『暴走する能力主義 教育と現代社会の病理』 by 中村高康

暴走する能力主義  教育と現代社会の病理
 中村高康
ちくま新書 
2018年6月10日 第1刷発行

 

佐藤優さんの『国家と資本主義支配の構造』で、能力主義=「メリトクラシー
が激化する中で、社会がどうなってきたのかという問題提議として紹介されていた本。気になったので、図書館で借りてみた。

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著者の中村さんは、1967年生まれ。 東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士( 教育学)。 東京大学 助手 群馬大学 講師 大阪大学 助教授を経て 現在 東京大学大学院教育学研究科教授。教育に関する専門家ということらしい。

表紙には、
”学習指導要領は 教育システムが育成しようとしている「能力」の理念を間接的に表現している。しかし、その「能力」が「新しい能力」であることを標榜しながら実は陳腐なもの の 言い換え にすぎないもので一貫していたとしたら、、、、、 これが後期近代という時代に生じる能力論議の病的特質なのである。”
とある。

そして、表紙裏には、
”学習指導要領が改訂された。そこでは新しい時代に身につけるべき「能力」が想定され、学習内容が大きく変えられている。 この背景には、教育の大衆化という事態がある。大学教育が普及することで、逆に学歴や 学力といった 従来型の能力指標の正当性が失われ始めたからだ。 その結果、これまで抑制されていた「能力」への疑問が噴出し、〈能力不安〉が煽られるようになった。だが、矢継ぎ早な教育改革が目標とする 抽象的な「能力」にどのような意味があるのか。本書では、気鋭の教育社会学者が「能力」のあり方が揺らぐ 現代社会を分析し、私たちが生きる社会とは何なのか、その構造をくっきりと描く。”
と。

 

端的にいうと、前近代社会では、社会的地位や職業は親から子へ受け継がれたので、大勢の他人の中から自分の後継者、あるいは社員を選択する必要がなかった。つまり、人を能力で選抜する必要もなかった。しかし、近代化が進むと、身分の平等、職業選択の自由が基本となり、世襲システムが廃れた。そして、適材適所のためには、効率的なやり方で人を選択する必要が生じた。最初は、学歴でよかった。選ばれた人だけが大学にいっていたので、優秀な大学を卒業した人は総じて平均より能力が高かった。ところが誰もが大学に行くようになると、「大卒」というだけでは適材適所への選択がうまくいかなくなってきた。そこで、「能力」で測るというシステムが導入されるようになったのだが、果たしてそこで必要とされる「能力」とは何なのか?また、何をもって測るのか??教育システムの中では、様々な「時代に適した新しい能力」が必要かのように言われるが、果たしてそれは正しいのか? コミュニケーション能力?チームワークで働く能力?それが、新しい時代に必要とされる能力なのか???

 

著者がいうのは、「いかなる抽象的能力も、厳密には測定する事ができない」ということ。短距離走の足の速さは、測定する事ができる。だが、コミュニケーション力、チームワークで働く力、といった抽象的能力は測定不可能。だから、そのような能力主義は、無意味だ、ということ。

実に、楽しい本だった。
そうだそうだ!!! 文科省が、人事部が、勝手につくっているだけで、何の役にもたっとらん!!!と言いたくなる仕組みは、世の中にたくさんある。あるいは、人事コンサルタント会社とか。挙句の果てには、社外取締役のスキルマップが必要だとか言われると、はぁぁ?!と言いたくなる。

人が人を評価することの難しさ、それを無理やり数値化しようとする愚かさ、そういったことに鬱々とストレスを感じていた人には、そうだ!そうだ!とこぶしをあげたくなる様な話がいっぱい。
うん、面白い本だった。

 

目次
第1章 現代は「新しい能力」が求められる時代か?
第2章 能力を測る  未完のプロジェクト 
第3章 能力は社会が定義する  能力の社会学・再考
第4章 能力は問われ続ける  メリトクラシー再帰性 
第5章 能力をめぐる社会の変容 
第6章  結論  現代の能力論と向き合うために

いわゆる学校教育だけでなく、キャリア教育、社内教育も含めての教育論・人の評価論といっていいだろう。なので、学校の先生だけでなく、会社で働く人にも広く参考になる本だと思う。どちらかというと、ビジネス向きかな。

 

第1章で、文科省の「小学校・中学校・高等学校 キャリア教育推進の手引き」(2006年)からの抜粋が紹介されている。
いかにももっともらしい言葉が並ぶ。

以下の4つだ。

 

人間関係形成能力他者の個性を尊重し、自己の個性を発揮しながら、様々な人とコミュニケーションを図り、協力・共同して物事に取り組む。

情報活用能力 :学ぶこと・働くことの意義や役割及びその多様性を理解し、幅広く情報を活用して自己の進路や生き方の選択に活かす。 

将来設計能力 : 夢や希望を持って、将来の生き方や生活を考え、社会の現実を踏まえながら前向きに自己の将来を設計する。

意思決定能力 : 自らの意思と責任で、より良い選択・決定を行うとともに その過程での課題や葛藤に積極的に取り組み克服する。

 

冷静に考えてみると、だからどうした!と言いたくなる。そりゃ、これらの項目に優れていれば、生きやすいかもしれない。でも、”課題や葛藤に積極的に取り組む”とか、その能力を人に評価されるのはいかがなものか・・・。

 

そして、これが経済産業省の発表する「社会人基礎力」の構成となると、「3つの力/12の能力要素」として以下のようになる。

前に踏み出す力(アクション) 一歩前に踏み出し失敗しても粘り強く取り組む力 
  主体性 
  働きかけ力 
  実行力

考え抜く力( シンキング)  疑問を持ち考え抜く力 
  課題発見力 
  計画力 
  創造力

チームで働く力(チームワーク)  多様な人々とともに目的に向けて協力する力 
  発信力 
  傾聴力 
  柔軟性 
  情報把握力 
  規律性
  ストレスコントロール

 

冷静の読むと、溜息が出てくる。。。。実に、これらのような項目は、実際に会社の「個人目標管理シート」の項目になっていた。私も部下たちをこれらの項目で点数付けしていた。私自身も、点数付けされてきた。

だからなんなんだ!と。。。。

著者は、これらの項目がだめだといっているのではない。これらの抽象的な能力を測ることなどできない、と言っているのだ。だから、適当に測定値にして、それをもって人を評価するのはいかがなものか?という主張。

 

おっしゃる通り、と思う。でも、実際にはどこの会社でもやっているのではないだろうか。。。実際にこれらの評価(私の属していた会社では実力評価と呼んでいた)と、実際の業績評価(数値目標など具体的なもの)とで、人を評価していたのだ。かといって、昇格となるとそれだけではない。課長昇格、部長昇格となると、まったく別の次元で、人が人を評価する。こういっちゃなんだが、「好き、嫌い」に近い・・・。

今、脱サラして人を評価するような立場にいないし、評価される立場にもいないから、ふんふん、そうだそうだ、と面白くよんだけれど、現役でサラリーマンをしていたら、虚しさを感じたかもしれない。でも、とても大事な示唆だと思った。

 

著者は、時代が変化するとともに、「新しい能力を求めなければならない」と人々が考えていることから、ともすれば不毛な、、、議論が延々とつづいているのである、と言っている。著者が考える命題が、第1章でズバッとでてくるので、以降も読みやすい。

 

命題1:いかなる抽象的能力も現実には 測定することができない 
命題2:地位達成や教育選抜において問題化する能力は、社会的に構成される
命題3: メリトクラシーは反省的に常に問い直され、批判される性質を初めから持っている (メリトクラシー再帰性
命題 4:後期近代では、メリトクラシー再帰性は、これまで以上に高まる。
命題5:現代社会における新しい能力をめぐる論議は、メリトクラシー再帰性の高まりを示す現象である。

 

結局、本来測定使用のないものを測定しようとし、うまくいかないからさらなるメリトクラシーの模索。それを再帰性という言葉で表現している。 堂々巡りともいえる。 

 

世襲的・血縁的な地位の継承では「なぜその人がある地位につくのか」ということに説明はいらなかった。でも、近代においては、「なぜその人がその地位に就くのか」を理由づけることが都度求められる。故に、「能力」を測り、それをもって評価することが求められてしまうのだ。そして、それでうまくいかないと、「新しい能力」をもとめる。「抽象的能力」というのは、測定できるものではないので、いくらやってもうまくいかない。そして、さらなる「能力主義」へ・・・。

 

それは、学校教育のステージにも波及する。よりよい学校へ。。。より良い学校へ入るには、学校に通っているだけではだめかもしれない、、、。だから学校外での教育が盛んになる。ビジネスになる。

 

面白い数字が紹介されている。2000年代生まれの子供は、学校外教育経験が80%を超えているのだそうだ。私の時代でも、塾に通うというのは特別ではなかったかもしれないけれど、少なくとも私は通ったことがないし、みんながみんな、ではなかった。数値的に見ると、1960年代生まれは、学校外教育経験は30%程度。今の子たちは、塾へ行くのが当たり前になっている。学校ってなんなんだ?!?!

 

ソニー盛田昭夫さんの『学歴無用論』(1966年)が引用されている。盛田さん自身は、大阪帝国大学物理学科を卒業したエリートだ。だからこそ、大卒者の特権否定ができたのだろう。。。

 

最後に、これからの時代に必要な能力は何か?といわれれば、軽々と「○○です」などということはできない、と、著者は言い切っている。そして、何だと断定するのではなく、時代に合わせて、慎重に見ていくべきなのだ、と。

 

抽象的能力は、測定不可能である。

そう言い切るだけでも、だいぶすっきりする。

測定できないから、重要でないということではない。漠としたものであるからこそ、一人一人の想像力が求められるのだろう。

 

うんうん、なかなか面白い本だった。

みんな、人を点数で測るとかやめられたらいいのに、と思う。でも、世の中そう簡単でもない。。。

定年退職とか、現役引退というのは、ようするに点数で測られる人生を終える、ってことかもしれない。。。。なんて思った。

 

読書は、楽しい。