『淡い焔』 by ウラジーミル・ナボコフ

淡い焔
ウラジーミル・ナボコフ
森慎一郎 訳
作品社
2018年11月20日 初版 第1刷印刷
2018年11月25日 初版 第1刷発行
PALE FIRE:A Poem in Four Cantos(1962)

 

 先日、 アラスター・グレイの『ラナーク』の日本語版を読んで、訳がいいなぁ、って思った。

megureca.hatenablog.com

 

そして、そんな話をマルチリンガルな友人に話したら、「訳者だれ?」って聞くので、「森慎一郎さん」といったら、「あぁ、有名だよね。彼の翻訳はいい」って。

 

へぇ、、、、そうだったんだ。有名な翻訳家さんだったんだ。ってことで、森慎一郎さんの翻訳本を図書館で探してみた。で、みつかって、すぐに借りることができたのが、本書、ウラジーミル・ナボコフの『淡い焔』だった。

 

著者のウラジーミル・ナボコフ(1899~1977)は、言葉の魔術師と呼ばれロシア語と英語を自在に操った 20世紀を代表する多言語作家。 ロシア革命の勃発により、 ロンドン、 ベルリンへ亡命。 1940年、アメリカに渡って大学で教鞭をとる傍ら、創作活動に取り組む。 55年パリで 刊行された『ロリータ』が世界的なベストセラーとなる。

 

知らなかった。多言語作家、ということだが、本書には、ロシア語交じりの言葉も、英語も、フランス語もでてくる。。。これは、言葉遊びがすごくって、いかにも翻訳が難しそう。

 

そして、翻訳者である森慎一郎さんは、1972年生まれ。京都大学文学研究科准教授。翻訳家。翻訳で食べていけるって、すごいことだ・・・。『ラナーク』は、ほんと、よかった。。。他にも、 フィッツジェラルドの『夜はやさしの翻訳もあるとのこと。

 

目次
まえがき
淡い焔 四編からなる詩
注釈索引


感想。
なんじゃこりゃ!!!え?小説?詩?
読み始めて、わけが分からず、え?え?え?って、一回パラパラと最後まで読んでみて、コメディ?パロディ?エッセイ?雑記?日記?

自分の理解が正しいのか、思わずネットで『淡い焔』のネタバレなどを探してしまった・・・。

 

たしかに、これは れっきとした小説であるが、主人公がパラノイア。死んだ隣人の遺稿を勝手に注釈をつけて出版しちゃったっていうのか・・・。
まえがきも、注釈も索引も、小説の一部なのだ。

 

まえがきを書いているのは小説の主人公?というか、注釈者であるチャールズ・キンボードという、1人の男。さまざまな妄想癖があって、パラノイアちっくな、変態といってもいいような男。だから、ちょっとコメディっぽくも感じてしまうのだ。冗談でしょ。ないない、そんな話ないでしょ、って突っ込みたくなるような注釈。で、かってに注釈つきで詩を出版されてしまったのが、ジョン・フランシス・シェイドという詩人。アメリカ合衆国アパラチア州ニュー・ワイでご近所に住むことになったシェイドとキンボードだが、キンボードが勝手にシェイドを親友とおもっているだけで、詩人シェイドは、有難迷惑と思っていた、、、と思われる。そこが、滑稽なところの一つ。

 

アパラチア州っていうのも、架空の州だ。アメリカにアパラチア山地はあるけれど、アパラチア州はない。でもって、キンボードは、ゼンブラという国からやってきたやんごとなき方だと自分でおもっている。索引のなかで「ゼンブラ」は、「遥かな北の国」となっている。

「ゼンブラ」と、ネットで検索してみると、ロシアには、「ノヴァ・ゼンブラ」という島が北極海にあるらしい。

 

4篇の詩は、ジェイドの作品であり、1000行にわたる詩が紹介されたのち、キンボードによる注釈が延々と続く。他人の1000行の詩に、単行本にして90ページから358ページまでの膨大な注釈をつけるところが、もう、コメディというか、ギャグでしょ、、、って感じ。そして、その注釈の中には、「元の原稿からは消されていた文章」が書かれていたりもする。人様の詩を、完全に私物化している感じ。それが、、、笑うしかないでしょ、、、ってところ。

 

また、時には自虐的なネタもでてきていて、それが本気だか冗談だかわからないパラノイア

 

ストーリーそのものもなんとも言えず、滔々とながれて、結論が見えないロシア文学っぽさがあるのだけれど、シェイドの妻が、キンボードを毛嫌いしている感じとか、笑うしかない・・・。

お隣に引っ越してきてほしくない人間、一番、っていうかんじの面倒くさい男なのだ、、とわたしには感じる。細かいことぐちぐち言って、かってに人の心をわかった風に話して、、あぁ、もう、勘弁してよ、、、っていいたくなるタイプの人間。


しかし、そんな人間の独白のような注釈を、延々と、、、ついつい読んでしまうのだ。。面白いのだか、面白くないのだかわからないけれど、なんだか、惹きこまれてついつい、最後まで、、読んでしまった。

いやぁ、、、へんな本だった。
でも、面白いんだけど・・・。虚しさが残るような、、、。

 

まぁ、キンボードが変だけど、詩もたいがい変わっている。。美しい旋律の詩というより、ただの呟きをならべたような、、、そもそも、キンボードがかってにシェイドの書いたものを詩だと言っているだけなのかもしれない。。。そして、とことん、注釈の中でバカにしている、、、ともいえる。

 

一番、「黙っておけおまえ!」って言いたくなるのはキンボードなのだが、そんな彼が注釈の中でとある黒人の庭師のことを描写して、


”行儀は恐ろしくいいし、哀れを誘ってやまぬところもあったりするのだが、少々おしゃべり過ぎるのと、まったくの不能であるのにはがっかりさせられた。その点に目をつぶれば実に申し分のない偉丈夫で、土や芝と軽やかに格闘し、球根を繊細な手つきでいじるなど、その仕事ぶりを観察するだけでも大変な審美的快楽を味わくことができたし、、、”
と、おまえだ!しゃべりすぎるのは!!!。。。。


シェイドが詩にうたった若き日のキスを、
”おそらく彼のケースは軽度の癇癪のようなものだったに違いなく、神経が同じ地点で、線路の同じカーブで、数週間にわかって毎日脱線を起こし、じきに自然の力で損壊が修復したのだろう”って。なんじゃそりゃ?!?!

 

また、シェイドの妻が自分のことを嫌っていることに気づきつつも気づかないふりをしつつ、、
”初対面の時から私は 我が友の奥方に最上の礼節を持って接しようとしてきたし、初対面の時から彼女は私に嫌悪と不審の目を向けていた。のちになって知ったことだが、 公の場で 私のことを口にする際、彼女は、「特大ダニ、 キングサイズの馬蠅(ポットフライ)、マカコ蛆、 天才に寄生する怪虫」等と呼んでいたという。私は彼女を許そう・・・。”

と、こんなことが、詩の注釈に書き添えられているのだ。詩への冒涜・・・。

 

シェイドへ、「聖アウグスティヌス」を引用するべきだとせまったけれど、引用してくれなかった、とか。

 

一方、「本篇随一の美しい二行」として紹介されているのが、
”どうすれば 漆黒の闇の中に、ハット 息を飲んで、 麗しの地球、 この碧玉の小球を探し出せるか”

原文は、
「How to locate in blackness, with a gasp, Terra the Fair, an orbicle of jasp.]

訳者の森さんのあとがきによれば、やはり、詩は翻訳が難しいので、原文も掲載したとのことで、最後の、詩の部分だけ英語が載っていた。

著者のナボコフは、シェイドに書かせて、キンボードに褒めさせる、、なんてこった。

そして、時には誤植を指摘する。これまた、翻訳してしまうとその面白みがわからなくなってしまうので、英語と併記されていた。

 

「山」mountainが、たった一字の誤植で、「噴水」fountainになってしまう、、とか。
crown(王冠) → crow(カラス) → cro(雌牛)とか、、、。
そして、このロシア語では、
korona → vorona → korova に相関するのだそうだ。
おぉ!言葉の魔術師!!

 

そして、注釈の中で、シェイドの最期についても語られる・・・。

死んじゃうのだ。

わけのわからん輩に銃で撃たれて・・・。

なんじゃそりゃ?!?!

なのだ。

 

いやぁ、、、ちょっと、変なお話だけれど、ついつい、、、惹きこまれてしまう不思議な作品だった。

 

へぇ、、、ウラジーミル・ナボコフ、ちょっと面白い。そして、やっぱり訳者の特徴がでているのか、『ラナーク』との相似もあるように感じてしまう。

「笑止千万」という言葉がよくでてくる。きっと、訳者の好きな訳なのだろう。。。

 

翻訳本もいいけど、やっぱり、原文も読めるようになりたいなぁ。。。

道はとおい。

でも、続いている、に違いない・・・

 

読書は楽しい。