「絆」と「連帯」の違い

「ドイツの学校にはなぜ『部活』がないのか」(高松平蔵 著 晃洋書房)を読んでいて、「」と「連帯」の違いが気になった。

 

ドイツの都市というのは、「連帯」でつながっていて、

日本というのは、「絆」でつながっている。

と、著書にある。

 

「絆」という言葉は、東日本大震災の時にも多くの場面で目にした。

人々の美しい「絆」として。

でも、本を読んでいて、少し「絆」という言葉の危うさを感じた。

 

広辞苑によると

 

「絆」

① 馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱。

② 断つに忍びない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累

 

「連帯」

① 物事を行うためにむすびつくこと。連繋(れんけい)。

② 二人以上が連合してことに当たり同等の責任を帯びること。

 

ふむ。

 

 
「社会的連帯」というと、

 社会 = 平等な関係の人間交際の総体

 連帯 = 結びつくこと。

平等な関係で、人々が何かのためにむずびつくこと、とでもいえようか。

平等な関係、というのが重要なところ。

師弟関係のような上下関係ではない。


「社会的」というのはドイツで聞かない日はないといっても良いくらい、日常の言葉であり、ドイツにおける「社会的」というのは人間の交際以上に、助け合いと言った意味が入っくるという。

利益社会が進むと、損得勘定から、時として優しさが消えていくような場面があったとしても、これを補う部分が「社会的」という概念、ということ。

そして具体的にはどのように優しさを作っていくか、それがドイツにおける「連帯」。

個人個人が連帯することで困っている個人を助ける、ドイツでは「連帯」が習慣化している。特別なことではない。


全体が「連帯」を習慣化していると、困った人がいると誰でもさっと手伝ってくれる。

駅の階段でベビーカーを運ぶのを手伝うとか、お年寄りが何かで困っていたら声をかけてみるとか。スーパーのレジで、お金を出すのに困っているお年寄りのことでさえ、手を出して助けるという。日本で他の人のお財布に手をだしたら、びっくりして拒否されるだろう。

ヨーロッパでは、ごく自然に見かける光景。

 

日本では、駅にはほぼエレベーターが設置されていて、ベビーカーで階段を上り下りする場面自体、少なくなっていると思うけれど、たしかに、当たり前に人々が助け合えば、「エレベーター設置」に頼らなくてもよい社会もあるのかもしれない。

車いすほど重くなると、簡単に手伝えないので、やはりエレベーター設置が「やさしい社会」だと思うけど。

 

日本では、「人様に迷惑をかけるな」という事を子供のころから言われていて、本当は「迷惑」だなんて思わない人もたくさんいるのに、なんでも「自分でやる」が美化されすぎていないだろうか。

 

不得意なこと、できないことは、人に手伝ってもらっていいと思う。

 

東京大学教授、熊谷晋一郎(くまがやしんいちろう)さんは脳性麻痺を抱えて医師をしている。その彼の言葉に、「自立とは依存先を増やすこと」というものがある。私のこころに、すごく響いた言葉。

 

だれにでも、できないこと、不得意なことはあるし、高齢になってこれまでできていたことができなくなることもある。そんな時、できないことを人に頼る勇気も必要な気がする。

 

全部、自分でしなくても、よいのでは?

自立するとか、大人になるというのは、全部自分でやるという事ではなくて、自分の頭で考える、というのが大事だと思う。

 

人に迷惑をかけてはいけないから、我慢する、ではなくて、自分の頭で考えて、必要があると思うなら人を頼ればいい。

「人のせいにする」という考えがなくなるくらい、自分の頭で考える。

自分で出した結論で自分で行動して失敗しても、人のせいにはしない。

自分の考えの何が足りなかったのかを考えれば、失敗は次の成功につながるステップととらえればいい。

 


日本では、助け合いが起こるような繋がりは「絆」と呼ばれる。

まさに、震災の時の「絆」の大合唱となった。

 

「連帯」とどう違うのか。

 

広辞苑にあるように、「絆」には、もともと自由に動けないような綱から意味が派生している。逃げようにも逃げられない。自由に動けない。

悪く言えば、絆で結ばれることで義理や人情を理由に、拘束されてしまう。。。

 

社会的連帯とは、だいぶ違うもののような気がしてくる。

 

「絆」というと、「情」に由来するつながり、という感じだろうか。

 

日本のこころ」の源流は、やはり「地縁・血縁」による「絆」をなくしては語れないのだろうか。「地縁・血縁」を離れると、「絆」はどこへいくのか?

 

多様性とか、寛容とか、言葉にしなくてはいけないという社会そのものが、まだ、多様性、寛容、ということが日常ではないという事なのかもしれない。

 

没個性。

出る杭は打たれる。

そんな言葉が日常の会話から消える日本社会になるといいと思う。

 

もっと、ひとりひとりが、のびのびと自由に考え、発言し、行動できる世の中にならないものだろうか。

 

「連帯」は、誰とでもいつでもできるけど、

「絆」は、理由がないとできないような気がしてきた。

 

いい言葉だと思うけど。

「絆」

 

「絆」という言葉の概念が、もっと平等なつながりになるとよいのかもしれない。

「絆」でつないだ輪ができたら、あとから来た人が入れる場所を作れる「絆」であろう。

 

強すぎる仲間意識は、時に他者を排除する。

 

入りたいけど入れない輪があるのは、心が痛む。

自分で平等な輪を作ろう。

誰もが平等な関係でつながり合う。

 

そして、いじめや自殺のない社会にしたい。

と、まだ梅雨入りしない関東の空の下で思った6月16日。