中に精霊にあうスクージ。3人はそれぞれ、スクルージを連れて時を越えた世界に飛び、
過去
現在
未来
の様子をスクルージに見せる。
辛かった幼い時の記憶。
さっき、追い返した甥の家族が、楽しそうに過ごしている場面。
そして、どうやら誰かが死んで、みんながせいせいしたと言って喜んでいる世界。
未来で死んでいたのは、他でもない、自分だったのだ。
誰にも愛されず、死んでせいせいした、、、と言われている自分をみて、スクルージは涙にくれる。。。
そして、改心する、という、何とも単純なお話なのだ。
自分の未来を見せられて悲しみに暮れて泣き寝入ったスクルージだったのだが、目覚めると
まだ、クリスマスの日だったのだ。
「過去、現在、未来!」
自分は、まだ死んでいない。
スクルージは、自分にはこの先、まだ、償いのための時間があることに感謝する。
そして、甥の家にシチメンチョウの料理を届け、「仲間に入れてもらえるかな、フレッド」といって、家を訪ねる。
そして、みんなの心がひとつになって、愉しんでいることに至福を覚える。
クリスマス休暇を渋々許可した使用人にも、「クリスマス、おめでとう!ボブ!」と。
一夜にして、良い人に変わってしまったスクルージ。
”スクルージは節欲の心で、つつましく生涯を送った”
ということで、ハッピーエンド。
自分の過去を振り返り、今の自分の評判を聞き、今の延長にある未来の自分の姿をみたことで、改心したスクルージ。
でも、スクルージは、最初からケチンボなだけで、人に悪意を持った人であったわけではなかったのだ。
人から搾取したり、だましたりしていたわけではない。
ただただ、ケチンボだったのだ。
スクルージという人その者が変わったわけではない。
ちょっと、考え方を変えて、行動をかえた、、、多分、そういうことなのだ。
そして、ある日突然、コロッと態度が変わったって、良い方向に変わったのなら人々はそれを快く受け止めてくれる。
それが仲間なんだよ、って、そんなことなのかな。
難しく考えず、ただ、シンプルに考えれば、歓びは人と分かち合った方が幸せだよ、ってことかな。
ちなみに、キャロルって、祝歌って意味だ。
クリスマス・キャロルは、クリスマスに歌って楽しむ歌。
クリスマスでなくても、仲間と一緒に楽しむのは楽しい。
ちょっとくらいケンカしたって、一緒に食事して、一緒に歌っていたら、仲直りできるかもね。
それは、おとぎ話の世界でなく、現実の世界だって、きっと可能なんだ。
なんてね。
夏に読むクリスマス・キャロルも悪くない。
読書は楽しい。