『百万本のバラ物語』 by  加藤登紀子

百万本のバラ物語
加藤登紀子
光文社
2022年12月30日 初版第一刷発行

 

昨年の12月、加藤登紀子さんの「ほろ酔いコンサート」に行った母がコンサートに感動し、購入したという本。だいぶ前に母から借りたのだけれど、すっかり忘れていた。途中まで読んで、ほったらかしていたのが寝室の本の山からでてきたので、続きを読んだ。

 

加藤登紀子さんは、1943年、中国北東部ハルビン市生まれ。歌手。本のタイトルになっている「百万本のバラ」は一番有名な曲だろう。

 

帯には、たくさんの文字が並ぶ。

”歌を通してつづるロシア周辺国の激動とそこに生きるひとりひとりの物語。

”歌に国境はない
ウクライナ戦争下でも、ウクライナ、ロシアの両国で愛され、歌われる「百万本のバラ」が、人々の心を変える日が来る  佐藤優

”ここに書いたのは、私が巡り会うことになった、「はみ出し者たち」の物語だと思ってください。
「百万本のバラ」に込められた無限大の愛は、壮大な失恋です。
でも果たされる恋だからこそ生き続けるのです。
敗れることを怖れず、夢を抱き続ける勇気。
この歌を生み出したすべての人に、この歌を愛したすべての人に、どんな時も共に生きていると伝えたくて、この本を書きました。どんな時も、今生きているあなたが主人公であり希望です。  プロローグより。”

 

表紙の裏には

”社会は人を分断する暴力に満ちています。
だからこそ歌があると私は思っています。”
と。

 

今もまだ続く、ウクライナの戦争をおもって、「NO WAR」を伝えたくて書いた本ということ。表紙をめくると、加藤さんのサインなのだろう。力強い「No War」の文字があった。

加藤さんは、ロシアが悪いと言っているのではない。ロシア人も、ウクライナ人も、共に被害者であるということに悲しみを感じている。怒りかもしれない。どんな理由であれ、国からはみだした者たちにも生きる権利はある。国境というものに分断される悲しみ、それをハルビンから日本にもどった加藤さんだからこそ心から共感し、どんな逆境でも歌が悲しみを癒してくれると信じて歌い続ける。歌姫の心からの語り。

サーっと読めるけれど、加藤さんの体験記であり、歴史語りであり、なかなか深い一冊。

 

目次
プロローグ
第一章 「百万本のバラ」の運命
第二章 ハルビンというルーツ
第三章 敗戦の青空
第四章 スンガリー物語
第五章 無頼の青春
第六章 音楽に故郷をもとめて
第七章 聖地を歩く
第八章 果てなき大地の上に

 

加藤さんは、1943年ハルビン生まれだから、幼いながらも戦争を体験している。1歳8か月で終戦。2歳8か月で日本に引き揚げたそうだ。そんな加藤さんは、日本で、大陸で、世界で「百万本のバラ」を歌い続ける。ページをめくると、最初に日本と大陸の地図が出てくる。アメリカ大陸がなく、ユーラシア大陸と日本。。。加藤さんがいかに大陸と共に生きてきたかの象徴のような気がする。でも、オノ・ヨーコに呼ばれて、ニューヨークに飛んだこともあったという。ジョンが凶弾に倒れたのが1980年。加藤さんは、哀悼を込めてジョンとヨーコのアメリカの戦争への勇気ある反戦メッセージは素晴らしかった、と手紙を書いたのだそうだ。なんの面識もない、ただ一人の日本からの応援者として。すでに、歌手としては知られていたとはいえ、ヨーコが山のような手紙から加藤さんの手紙を読んだのは奇蹟にちかいことだった。「世界を変える力になる」と言って、ヨーコは加藤さんを応援してくれた。

 

そんなエピソードから、加藤さんがどのように歌手になったのか、「反戦活動」にどのように身を投じていったのかが語られる。1960年代から、1991年のソ連崩壊、その後も含めて、各地で歌ってきたこと、チェルノブイリ原発事故、パリ同時多発テロ、、、どんな事件が起きようと、歌を届けることはできる。、と。

 

もともと、「百万本のバラ」は、1980年代に当時のソ連で熱狂的に支持された歌だった。加藤さんのお父さんは、東京のロシアレストラン「スンガリー」を経営し、京都では「キエフ」というレストランをだしていた。ロシアと親しい家庭環境だったのだ。1971年にキエフ市と京都市姉妹都市になってから15年、1986年に加藤さんはキエフでコンサートを予定していた。お父さんもそのオーガナイザーのひとりだった。ところが、4月26日、チェルノブイリ原発事故が起こる。コンサートを断念した加藤さん。お父さんには、「おまえはそんなつまらん奴やったんか。こんな時だからこそ、いきます、となぜ言わぬ」と言われた。後に、加藤さんは、チェルノブイリを訪れている。住む所を奪われた人々の姿は、福島の原発事故の後の様子と重なる。

 

で、キエフにいけなくなったげれど、87年、「百万本のバラ」をシングルA 面で発売したのだそうだ。シングルA面って、なんて懐かしい響き、、、、。レコードの時代。そうそう、B面っていうのもあったよね。


「百万本のバラ」は、加藤さん自らが翻訳し、「売れなくてもいい。私の祈り」として発売された。

私が、初めて加藤さんの「百万本のバラ」を聞いたのも、このころだったのだろうか。。。あまり記憶にない。でも、一度聴いたら忘れないし、大ヒットだった記憶がある。
89年のNHK紅白歌合戦では、真っ白なドレスで「百万本のバラ」をうたった加藤さん。きっと、わたしが聞いたのは、それだったのかもしれない。

そして、ソ連の崩壊。。。

本書をよんでいると、まるでソ連~ロシアの歴史を見ているようだ。ゴルバチョフペレストロイカ(改革)とグラスチノフ(情報公開)。「百万本のバラ」の作詞家アンドレイ・ボズネセンスキーは、ゴルバチョフ大統領の片腕と言われている人だった。彼自身が、60年代からソ連体制に批判的で、「はみだし者」だった。その人の歌を、加藤さんは歌い続けているのだ。

 

「百万本のバラ」は、もともとはラトビア子守唄から生まれた。ラトビアは、バルト三国の真ん中の国。首都は、リーガ。リーガは13世紀にヨーロッパの職人たちの組合ギルドが生まれたころに都市国家として築かれた。豊かな国だったのだ。それが19世紀以降は帝政ロシアに併合されてしまう・・・。1917年のロシア革命では、独立をもとめてソ連と激しい戦争。18年には独立を果たすが、戦争で多くの人が亡くなり、その血を意味する暗い赤と白が今も国旗として掲げられている。たしかに、なんとも、、、暗い赤の国旗だ。。

「百万本のバラ」のもとになった子守唄は「マーラが与えた人生」というタイトルだった。そのリフレインの歌詞が紹介されている。

 

「神様あなたは、かけがえのない命を娘たちにくださいました。
でも、 どうして全ての子供たちに幸せを運んでくることをお忘れになったのですか ?」

 

マーラは、キリスト教の女神の名前。宗教が否定されていたソ連では、このタイトルすらもプロテストの意味がこめられていたのだ。
そして、その子守唄は、大きなスケールのラブソング「百万本のバラ」になっていく。

 

「百万本のバラ」

小さな家とキャンバス他には何もない
貧しい絵かきが女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中の バラを買いました

百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から 見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして

ある朝彼女は 真っ赤なバラの海を見て
どこかの金持ちが ふざけたのだとおもった
小さな家とキャンバス
全てを売ってばらの花
買った貧しい絵かきは
窓の下で彼女を見てた
百万本のバラの花を
あなたは あなたは あなたは見てる
窓から 窓から 見える広場は
真っ赤な真っ赤な バラの海

出会いはそれで終わり 女優は別の街へ
真っ赤なバラの海は 華やかな彼女の人生
貧しい絵かきは 孤独な日々を送った
けれど、バラの思い出は心に消えなかった

百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から 見える広場を
真っ赤なバラで うめつくして


こうして、歌詞を確認すると、絵かきはしあわせだったんだ・・・・。
孤独だったけれど、幸せだったんだ、、、と思う。


この詩に熱狂した人々は、どういう気持ちだったんだろう、と思う。
戦争が起きていても、自分の身のまわりの小さな幸せに、幸せを感じられれば人が生きる勇気を持てるということなのか。。。


最後に加藤さんの本を締めくくる言葉がある。


「国ができなくても、人はできる。
人はできなくても、歌はできる。」

歌姫の言葉をしかと受け止めよう。

 

昭和の時代に生きた人なんだなぁ、という気がした。

ロシアつながりで、佐藤優さんとも交流のある加藤さん。

歌は世界を広げる。

 

司馬遼太郎の『ロシアについて』も、今のロシアとウクライナについて知る良い本だったけれど、本書も歴史を知るという意味で参考になる。megureca.hatenablog.com

 

ロシアとウクライナの関係、ソ連からロシアへ、日本のニュースだけでは理解できないことがたくさんある。そんなことをつくづく思った一冊だった。