『学習まんが人物館 津田梅子 6歳でアメリカに留学した女子教育のパイオニア』

津田梅子

6歳でアメリカに留学した女子教育のパイオニア
小学館 学習まんが人物館
津田塾大学・津田梅子資料室 監修
小学館
1997年11月10日 初版第一刷発行

 

まんが人物館のシリーズで、図書館で目に入ったので借りてみた。なんたって、今度の新しい5000円札の顔になる人だ。1万円札の渋沢栄一、1000円札の北里柴三郎、そして、津田梅子。最年少、6歳で岩倉使節団のひとりとしてアメリカに渡った。そして、帰国後に色々と苦労しながら、女性のために学校をつくった。そんな梅子の物語。

 

知っているようで、よくしらなかった津田梅子の一生。なかなか楽しく、エキサイティングに読めた。せっかくアメリカで学んで帰国しても、女性が活躍できる場所がないという現実。悔しい気持ち、わかるなぁ、、、、と涙がでた。後進の女性を育てたいと思っても、おもうようにはいかない現実。日本の現実、、、、。でも、梅子は諦めなかった!かっこいい!6歳でアメリカに渡ったので、日本語より英語の方が得意なくらいになって帰国する。そして、その後も度々アメリカにわたり、なんと、ヘレンケラーと直接あっているのだ。
そうか、原田マハさんの『奇跡の人』は、そういう史実からのヒントもあったのだ。

megureca.hatenablog.com

 

せっかくなので、梅子の人生をちょっとだけ覚書。

 

1864年、津田家の次女として誕生。

・1971年 わずか7歳でアメリカへ(船の中で7歳になった)

・梅子の父・仙は、外国奉行の通訳として仕事をしていた。幕府がアメリカに注文した軍艦で太平洋を渡ったことがある。そのとき、福沢諭吉も一緒だった。帰国したころには、江戸幕府は倒れていた。そして、北海道開拓使で働くことに。当時の開拓使次官は、黒田清隆(日本、二人目の首相になる)。黒田清隆も西洋を見てきたひと。日本の女子教育のひどさを感じていた黒田は、岩倉使節団で女性を留学させることを提案した。それを聞いた仙は、自分の娘をアメリカに!と思いつく。そして、まだ6歳だった梅子に「アメリカには美味しいものがいっぱいあるぞ!」と言って、アメリカへ行く気にさせる。そして、梅子は他4人の10代の女性と一緒に、アメリカに渡ることになる。

・ランメン夫妻の家で暮らしながら、英語、ラテン語、数学、物理学、天文学、フランス語等を学び、11年の歳月で、本物のアメリカ女性になった。

・1882年 日本へ帰国。毎日のようにランメン夫妻へ手紙を書いた。しかし、日本語が不自由で、日本の生活になかなかなじめない梅子だった。楽しみは、留学仲間だった、捨松や繁子との英語での会話だったアメリカで学んできたことが、何も日本では役に立たない、、と落ち込む梅子だった。
 そんな日々の中、ある日、鹿鳴館で開かれる舞踏会に招かれた梅子。そこで、伊藤博文と再会。伊藤から、下田歌子という人のつくった学校で英語を教えないか、と誘われる。梅子は、伊藤家に住み込みで英語の教師として働くことに。かつ、下田歌子から日本語も学ぶことができた。

・1885年、伊藤によって、皇族や家族のために、華族女学校が設立される。梅子はそこで働くことに。しかし、女生徒たちをお人形さんのように育てる方針が梅子にはあわなかった。そんな時、アメリカ時代の学友、アリスが日本へやってくる。やる気のない生徒を入学させる学校なんて、学校じゃないというアリス。アリスに、もう一度アメリカにいっては?といわれ、梅子は、再度アメリカに留学することを決意する。

・1889年、梅子は再度アメリカへわたり、ブリンマー大学へ。そこには、アメリカの女子教育の発展に努めたマーサ・ケアリー・トーマスがいた。梅子は、生物学を学び、「カエルの卵の発生」を研究した。梅子の論文は、高く評価され、トーマス博士から大学で研究を続けるようにいわれるが、梅子は「日本の女性のためにより良い学校をつくるために日本に帰る」ことを宣言する。

・1892年、梅子は日本へ帰国。そして、アメリデンバーでの婦人連合大会に日本代表として参加。3000人の人々の前で、日本の女性教育について演説をする。絶賛される講演だった。その講演の後、育ての親のランメン夫人に再会し、ランメン夫人のはからいでヘレン・ケラーにあうことができた。
ヘレン・ケラーと出会ったことは、教育の大切さを気づかせてくれた、と梅子は後に語った。

・梅子は、イギリスの婦人会に招かれて、ロンドンも訪問。そこでは、フローレンス・ナイチンゲールに会うことがかなった。

・梅子は、自分で学校をつくることを決意し、華族女学校へ辞職届をだす。でも、大学をつくるための資金はない。婦人会の友人らに、寄付をお願いする手紙をかいた梅子。そして、日本だけでなく、アメリカのトーマス博士からの呼びかけで梅子の学校に協力する委員会がつくられる。

・1900年9月、東京の一番町に女子英学塾が開校。最初の生徒は10人だった。優秀な生徒を育てようと、梅子は厳しく、かつ愛情をもって生徒を育てた。梅子は、理想の高い教師だった。最初の卒業生たちのなかには、英語教員免許に合格するものもいた。梅子の学校の卒業生5人は、英語教員の資格を与えられた最初の女性となったのだった。

・やがて、女子英学塾は、専門学校として認められ、卒業することで教員資格が認められるまでになった。

・1908年、自由奔放に生き、梅子を応援してくれた父・仙が他界。

・1929年、50歳を過ぎてから病気がちになっていた梅子も静かにこの世をさった。

・「Storm last night」が、梅子が一生英語で書き続けた日記の最後の言葉だった。

 

すごいなぁ、梅子、かっこいいなぁ、と。感動して読んだ。

津田梅子の物語、映画にしたら面白そう!とおもった。ドキュメンタリー映画はあるみたい。梅子もすごいけど、父の仙も面白い。そして、それを見守った家族たち。

6歳で何年もの留学に送り出す親の勇気たるや、すごい。しかも、今のようにインターネットもなければ、ひょイッと飛行機で飛んでいくこともできなかった時代。かわいい子には旅をさせろ、そのもの。

 

ヤマザキマリさんのお母さんもそうだけれど、すごい人というのは、やっぱり「右に習え」ではない親からチャンスをもらっている。そのチャンスを自分のモノにするかどうかは、本人次第。どんなに幼くても。だからやっぱり、本人たちもすごい。

 

まだ、普通選挙すらなかった時代。日本で初めての衆議院選挙が1889年。それだって、25歳以上、直接国税15円以上を納める男子のみ。全国民の1%のみが対象だった。そんな時代に、アメリカ帰りの女性が活躍する場なんて、、、自分で作るしかなかったんだ。そして、梅子は自分でつくった。

 

できない理由を環境のせいにしている間は、何も変わらないし、進まない。学んだことは、絶対に血肉になる。やっぱり、学ぶって一番の財産になる。

本を読むのも、一つの学び。

かつ、お手軽な学び。

たくさん読もう!