なぜ日本語はなくなってはいけないのか
齋藤孝
草思社
2022年4月5日 第1刷発行
図書館の棚で、目に入ったので借りてみた。
斎藤さんといえば、たくさんの著書もあるし、メディアにもよく出ているのでよく知られている。1960年、静岡県生まれ。現在、明治大学文学部教授。専門は、教育学、身体論、 コミュニケーション技法。
2022年の本ということで、結構あたらしい。コロナ禍にかかれたのだろう。本のタイトルがダイレクトでわかりやすい。まさに、日本語を大切にする意味がかかれていた。著書の「はじめに」で、齋藤さんは、「No Japanese, no Japanese」だと、つまり、「日本語なくして日本人なし」といっている。
表紙裏には、
”中国政府による少数民族への弾圧・同化政策に伴う言論圧殺、普遍語としての影響力を増す英語への過剰なまでの同調・・・・。 日本語は今、岐路に立たされていると言っても過言ではない。では、どうすれば日本語を守ることができるのか。”
とある。
目次
はじめに
第1章 努力しなければ日本語は守れない
第2章 日本の精神文化が失われつつある
第3章 日本語はなぜ貴重なのか その特徴と魅力
第4章 日本語を守るためにはどうすればいいか
おわりに
感想。
とても、わかりやすく書かれている。小型のソフトカバーの単行本。上下のマージンが多いからか、ページ当たりの文字数は少ない。これだけのことに、一冊の本にしたのか、、、という感じが無きにしも非ずだけれど、書いてあることは、うんうん、そうだそうだ、と共感する。まぁ、新書にするよりもカジュアルで読みやすい感じかな。さらっと読めて、大事なことが書いてある、という感じがした。
第1章で紹介されるのは、中国の新疆ウイグル自治区や、モンゴルの内モンゴル自治区で行われている言論圧殺問題。ウイグルの話は、以前、『AI監獄 ウイグル』を読んで、戦慄したけれど、今でもやはりこの問題は続いているのだ。
日本語だって、戦後には同じような危機があった。1945年 第二次世界大戦の敗戦を迎え、1952年までGHQによる占領期間を経験した日本。このとき、日本語使用禁止などという政策がとられていたとしたら、、、今、こうして日本語をつかっていなかったかもしれない・・・。和歌も、俳句も、、、なくなって、『ちはやふる』なんて漫画だって生まれていなかったかもしれない。
母語を奪われた悲しみを描いた物語には、アルフォンス・ドーデーの『最後の授業』がある。フランスとドイツとの国境で、ある日突然フランス語の授業が終わってしまうということを経験するフランツ少年の物語。本書の中ではそのストーリーが紹介されている。
日本では、アイヌ語が危機的状況にあり、文化庁がアイヌ語の保存・継承に取り組んでいるそうだ。たしかに最近、アイヌに関する保存運動は盛んに目にするようになった気がする。言語というのは、そうして取り組まないと、なくなってしまうことがあるのだ。
日本の総理は、海外で英語をはなすべきか、という話しの中では、米原万里さんの『不実な美女か貞淑な醜女か』から「国際会議の場で日本の総理大臣は日本語で話し、英語は通訳に任せるべきである」という主張が紹介されている。齋藤さんもそれに同意する派。英語でスピーチすればかっこいいかもしれないけれど、やはり、ネイティブ英語でもないかぎり、日本語で話した内容の方が、充実する。そして、
「英語ができなければ世界的な舞台に出る資格がない」というのは、いかがなものか、、、と。うんうん、私もそう思う。
たしかに、今の外務大臣の上川さんも、ハーバード卒だそうで、英語で話されている場面をニュースでみることがある。でも、日本語で話されている姿の時の方が、凛としていて、声のハリもいい気がする。
英語ができたほうが、よいにこしたことはない。でも、日本の代表としてなにかを話すときは、日本語でスピーチしたほうが内容も雰囲気もつたわるのではないだろうか。。。通訳がいなければ、仕方がないけど・・・。
私も、英語ができなければビジネスができない、っていうのは、ちょっと違うな、って思う。事実、わたしは、海外の現場でほとんど英語が話せないのに活躍する日本のおじさま方をたくさん見てきている。あるいは、日本語で押しとうして立派に会話が成立してる観光客のおばちゃまとか。。。まぁ、観光はちょっとちがうし、シビアなビジネス交渉だと片言英語では厳しいかもしれないけれど、、、。
コミュニケーションということでいうと、言葉そのものはツールでしかなく、もっと重要なのは、中身だ。帰国子女の流暢な英語だからといって、中身が充実しているとは限らない。一方、日本語発音のカタカナ英語だったとしても、中身が充実しているとみんな一生懸命中身を聞きとろうとする。そして、その中身を充実させるのは、母語による思考の訓練以外に方法はないと思う。
第2章では日本語の精神文化について。ここで紹介されている、水村美苗さんの『続 明暗』がちょっと興味深い。夏目漱石の未完の長編小説『明暗』を完結させてみたのだという。それは、漱石の日本語の世界に入りきらないとやりえないだろう。ちょっと、読んでみたい気がする。そもそも、漱石の『明暗』もよんだことがないけど・・・。
島崎藤村の「初恋」も紹介されている。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に・・・・・・
と、続く・・・・・
あとは、安野さんが傾倒したという鷗外訳の『即興詩人』冒頭も紹介されている。
詩の日本語や、文語体の日本語のうつくしさは、外国語に翻訳してしまうとわからなくなってしまうことがある。
川端康成の『美しい日本のわたし』なんて、よく英語にしたな、と思う。
また、日本語の方言の楽しさも。文語体の小説を、どこかの方言で書き直してみると、なんだかちがう世界がみえてくる楽しさ。
『雪国』を名古屋弁にすると、、、
”くにざけゃのなげやぁトンネルをくぐるとよー、まあひゃあそこが雪国だったんでかんわ。夜の底が白なった。”
って、わらってしまった。いきなり、しんしんと降りしきる雪の景色から、にぎやかな村のような雰囲気に。
他にも太宰治の『人間失格』が広島弁になると、陰鬱感が軽減されるのだとか。
ソクラテスが大阪弁で対話している『ソクラテスの弁明 関西弁訳』(北口裕康訳)や、津軽弁の『走っけろメロス』(鎌田紳爾訳)なんて本もあるらしい。きっと、楽しいだろう。
齋藤さんは、方言も含め、日本語の文化を残したい、という思い、また、行政が日本語を守ろうと真剣に向き合っていると思えない、という思いから、『声に出して読みたい日本語』をかいたということ。随分と昔に、大いにはやったのは覚えているけれど、私は読んだ記憶がない。いつか、読んでみよう、という気になった。
主語がなくて通じる日本語。「お茶が入りました」のメンタリティ。たしかに、日本の文化は、この日本語が通じるところにある。
「お茶がはいりました」については、日本語らしい日本語として、様々な場面で取り上げられているのではないかと思う。
お茶が、かってにはいるわけはない。とうぜん、「私がお茶をいれました」っていうことを「お茶がはいりました」というわけだけど、わざわざ「私がいれた」と言わないのが日本文化であり、日本語なんだな。
「お茶がはいりました」って、通訳しろっていわれたら、、、きっと「お茶をお楽しみください」とかって訳すんだろうな、、、って気がした。
齋藤さんが高校生の時に「こんなに美しい日本語を書く人がいるのか」と感動したのは、川端康成の『山の音』という作品だそうだ。ストーリーは、初老の男が息子のお嫁さんに淡い恋心をもちつつ、「山の音」を死の予告としておそれながら生きていく、、というお話らしい。内容は、私がよんだら、『雪国』や『眠れる美女』のように、また、「なんだこのおやじは!」といってしまいそうだけれど、やっぱり、川端康成の日本語の美しさには、まいってしまうのだろう・・・。うん、これも、いつか、読んでみよう・・・。
日本語、あって当たり前すぎて、あまり考えないけれど、美しい日本語をこの先ものこしていきたいなぁ、と思う。
主語を略して書いてみたり、なんとなく体言止めで宙ぶらりんにおわってみたり、、、日本語は、読み手にゆだねる無責任さがあるかもしれないけれど、やっぱり、私は、日本語を大事にしたいと思う。
英語だって、セミコロンなんかつくっちゃって、ほんとは曖昧さに憧れているにちがいない・・・・。
日本語、大切にしよう。
あいまいでもいい。あいまいがいいときもある。