美しい日本のわたし
その序説
川端康成
ザイデンステッカー 英訳
講談社現代新書
1969年3月16日 第1刷発行
2022年1月24日 第65刷発行
『美しい日本のわたし』は、川端康成のノーベル文学書受賞講演の全文である。
とある勉強会での、テーマ本となったので、読んでみた。講談社新書版は、エドワード・G・ザイデンスティッカーの英訳もついているというので、英語の勉強のためと思って、講談社新書を買った。
英訳でのタイトルは、
JAPAN THE BEAUTIFUL AND MYSELF
そうか、『美しい日本の私』の「美しい」という形容詞は「日本」にかかるのか「私」にかかるのかがわかりにくいが、こうくるか・・・。「日本の私」も、「日本と私」と訳してしまうのか。。。なるほど。確かに、中身を読むと、美しい日本という国で生きる私、という感じだ。そして、、、そうだ、日本語は美しい、、、と思った。
これまで、本書は読んだことがなかった。本書を読むより、川端康成の小説を読む方が先だとおもって、読んでいなかった。でも、読んでみて、少し川端康成がわかるような気がした。
帯には、
”ノーベル文学賞受賞記念講演 全文英訳付き
日本人の心を見直す 不朽の名文”
とある。
川端康成は 1899年生まれ。 東京帝国大学国文科 卒業。 小説 『伊豆の踊り子』『 雪国』等を経て、戦後は『千羽鶴』『 山の音』『琴』『 眠れる美女』を発表。 1968年 ノーベル文学賞受賞。1972年、逝去。
まだまだ、読んだことのない本がたくさんある。老後の愉しみは、まだまだあるぞ・・・。
英訳したエドワード・G・サイデンステッカーは、1921年生まれ。日本文学研究家。コロンビア大学名誉教授。
裏表紙には、江藤淳の『美しい日本の私』について、とのコメントがある。
”スウェーデン学士院は、あるいは川端氏が、
東と西のあいだに論理の橋を構築することを期待していたのかもしれない。
しかし、彼らの見たものは、
おそらく 黒々としたみぞであり、
そのかなたに咲き始めた一輪の花、
むしろつぼみであった。
そしてそのつぼみには、
白く輝く小さな露が寄り添うていた。
それが川端氏の『美しい日本の私』である。
ー朝日新聞社所蔵”
と。
これだけ読んでも、なんのことやら??だけれど、本文を読めばわかる。川端康成がノーベル文学賞を受賞したのは、
”川端の作品は「言葉の芸術」と評され、「繊細な感覚で日本人の本質を表現している」”と賛辞を受けたから、という。
https://www.gov-online.go.jp/eng/index.html
言葉の芸術は、日本語の芸術であっただろうし、英訳するというのも大変だよなぁ、、、なんて、ちょっと道のそれたことを思ってしまった。
本講演の最初は、道元禅師、明恵上人の歌の紹介から始まる。人から揮毫(きごう)を求められた時に、書くことがあるのだと。
*揮毫(きごう):筆をふるって、字や絵をかくこと。
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて涼しかりけり (道元禅師)
雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雪や冷めたき (明恵上人)
道元禅師の歌は、日本人なら、きっと、きいたことがあるだろう。学校で習うのか、大人の会話の端々に耳にするのか、、、わからないけれど。明恵上人の歌は、お月さんが追いかけてくる歌、、、という印象はどこかにあるけれど、道元禅師の歌ほどは、なじみはない。でも、情景は瞼に浮かぶ。
と、日本でよく知られた歌の紹介から始まる。
そして、道元の歌は、ただ自然を四つ並べただけであり、平凡と言えば平凡。でも、ありきたりの事をありきたりのことでいうことで、あえて日本の真髄を伝えているのだと。加えて、似たような歌として良寛の時世が紹介されている。
形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉 (良寛)
形見に残すものは何も持たぬし、何も残せないけれど、自分の死後も自然は美しい。。それが私の形見となってくれるだろう、、と。
そして、川端康成は、講演の中で自分の作品について、『千羽鶴』は日本の茶の心と美しさを書いたと読まれるのは誤りで、世間に俗悪となった茶に疑いと警めを向けたのだ、とか、『末期の眼』は、芥川龍之介の自殺の遺書から拾ったとか、良寛は自分のかいた『雪国』の舞台、越後に生まれて生涯雪国でくらしたのだ、、など、エピソードのような事を語っている。
良寛の話から、禅宗の話、宗教の話へ。東洋の絵画から枯山水の話。焼き物から、華道。紫式部から清少納言。俳句から、和歌。様々な日本の背景の話を続け、日本を語ろうとしている。
結びは、
”日本、あるひは東洋の「虚空」、無はここにも言ひあてられてゐます。私の作品を虚無と言ふ評家がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。心の根本がちがふと思ってゐます。道元の四季の歌も、「本来ノ面目」と題されておりますが、四季の美を歌ひながら、実は禅に通じたものでせう。”
と。
間を飛ばしてしまったので、道元の歌から禅に飛んでしまうのだが、何気ないもの、なんでもないもの、日常のこと、そこに日本の美があるということであり、あれこれと理屈を並べて説明するものではない、、、という感じか。
そう思って読むと、江藤淳の言葉も、なるほどそういうことか、という気がしてくる。
一度は、手にして読んでみるといいかもしれない。
とても短く、薄い一冊。
旧仮名遣いで文語だけれど、さほど読みにくさは感じない。言葉が流れている感じ。
なるほどなぁ。
これが、川端康成か。。。。今の時代なら、どんな作品を書いてくれるのかな、、と思う。戦前の作品は、社会背景が今とはずいぶん違うので、『雪国』をよんでいると主人公たちの行動が理解しにくい。
たんなる男のエゴのお話じゃないか、と思ってしまう。
文章は美しいとおもうのだけれど、ストーリーにはイライラさせられるって感じか。それでも、どうなるのか気になって読んでしまうのだから、面白いというのか、すごいというのか。『伊豆の踊子』もしかり。
やっぱり、もっと、読んでみないと、わからないんだろうな。
ちょっと、わかる気になるのが危ない。危ない危ない。やっぱり、その人の作品をよんでから、その人を語ろう。。。
読書は、楽しい。