『新版 流れる星は生きている』 by  藤原てい

新版 流れる星は生きている
藤原てい
1976年3月 初版1刷
2007年4月 初版22刷 
2015年8月 改訂版1冊
偕成社


*本書は、1965年に小社から「少年少女世界のノンフィクション」シリーズの一冊として刊行され、1976年に偕成社文庫に収録された『流れる星は生きている』を底本としています。著者の了解を得て、一部を割愛し、読みやすく児童向けに構成、編集をしたものです。

 

藤原正彦さんの『日本人の真価』のなかで、父・新田次郎さん、母・藤原ていさんのことが述べられていた。本書『流れる星は生きている』は、藤原ていの作品。戦後、藤原さんが3歳で迎えた大陸からの引き上げの時の様子がつづられたもの。

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戦争ものは、あまり得意ではないのだけれど、読んでみたくなった。図書館で借りてみた。

児童書だということを知らずに借りた。確かに、漢字にはフリガナがあるし、読みやすく、小学生でも読めるだろう。でも、内容は、衝撃的だ。なんせ、命からがらの引き上げの日記のようなものだ。でも、小学生も理解できると思う。戦争がどれほど人間を醜いものにしてしまうのか。戦争がどれほどむごいのか。

 

戦争はしたくない、子供がそういう感想をいだくだけでよいだろう。
戦闘ゲームは、ゲームの世界だけれど、歴史には本当にこういうことがあったんだよ、って。
わたしだって、戦争を知らない世代だけど。

 

表紙の裏には、
1945年、終戦
そのときを満州(現 中国東北部)でむかえた著者は、
三人の子をかかえ、日本までのはるかなる道のりを歩みだす。
かつて、百万人が体験した満州引き上げをひとりの女性の目からえがいた戦後の大ベストセラー。
新装版にて待望の復刊”

 

ノンフィクションである。


昭和20年8月9日、夜10時半ごろ、新京の南郊外、南嶺(なんれい)にある観象台(日本の気象庁)で働く夫と主に新京にいた藤原ていの5人家族。夜、非常召集がかかる。なんだか理由はよくわからないけれど、関東軍の家族はすでに移動をはじめているから、他の政府の家族も同じ行動をとるように、という命令だった。新京駅に向かえ、と。

6歳の長男・正広、3歳の次男・正彦(藤原正彦さん)、生後1か月の長女・咲子。三人を抱えて、ていは満州引き上げの一行となる。職場を放棄して一行に加わるわけにはいかないという夫は、新京の駅につくと、子どもたちを頼む、といって職場に戻ってしまう。
貨車から飛び降りようと身をかがめた時、夫は、正彦の頭に自分の腰につるしていたタオルをかけてやる。「日に焼けると暑いからな」といって、3歳の子どもに。

その様子が、『日本人の真価』の中でも述べられていた。3才だった藤原さん自身の記憶というより、本書を通じた記憶なのだろう。


そこから、まさに地獄のような命がけの日本への旅が始まる。
6歳の正広は自分の足で歩かせるにしても、3歳だって、1か月だって、ほぼ抱っこしているようなもの。1か月の赤ちゃんは、お母さんのおっぱいだけが食べ物。でも正広と正彦に食べ物を与えると、母の食べるものはない。食べなければおっぱいはでない。おっぱいがでなければ、赤ちゃんは死んじゃう。。。

極限のなか、何が何でも3人の子供を無事に日本につれて帰るのだという母の強い意志が伝わってくる。

新京を出る時の持ち金が尽きれば、先行きが不安になる。一行の仲間同士も、油断できない。みんな、自分の生活を支えるので必死だ。人のお金だろうが、泥棒をしてだって生きて帰りたい。
だから、お金は、あらゆるところに隠して身に着けておく。とうもろこしの皮の草履に、100円紙幣を編み込む。夫のロンジンの時計は、大きな洗濯せっけんをくりぬいて、パラフィン紙に包んで中に入れ、別のせっけんでその穴を埋め、絶対にばれないようにもとのせっけんにする。冷たい水で少しずつ使えば、ばれることは無い。

このロンジンの時計は、後に、感染症にかかった正広の命を救うことになる。

 

引揚者たちは、いくつかの団になって移動してた。藤原家が入っていたのは、病気がちで召集されなかった大人の男1人、人妻16人、娘1人、老婦人1人、子ども20名という、39名の団だった。45歳までの男たちは、みんな召集されてどこかへ連れていかれてしまっていたのだ。

持っていたお金が尽きると、物乞いをしてでも子どもたちのために食べるものを確保する。隙間風だらけの掘っ立て小屋で寝る時は、子どもたちに暖を取らせるために、自分は一晩ねないで子どもたちの身体をさすって暖め続ける。昼に、1,2時間の仮眠。

日本人を目の敵にする朝鮮人たち。嫌がらせをされても、無抵抗でいるしかない。

そんな悲惨な中、歌を歌うことだけが楽しみだった。


そして、無事に国に帰り着くまで、心の中で歌い続けたのが、ただ一人日本人にやさしかった保安隊(朝鮮側)の金さんという人がおしえてくれた歌だった。

 

わたしの胸に咲いている
あなたのうえたバラの花
ごらんなさいね 今晩も
ひとりで待っているこの窓の
星にうつって咲いている

 

私の胸に泣いている
あなたのよんだあのお声
ごらんなさいね 今晩も
ふたりでちかったあの丘に
星はやさしくうたってる

 

私の胸に生きている
あなたのいった北の空
ごらんなさいね 今晩も
泣いて送ったあの空に
流れる星は生きている

 

そう、本書のタイトルは、この詩の歌詞だ。『流れる星は生きている

金さんは、あるときからぷっつりと団のところにこなくなる。日本人となかよくするから、保安隊をやめさせられたという噂だった。

 

日本人同士の醜い争いも描かれている。自分の子供を守り切れなかった別の母親の狂気。他人の子供なんてどうでもいいという大人。日本人どうしの裏切り。。。絶対絶命の時に助けてくれた朝鮮人アメリカ軍。

 

最後、藤原家は4人そろって日本の土地を踏むことができる。

命からがら、ていのふるさと諏訪にたどり着く。両親も兄妹も無事で、ていを迎えてくれる。

「まぁ、てい子」

「おう、てい子」

両親の声が聞こえたが、もう、涙で前は見えなかった。私にだきついてはなれない妹のれい子。背中の咲子をてばやくおろすと

「この子を早く病院へ」これだけいうのがやっとであった。

 

途中もそうだけれど、最後は、読んでいるこっちが滂沱の涙で、文字がかすむ・・・。

 

本当に、悲惨な満州からの引き上げだったのだ。

 

最後に、国文学研究資料館 加藤聖文氏の解説、1931年満州事変から1949年『流れる星は生きている』初版刊行までの年表が付いている。

藤原一家が引き上げを開始したのは、8月9日。長崎に原爆が投下された日だった。

新京から移動していた藤原家を含む一団は、一度は、38度線封鎖により南下出来なくなっている。米ソは朝鮮半島を分割占領し、人の往来を制限したため、38度線より北にいた日本人は、南へいけなくなってしまったのだ。歩いて、38度線をめざした一行。まさに、命の境界線だったのだ。。

 

当時の朝鮮と日本との歴史について、解説から引用する。

”朝鮮は、敗戦までは日本の領土でした。元々朝鮮は独立した国でしたが、1910年に日本が併合して植民地となっていました。
 当時の強国と呼ばれたイギリスやフランスは多くの植民地を持っており、世界の一流国を目指す日本もこれにならったわけです。日本支配下朝鮮人は、今の世界では当たり前の権利が認められず、日本人と対等の立場ではありませんでした。
 こうした植民地支配は、日本が戦争に負ける1945年まで実に35年にわたって続きました。しかも、日本が負けたことで朝鮮の人々は植民地支配から解放されて自分たちの力で国を作るはずでしたが、結果はそうなりませんでした。ソ連満州と同時に朝鮮半島にも侵攻しました。アメリカはソ連朝鮮半島まで占領してしまうことを警戒して、ソ連と取引をしました。それは朝鮮半島の真ん中(北緯三十八度)で境界線を引き、米ソ両国で分割占領するというものでした。著者の一家が朝鮮半島に逃げ込んだのは、まさにこの時だったのです。
 敗戦によって、北朝鮮の日本人は逃げ場を失い、ひと冬越すうちに、栄養失調と伝染病によって次々と死んでいきました。中でも子供と老人の犠牲者が多く、著者の一家のように子供担任が生還できたのは奇跡的なことでした。”

 

わすれちゃいけない。

繰り返しちゃいけない。

 

日本はこれからどこにむかっていくのかなぁ、、、と思う一冊だった。

 

2022年10月16日、中国共産党第二十回全国代表大会で習近平は、台湾統一にむけてあらゆる手段をとると宣言した。

北朝鮮はミサイル発射を繰り返す。

ロシアは、ウクライナへの攻撃を繰り返す。

 

戦争より、もっと楽しいことすればいいのに。。。

なぜ、戦争は無くならないのだろう・・・・ただただ、、、そう思う。

 

とても読みやすい一冊。

平和に感謝したくなる一冊。

生きているだけで、もうけもん。

ほんとにそうだと思う。

 

さて、今日も一日、自分にできることをがんばろう。