行亦禅、坐亦禅、語黙動静、体安然
ぎょうもまたぜん、ざもまたぜん、ごもくどうじょう、たいあんねん
永嘉大師『証道歌』
今朝教えていただいた、禅の言葉。
中国の禅は達磨大師の教え。
その7代目である永嘉(ようか)大師、唐の時代の僧が作った詩集といわれる『証道歌』(しょうどうか)からの一節。
坐禅の時だけでなく、行住坐臥(ぎょうじゅうざが :「行」は歩くこと。「住」はとどまること。「坐」は座ること。「臥」は寝ること)、一日の行動の全ての時間が、禅のこころになれば、体がゆったりと定まる。
体がゆったり定まることを、体安然(たいあんねん)と。
坐っているときだけ坐禅をしているわけではなく、その延長で、一日が決まる。
語黙動静(ごもくどうじょう)というのは、言葉を黙する、言葉を発しない、そして動きを行わない、まさに、坐禅のこと。じっとしていること。じっとしているけれど裏で心は動いている。
そして、心も体も、安定する、っていうことだろうか。
明の時代の哲学者・呂坤吾(ろしんご)が書いた『呻吟語』(しんぎんご)からもう一つ。
深沈(しんちん)厚重(こうじゅう)なるは、これ第一等の資質。
磊落(らいらく)豪雄(ごうゆう)なるは、これ第二等の資質。
聡明(そうめい)才弁(さいべん)なるは、これ第三等の資質
頭が切れて弁がたつ(聡明才弁)のは、一番の資質ではない。
どっしりと落ち着いて深みがある(深沈厚重)が、一番の資質である、ということ。深沈厚重は、暗いということではなく、明るくどっしりとしている状態。
明るく、深沈厚重をめざすのがよい、というお話。
やたら弁がたって、ぺちゃくちゃ話すより、どっしり落ち着いている方がよい。
たしかに、自分のことや自分の知識をペラペラしゃべりまくる人より、静かに人の話を聴いて、必要なことを話してくれる人の方が賢人にみえるし、実際、そうな気がする。
そういうのも、年をとるとだんだんわかるようになる気がする。
だんだん、そうなればそれでいい気がする。
黙して成長できるのは、大人になってからかなぁ。。。
今日紹介いただいた永嘉(ようか)大師『証道歌』は、在家禅のお教みたいなもので、長いそうだ。その一節が今日のお話。
”君見ずや絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人(かんどうにん)、妄想を除かず真を求めず、無明(むみょう)の実性(じっしょう)即仏性(そくぶっしょう)幻化(げんげ)の空身(くうしん)即法身(そくぶっしん)。。。行亦禅坐亦禅、語黙動静、体安然・・・。”
語黙動静、一日をそうして過ごすのは私にはまだまだ難しいけれど、坐禅をしているときくらい、じっと、そっと、心をしずめてみよう。
心に迷いが生じたときは、語黙動静。
あわてず、さわがず、じっとしてみよう。
とはいえ、連休だし。
エネルギッシュに動けるときは、エネルギッシュに動こう!!
重要なのは、自分で今日するべきことを選ぶことだ。
あれもこれも、やりたいこと山積みだけど、あわてず、さわがず、
一番やりたいことからやっちゃおう。