続き:『閉された言語・日本語の世界』 by  鈴木孝夫 (その2)

閉された言語・日本語の世界 【増補新版】 
鈴木孝夫
新潮選書
2017年2月25日
*本書は1975年『閉された言語・日本語の世界』(新潮新書として刊行されたものに加筆修正をほどこし、増補新版として再刊するものである。

 

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昨日の続きを。

 

第四章では、日本文化と日本人の言語観。著者は、日本の特徴として等質性をあげている。島国であり、国民のほとんどが日本語を話す。身体的特徴も、ほぼ似たり寄ったり。肌の色や髪の色、多少の差はあれど、アメリカのような人種のるつぼの国にくらべれば、個人を描写するのに肌の色や髪の色は話題にならない。ニュースで、逃走している犯人について「色黒の白髪の男性が」と言うのは聞いたことがない。言っても、年齢や身長くらいか。
そして、そのような等質性の中で暮らしているがために、「あることを知る」ということに、深さが欠如しているのではないか、と。


著者は、「あることがわかるということには、実は無限の段階があり、絶えず既知のこと、自明と思われてることに立ちかえって、さらに深い意味を新しい材料で考え直すことが意外に忘れているように思う」と言っている。要するに、極論すれば、分かったつもりになって、たいしてわかっていないですましている文化があるのではないか、と。


なかなか、厳しい指摘だ。あるいは、分かったつもりでも、必要な場合にそれが行動に出せなければ意味がない、とも言っている。

 

違いがあるから理解しようとする。似ていると、同じだと思い込んでそれ以上の深ぼりをしなくなる。そんな文化。もしかすると、あるかもしれない。。。

 

日本においては宗教が人付き合いの問題になることも少ない。海外だと当たり前な、宗教的食事制限への配慮は、日本人だけのコミュニティーなら、まず、話題になることがない。いまでこそ、コーシャやハラルといったユダヤ教イスラム教の食の制限も知られるようになってきたけれど。みんな、同じものを食べると思っている。いいとか悪いとかではないけれど、日本に住む日本人の感覚はそうだろう。

 

同じものを食べて、同じように感じる人が隣にいるのが当たり前。そういう日本。日本人ならば日本語が上手で当たり前で、外国人なら日本語が話せなくて当たり前。そう考えてしまう。

日本語の流暢な外国人が、日本語で話しかけているのに、「I can’t speak English!」といって、日本人に逃げられてしまう、、、という話はよく聞く。本書の中でも、思わず苦笑いしてしまうような実例がいくつもあげられていた。


そして、
あぁ、、、この本のことだったんだ!!と言う話がでてきた。
日本の中学生・高校生の自殺が増えて、その原因に「自分の心をすっかり打ち明けてとことんまで話のできる相手が誰もいない悩み」が大きな比率を占めている、ということ。
それを、アメリカの大学生に話したら、おかしくてたまらないという様子で笑い出した、というのだ。学生によれば、「大切なことは友人はもちろん、親にも話したことがない。先生や他人と相当深く議論するが、それは自分の心の中にある大事な問題について自分で決定する手がかりを得るためであって、問題そのものを打ち明けることはしないし、ましてその解決を他人から教わろうとは思わない」ということ。

実は、この話、佐藤優さんの本でもでてきたし、本書を課題本に選んだ方からも聞いたことがあった。

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これは、初めて聞いたとき、結構、衝撃だった。日本の学生の悩みもわかる気がするし、アメリカの学生にも強く共感したから。

聞いてもらいたい民族なのかな。
聞かせてこなかった民族の癖に。

 

最後の方で、日本人は、「日本語は滅びない」と思っている民族だ、と言う話がでてきた。たしかに、日本語のみだれ、、などと言われることはあるし、日本語も変化してきていると思う。でも、誰かに禁止されたり、会社の公用語が英語になろうとも、日本語がなくなるとは思えない。それは、幸せなことなのだ。

 

本書の中で、『最後の授業』が引用されている。フランスとドイツのはざまで、揺れ動くアルザス地方の学校で、ある日突然「今日でフランス語の授業はおしまいです」と先生が生徒たちに告げる物語。何とも言えない、、、寂しいお話。

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でも、日本では、そういうことは無かった。志賀直哉が何と言おうと、日本語は日本語であり続けた。

今、ウクライナ語の教科書が没収されてしまった地域がある。世界では今でもそんなことが起きているのだ、、、、。


そして、最後の章では、日本での外国語教育について。冒頭にも書いたが、著者は英語を誰にでも学ばせるのは時間の無駄だと言っている。英語だって、イギリス英語、アメリカ英語とあるし、あるいは、オーストラリア英語、シンガポール英語、、、と、様々だ。そして、どの言語にもその国の歴史、文化を背負った表現がある。それを、教科書のような英語で学んで、役に立つ人がどれだけいるか、、、と。
たしかに、言われてみればそうだ。
私なんて、英語学習暦で言うと、、、既に20年以上だ。海外で仕事をするために英語は使っていたけれど、別に流暢じゃない。なんちゃって英語だってちゃんと通じていた。別に、文法だって、めちゃくちゃだし、語彙力だってたいしてない。それでも、サバイバルはできていた。中学・高校の英語の授業が役に立ったと思ったことは無い、、、。

と、そんなめちゃくちゃ英語を長年やってきたので、今更通訳になろうというので苦労しているのだけれど、、、。

 

ビジネスで必要な英語、旅行で必要な英語、通訳として必要な英語は、どれも違う。

語学は、目的に応じて学び分ける。
それでいい。
著者は、そう言っている。
その通りだ。本当にそう思う。

 

言い換えれば、目的もなく語学を学習しても使い物にはならない。
深く、共感!

 

日本語の深堀。
なかなか、面白い一冊だった。

 

私は、年を取るほど、日本語の面白さを知るようになった気がする。読めもしない古文や、旧仮名遣いの文学も、声に出して読んでみると、なんとなくわかるような気がする。
だって、日本語だもの。

漢字は、たとえ読み方がわからなくても、なんとなく意味が分かるような気がする。

概念としてはわかるような気がするからだろう。

ローマ字やキリル文字ならそうはいかない。音もわからなければ意味も分からない、、となってしまう。

 

言語って、面白い。

 

日本語を使うことで、知らず知らずに概念を類推するクセが付いているのかもしれない。新聞を読みながら、わからない文字があっても辞書を引く人はいないだろう。日本語なら、前後の文脈からなんとなく類推して読み進める。

だから、はっきりとわからなくても、前に進める。進めてしまうのだ。

それが、わかったつもりになってしまう、、、という、危うい思考につながっているのかもしれない、、なんて思った。

 

全てのことには、両面がある。良い点。悪い点。

エジソンは、失敗をしたのではなく、上手くいかない方法を見つけた、と言った。

 

物事は、解釈次第。

日本語の良い点をもっといかせたらいいな、と思う。

 

主語が無くても、文章になる日本語。

相手によって、主語が変わる日本文化。

柔軟性があっていいじゃないか。

曖昧性があっていいじゃないか。

 

言葉は面白い。

俳句や和歌の世界も、わかるようでわからない。

わからないようで、わかる。

日本語は、深い・・・。

だから、面白い。

 

面白い一冊だった。

日本語、文学、語学に興味のある人にお薦め。

 

読書は楽しい。