ロシアについて
北方の原形
司馬遼太郎
文藝春秋
昭和61年 (1986)
ウクライナへのロシアの侵攻がはじまったころかもしれないけれど、知り合いが「ロシア」を知るのに参考になる本と言っていた。いつか読もう、、、と思って忘れていたのだけれど、ふと思い出して図書館で借りてみた。司馬遼太郎が、『坂の上の雲』や『菜の花の沖』を書くなかで、十数年にわたってロシアについて調べ、考えたことを綴った本。もとは、文藝春秋に連載していた『隣の土々(くにぐに)』という記事だったらしい。それをまとめつつ、単行本にするにあたって再考したことが、章の合間に「雑談として」というタイトルでいくつかはさまれている。
1986年の本ということで、1991年ソ連崩壊前。かつ、図書館で借りたのだけれど、かなり年季の入った本だった。後ろには、手書きの「図書カード」にスタンプで貸し出しの年月日。昭和だなぁ、、、、って感じの本。
感想。
うん、なるほど。そうか。すごく、勉強になった。ロシアというのは、そもそも、人類の文明史からすると歴史の浅い国なのだというのは、新たな気づき。ロシア人によるロシア国家の成立は、15,16世紀に過ぎない、ということ。日本の方がはるかに歴史が長い。でも、そんなことは関係なく、1951年の対日講和条約で、日本が千島列島と南樺太の権利を放棄したことで、今もなお、歯舞・色丹・択捉・国後の四島の領土認識の食い違い問題が続いている。『ロシアについて』だけれど、モンゴルについての話しにも多くのページがさかれている。モンゴル、中国、との関わり合いを無くしてロシアの原形は語れない、ということなのだ。
うん、面白かった。
司馬さんのエッセイのような書き方なので、わりとさらっと読める。私は、ロシアのことを全然知らないんだ、ということがよくわかった。ウクライナとロシアの関係の話はよく耳にするようになったけれど、より東でも南でも、民族も土地も入り乱れていたのだ。大陸で何が起きていたかを知るのは、なかなか興味深い。いやぁ、歴史は深い。。。大陸の歴史では必ずでてくるチンギスハンも、今回も出てきた。中国でもウズベキスタンでもロシアでも、、、どこの話でもでてくる。それだけ、モンゴルの存在というのは歴史に大きな影響を与えたのだ。元寇だって、チンギスハンの孫のフビライハンだ。モンゴルの歴史を探ると、もっと世界史が面白くなるのかもしれない、って思った。
歴史の点と点をつなぐ旅に、終わりはない・・・・。
目次
ロシアの特異性について
シビル汗の壁
海のシベリア
カムチャッカの寒村の大砲
湖と高原の運命
司馬さんは、ロシアにとって領土問題というのは、日本との間に限らないので、日本への四島返還を認めるということは、それ以外の中国の土地など含めて返還させられることにつながる可能性があり、絶対に受け入れられないことだろう、と言っている。先日、『唐 東ユーラシア大帝国』のなかでも大陸における中国・モンゴル・チベットといった国境の変遷の話が出てきたが、ロシアと中国との国境も行ったり来たりの変遷があったのだ。
いまでこそロシアと中国は同盟国のような体になっているが、これも相互の領土牽制があるからと読むことが出来るのかもしれない。
ロシア社会の原形は、ロシア平原北部の原スラヴ系農民から始まった。そこは常に荒くれのアジア系遊牧民に荒らされる脅威にさらされている場所だった。でも、ロシアは、中国のように長城をつくったり、ローマ文明のように城壁や石造城館を作るということもしなかった。つねに、外敵に怯えながら暮らすというのが、今でもロシアの原形質になっている、というのだ。領土に執着するけれど、それを壁で守るようなことはしないのがロシア。どうやって集団を守ったかと言えば、圧倒的に強力な独裁者による支配。それが、今のプーチン・・・ってことか。
ロシア人の国家の最初は、ウクライナのキエフにできたキエフ国家だった。ロシアにとってキエフというのはそういう土地なのだ。それは、9世紀のはなし。プーチンが自分の土地だと言い張る根源は、1000年以上昔の話に基づいている。
対日本ということでいうと、ロシアは日本に対して領土を広げようと思ったことはかつてなく、シベリア開発のために、シベリア産物を売って日本から食料を買いたい、というのが日本との外交の発端だった。最初は、ウラル山脈の西から始まったロシアの原形は、徐々に東に広がり、シベリアの原住民を奴隷化し、シベリアに生息する黒貂(てん)をとらせて毛皮を搾取し、商品として売ることで利益をうるようになる。シベリアの原住民を虐待し、日本に無理やり貿易を迫りに来た人物こそ、レザノフ。皇帝イヴァン4世にうまく取り入って、やりたい放題だったレザノフ。司馬さんは、そのレザノフを批判し、紳士的航海士でありつづけたもう一人のロシア人・クルーゼンシュテルンのことを称賛している。クルーゼンシュテルンは、『世界周航記』という面白い航海記も書いているらしく、司馬さんの大好きなロシア人だそうだ。レザノフは、露米会社という会社でシベリアの民からあらゆるものを吸い上げ、それでも足りずに日本に商品を売って金儲けをしようとたくらんでいた。愛国心から日本との貿易を求めたのではなく、単なる私利私欲。領土にも興味ない。金、金、金の人物だった。だから、鎖国中の日本が無下にレザノフを追い返すと、松前藩を攻撃して建物を焼き払うなどの狼藉を働く。日本でいう露寇事件だ。磯田道史の歴史の本に詳しい。
お、歴史の点が私の頭のなかでつながった、って感じ。初めてレザノフの素顔を垣間見た。
司馬さんによれば、レザノフはとんでもない輩だったのだ。別の豪商シュリコフの娘を妻にして、レザノフは私利私欲のためにさらにのさばっていく。でも、日本との交渉に失敗した後は、その権力が衰えて43歳で病没したらしい。
江戸時代の話の流れで、高田屋嘉兵衛がロシア船に拿捕された話もでてきた。蝦夷の地で海産貿易で活躍した人物だけれど、北方領土をふくめた調査でも有名な人。これも、私の中で歴史がひとつつながった。
そして、レザノフの来日、露寇事件、高田屋嘉兵衛の拿捕事件などからも、江戸時代の日本は、他の文明国では類をみないほど非武装の国だった、ということを司馬さんは語っている。海外にある意味あまり興味がなかった。日本にとっては「ロシア」も他人事でしかなかった、ということ。
少し日本の話に脱線するのだが、日本の文化は外洋から船に乗って稲をもってきた外来者によって、大きく変わったという話がでてくる。その際、稲作だけでなく、農機具、灌漑技術、その道具、わら工芸品、など、様々なモノを持ち込んだ。そして、堆肥と燃料を得るために落葉や下草をとって林間から植物を採取しまくった。照葉樹林だった日本の山林は、落葉の堆積を失い、栄養不足になってしまった。いわゆる腐葉土ができなくなったということだろう。そこに生育可能だったのは、痩地を好む松だった。そうして、日本は松の国になったのだそうだ。。
自然破壊は、縄文、弥生時代から始まっていた、、、という話と一致する。というか、松がある景色というのは、人間の自然破壊によって作られた新たな自然の風景だった、、、ということ。
ロシア、シベリアの話に戻る。1583年、コザックの首長イェルマークがウラル山脈を越えてシビル汗を倒す。そのことによって、ロシア帝国は東方、シベリア大陸へ進出する。シベリアには、原住民だけでなくバイカル湖畔に遊牧するブリヤート・モンゴル人もいた。モンゴル高原のモンゴル人とは別の人たち。そこに押し入っていったのがコザック。コザックは婦人や娘を連れ出してシベリアに連れて行き、その先で女たちを奴隷として売った。コザックたちは、ブリヤート国には富があるという噂を耳にして、シベリアへ押し入ったのだ。シベリアを開拓しようなんて思いじゃない。略奪のため。ブリヤート・モンゴルとコザックは対立する。長年をかけて、コザックはザ・バイカルを自分たちのモノとする。コザックというのは、はぐれ者という意味でもあるらしい。浪人って感じか。
ブリヤート・モンゴルがコザックにやられている間、モンゴル高原のモンゴル人はどうしたかというと、やはりそのままそこにいては外敵の脅威にさらされる、ということでどこかへ逃げる必要があった。満州人に支配されつつある中国は、モンゴル人が安心して暮らせる土地ではない。1690年にモンゴル高原は完全に清国領になる。そのころ遊牧民だった筈のモンゴル人は、武装した清に追いやられ、清から入ってきた「お茶」に夢中になって羊やラクダを売り払い、どんどんと財力も力も失っていく。加えてチベット高原から入ってきたラマ教(チベット仏教)によって、梅毒を保持したラマ僧による梅毒感染が広がり、人口増加の衰退へとつながっていった。モンゴルの衰退。
そうしているうちに、ブリヤート・モンゴルは、チベットや中国よりはロシアの方がましだ、ということでロシアへ移動していった。ロシアの方が、中国よりモンゴルへの偏見がなかったのだそうだ。
また、クリミア半島ももともとは遊牧文明の発祥の地であり、モンゴル帝国の一部であったのだそうだ。ロシアの歴史とモンゴルの歴史は切り離せない。
ロシアをかたって、モンゴルになる。歴史は、大陸は続いているのだ・・・。
歴史を知らなくても、もちろん現代社会を生きていくことはできる。でも、歴史を知ることで今世界で起きていることへの理解が深まるのだということを実感する一冊だった。ロシア、モンゴルに興味があるならお薦め。
いくつか、ロシア、モンゴルに関する本もでてきたけれど、いずれも戦前のモノなので、自分で新しいものを探してみようかと思う。
いやぁ、なかなか面白い本だった。
読んでよかった。