『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』 by  大澤絢子

「修養」の日本近代
自分磨きの150年をたどる
大澤絢子
NHK出版
2022年8月25日 第1刷発行

 

2022年秋、日経新聞の書評で見て気にはなっていたのだけれど、 「修養」に対するちょっとネガティブっぽい本という感じがして、特に読みたいとは感じなかった。そして、2022年年末に銀座の教文堂で発行している「おすすめ本」のチラシの中に、本書を見つけた。二度も目に入ったわけだし、、、とおもって図書館でかりてみたら、すぐに借りられた。

 

著者の大沢さんは、1986年茨城県生まれ。茨城県立日立北高等学校卒業、お茶の水女子大学教育学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了。博士(学術)。龍谷大学世界仏教文化研究センター、大谷大学真宗総合研究博士研究員などを経て、現在、日本学術振興特別研究員(PD)・東北大学大学院国際文化研究特別研究員。専門は宗教学、社会学仏教文化史、とのこと。

 

表紙裏の説明には、
”明治からみんな「意識高い系」だった。

明治大正期に「帝大出」のようなエリートでなかった人々、昭和期にサラリーマンとして会社で研修に励んだ人々、ビジネス書や自己啓発の消費者となった若い人々。。。
彼らが拠り所にしたのは、あくなき向上への意欲だった。
本書は「教養」として語られ熱がちな自己成長のための営為が、実は明治初頭から宗教の力を借りて社会に広く行き渡り、近代日本の社会を根底で支える水脈となっていたことを示す。時代ごとの大衆文化の豊かさ、切なさ、危うさに触れながら、”日本資本主義の精神”の展開史を書き出す気鋭の力作!”

とある。

 

感想。
う~~ん。良くまとめてあるなぁ、と思いつつ、なんだか、大衆文化に関する博士論文でもよんでいるようだった。歴史の出来事が、「修養」「教養」といった点で語られているのは、面白い。良くまとめてあるな、と思うのだが、面白みに欠けるっていう感じだろうか。明治時代から、大正、昭和、最後は最近はやりの「オンラインサロン」の話まで。たしかに、こういう視点でみるとなるほど、と思う。ただ、著者は人々はそういう世の中の流れにながされているだけではないのか?という第三者視線で語っている感じが、私には寂しい感じがした。

1986年生まれというから、世代の違いかなぁ、、、なんて思ったり。昭和の時代、会社が社員に研修を提供していたのは、社員が育てば会社の利益になるからだ、という考察には、この人は、いわゆる会社という組織で働いたことがないんだなあ、、、という感じがした。まして、部下を持ったこともないだろう、と。あとがきで、一度、某生命保険会社に入社したが早々に退社した、という話が出てきた。大学院で学びたいという思いと、健康の理由だったとのことで、学術の道にはいったようだ。学術の道は、一般人の「自己啓発」とは、視点が大きくことなるだろう。その立場から、一般人の自己啓発を否定的に見ているような感じが、読んでいてちょっと引っ掛かった。たしかに、人に流されている学びというのは、一度立ち止まって考え直してみる必要はあるかもしれない、、、けど。人に流されている、と見るところ自体が、ちょっと、シラケる感じがなきにしもあらず。。。

でも、修養というものが、どのように生まれ、どのようにかわってきたか、という調査・考察は、面白い。とても良く研究していると思う。研究論文を、NHK出版らしく、読みやすくした感じ?


目次

序章 「自分磨き」の思考
第一章 語られた修養 伝統宗教と〈宗教っぽい〉もの
第二章 Self-Helpの波紋 知っ新出生と成功の夢
第三章 働く青年と処世術 新渡戸稲造と『実業之日本』
第四章 「経営の神様」と宗教  松下幸之助の実践
第五章 修養する企業集団 ダスキンの向上心
終章 修養の系譜と近代日本 集団のなかで自分を磨く

 

「修養」とは、自分磨き。個人が主体的に自らを磨き高めようとする志向。今の言葉でいう「自己啓発」だ。 
著者の言葉では、「自己啓発とは、自分自身の認識や変革、資質向上への志向」のこと、と。そのために手軽に取り組めるのが、読書。自分の人格向上のために書物に向かう文化は、「教養主義」というのだそうだ。そして、「教養」というのは、もともと「修養」と同じカテゴリーにあったが、大正期に「教養は学歴エリートが身につけるもの」として、「修養は日常的な実践として大衆化」したのだという。

修養というのは、「日常的な実践」のための自分磨き、ということのようだ。だから、松下幸之助の教えなどは、「修養」ということになる。

また、「研修」という言葉は、もともと、「教育基本法」にある「学校の教員は絶えず研究と修養に励むように」という文章から、研究と修養が短縮して「研修」となったのだそうだ。つまり研究して、修養するのが研修、なんだそうだ。ふ~~~ん。

 

序章で、著者の「修養」に対する斜め目線が、すでに顔を出している。

”明治初期に急速に発達する資本主義経済を日本を裏で支えたのは、通俗道徳(修養)であり、それは、貧困層に対して「ある人が貧乏なのは、その人が勤勉でないからだ」ということになり、自分たちの苦しい状況を生み出している本当の原因や存在を隠すことになった”、と。

はやりのことを学ぶことで、本来目を向けるべきことに向けない、、、とすれば、確かに通俗、といえるかもしれないけれど、、、、。二宮尊徳石田梅岩の教えも、通俗道徳だと。勤勉・倹約、忍耐や正直、孝行や早起き、、、といった通俗道徳を大事にして生きてきたのが日本人だ、と。

まぁ、そうかもしれないけどね。

 

「通俗道徳が貧困の本当の理由を隠した」というのは、本当にそうなんだろうか??、と私はちょっと懐疑的に思った。

 

通俗道徳なのかは別にして、修養が一般の人に人気となったきっかけがいくつか紹介されている。

福沢諭吉の『学問のすすめ
中村正直訳の『西国立志論』
西田天香一燈園
加藤咄堂の『修養論』
などなど・・・・

 

また、教養の極致として宗教に興味を持つ流れもあった、と。内村鑑三新渡戸稲造は、キリスト教徒として有名だ。エリート学生の必読書『三太郎の日記』等を刊行した岩波書店の創業者・岩波茂雄は、内村と師弟関係だったそうだ。

 

西国立志論』は、サミュエル・スマイルズの『Self-Help』の訳本で、ニュートン、ワトソンといった様々な成功者の成功物語が紹介されていた。昔から、誰かの成功物語集というのは、自己啓発の基本だったのだろう。そして、『Self-Help』の中では、国家の発展を精神面から説いていた。本書の中では、「国家の進歩は個人の勤勉、エネルギーは正直さの総和であり、国家の衰退は個人の怠惰、わがまま、悪徳による」と述べていたそうだ。

日本は、精神論に走りがちだというけれど、もともとはここからきていたのだ、、、と思うと、結構、納得してしまう。

 

そして、戦争、戦後。松下幸之助松下電器パナソニック)創設者)、鈴木精一(ダスキン創設者)の話が展開する。会社として社員に研修、修養を進めるようになるという流れ。

 

松下幸之助は、もともと身体が弱く、幼いころには丁稚奉公にだされていた。だから、エリートではない人間が成功した代表例として、日本人に愛されている。 松下幸之助が、社員を大事にする、会社で一団となって精進する、という日本の会社の基本を作ったと言ってもいいだろう。かつ、彼はなにか一つの宗教にこだわることはなかったけれど、様々な宗教関連施設にも寄付をしている。浅草寺雷門の大提灯復興も彼の寄付によるもの。1987年94歳で死去したときの遺産額は2500億円。これは日本人の遺産最高学として、今も破られていないそうだ。経営の神様、残したものは思想だけではなかった。

そして、会社として社員を教育するという流れになっていく。

 

松下電器の「全員一致」の体制は、会社への帰属意識を高め、従業員の精神的団結を図るにも有効だった。おそらく、いわゆる終身雇用制が一般的になった日本の会社の多くは、同じような流れだったと思う。社員は家族。だから、一緒に成長する。個人で働きながら、集団の中で自分を高めていく意識が、当たり前のようになった。

 

ダスキン創業者の鈴木精一は、西田天香(本名市太郎)の二宮尊徳の『報徳記』にならった教えに大きく影響をうけた。ダスキンは、令和の今でも「この会社で仕事ができて幸せだ」という人が多いそうだ。

 

本書の中にでてきたのだが、終身雇用が当たり前の時代、たしかに入社時に「身元引受書」と言われるものがあった気がする。それは、会社という集団への忠誠心を重視するためにあったのだという。

 

著者は、修養がイデオロギーに利用されている向きもあったのではないか、という事をいっている。明治の貧しい人たち、戦前期の国民教化、、確かに、わからなくもない。

そして、最近では、「オンラインサロン」での自己啓発。中には、詐欺まがいのものもあったりするとのこと。 

 

修養ということに励んでいても、実は主体的に取り組んでいるのではなく流されている面もあるのではないか?というのが著者の主張の一つ。主体的のつもりで、そうではないのではないか?と。

 

最後の方は、修養を否定的にみた文章が多くなってきて、読んでいてちょっと疲れてきてしまった。

 

会社の研修に参加するのは、流されていることなのか???

私は、そんなことはないと思う。というか、世の中本当に主体的に行動するって、そんなに簡単なことではない。主体的に行動するに至る前に、必然に迫られたり、集団としての流れに流されたりするのが普通なのではないだろうか?と思う。そこから新しい自分が見つかることがある。

 

就職するということだって、その時点では自分で選んだかもしれないけれど、入社してみたら思ったのとは違ったってことは、ままあるだろう。でも、思いがけずに新しい業務に出会ったり、思いがけずに新しい環境に置かれることで、自分の知らない自分が目覚めていくことがある、それは、サラリーマンの楽しみの一つともいえる。

そして、脱サラしたからこそ思うのは、会社という集団で仕事をするというのは、自分が思っていた以上に様々な機会が与えられていたということ。福利厚生として、通信教育の半額補助が出たり、研修の一環として自腹では払えないような講習をうけさせてもらったり。はたまた、資格試験も業務の一環として受けられたり。

 

会社に勤めたことがないと、こういったチャンスはないんだな、と、会社をやめて初めて気が付いた。

 

私は、通俗道徳と言われようと、教養主義と言われようと、「自らを磨き高めようとする」志向は持っていたいと思う。

だって、それが楽しいんだから。

 

自分で主体的と思っていたとしても、多くは何かの影響をうけてその思考に至っている。だから、色々なことに触れてみることは、たとえそれが通俗道徳といわれようと、会社という宗教だといわれようと、私は多く経験したほうがいいと思う。経験したうえで、これは自分には向かないと判断すれば、切り替えればいい。経験せずに、食わず嫌いはもったいない。

 

そう、キャリアポルノだって、読んでみて、その上で自分の人生に取り入れるのかを考えればいい。

megureca.hatenablog.com

経験するって、大事。

どんな本も読んでみるっていうのも大事。

でも、つまらない本なら途中でやめる。

そういう本は、Megurecaには登場しない。