『歴史とは靴である 17歳の特別教室』 by 磯田道史

歴史とは靴である
17歳の特別教室
磯田道史
講談社
2020年1月28日 第1刷発行

 

図書館の棚で見つけて面白そうなので借りてみた。なんとも面白いタイトル。磯田さんの本だし、面白そう。

 

「本書は、鎌倉女学院高等学校にて、2019年6月11日におこなわれた特別授業の内容をもとに構成しました。」とのこと。磯田さんが生徒に語ったこと、生徒とのやりとりが収められている。17歳の特別授業だから、とてもわかりやすい。それにまっすぐで正直者の磯田さんの楽しい人格が見えてくるようで、それもまた面白かった。

 

目次
歴史と人物
休憩中の会話
歴史の現場

 

最初に磯田さんが歴史に興味を持ったいきさつが紹介されている。

磯田さんは、岡山県に生まれた。子供の時、田んぼのあぜ道で、近所に住む夜間高校の先生と出会った。

「磯田くん、そこのあぜ道を見たら、植木鉢の破片のようなものがあるかもしれない。拾って見てみー」

拾ってみたところ、
「それは2000年前の弥生式の土器だよ」
と言うことだった。そして小学3年生の磯田少年は、自分の家の庭の家庭菜園をしているところにも同じように、弥生式の土器が落ちていることに気がつく。それが磯田少年が歴史に心動かされたはじまりだった。

 

そんな話から、人間がなぜ歴史を作ってきたのかという話。犬とか猫とは違って、人間は歴史を認識して生きている。記号、シンボル、抽象化することによって文字を生み出し、道具を使うことによって、実用的な石器から、装飾用の勾玉、ビーズを作り出しもした。磯田さん曰く、
「食べて美味しくもないビーズを作ったのは、ビーズを持っていくと喜んでくれるメスがいたからだろう」と。
なるほど、犬や猫にはビーズを作ってプレゼントし、相手の気をひこうという技は無い。そうして人間だけが歴史を積み上げていくのだと。

 

そして、人間は歴史に学ぶことができる。地震津波の話も、過去からの学びによって防災対策を考えもする。地震が来たら、机の下にかくれるとか、津波が来そうなら高い所へ逃げるとか、私たちは皆、歴史から学んでいるのだ。
だからこそ、磯田さんは、「歴史とは世間を歩く際に足を保護してくれる靴」と言っている。それが本のタイトルということ。

 

生徒たちには、受験対策の赤本の合格体験記を読むと言うのも、歴史に学んで受験対策をしているという事と説明している。過去問対策をするというのは、歴史を学んで対策するとういう事。なるほど、なるほど。確かに、過去問があるのをわかっているのに、過去問をやらないのは受験対策としてはダメダメだ。過去から学ぶと言うのが、歴史を学ぶということなんだ。なるほど。だったら、私も、歴史に学んでいるかも。

 

「人それぞれが、自分の人生に従って情報集めて、どうやっていくかを考えるというのは結構大事なことです」と言っている。そうそう、自分で集めて自分で考えるってね。大事大事!

一方で、歴史では、誰の視点からものを見るかと言うことがとても重要だとも言っている。

磯田さんはとてもわかりやすい視点の話をする。

「例えばここにペットボトルがあります。皆さんから見ると完全にペットボトルですが、こっち側(底の方)からしか見てなかったら、ただの⭕️にしか見えません。物事は全部そうです。ペットボトルをよく見れば、どこのメーカーだとかもわかる。情報が少ない段階では、あるいは見ようとしない人にとっては、はじめは何だかわからない。物はいろんな視点から見れば理解がだんだん深まっていく。」

そうそう、そうだそうだ。50歳を過ぎてもいまだに、そうなんだから、いろんな視点で観て考えるって大事。

 

そして教科書は平均値に過ぎないと言う。国としてできた法律があったとして、それが各地方でどのように運用されているかと言う細かな事は教科書に書かれていない。岡山ではどう、鎌倉ではどうだったのかなどは書かれていないということ。

「つまり、日本史の教科書とは、標準的な日本人になるための道具立ててあり、日本と言う国の平均値で書かれているのです。

なるほど。そりゃそうだ。なんとわかりやすい。ちなみに平均値に当てはまる人間はいないと言うから、平均の日本と言うのも、実際にはどこにもないのかもしれない。これは経済学などでもよく出てくる話で、テストの平均点を取る人はいるかもしれないけれど、平均身長、平均体重、平均座高など、、、すべて満たす人は実在しないってこと。でも、その平均にあわせて製品を作りがちっていうはなし。

 

磯田さんは続ける。

「教科書が平均値であれば、特定の地域や家族にはまた別の歴史があるはずです。例えば、明治維新になったからといって、一概に良くなった、悪くなったとは言えません。その時にみんなのひいひいおじいさんが、得をしたか損をしたかは、教科書には書いていません。」

そうそう、そうなんだよね。磯田さんは歴史を考える単位を日本と言う国ではなく、自分の家族にしてみたらどうなるかと言うことを思った。そして自分の家の古文書を調べた。家に古文書があると言うのもすごいけど、、、。

そして、磯田さんのひいひいおじいさんは、鳥羽伏見の戦いの日には、岡山にいて、幕府側が負けたと言う情報を受け取り、当時の岡山藩主が、徳川慶喜の弟だったことから微妙な立場だったということ、それでも兵隊を率いて京都方面へ向かった、そのための軍事費用はかなり自分で出さなければいけなかった、それなりに高い費用を背負った、でも闘いから戻ってきたらもう武士の世界ではなくなっていた。そしてどんどんその後貧乏になっていた、、、っていうことがわかった。

そんなことを調べた経験もあって、磯田さんの武士の家計簿新潮新書)と言う本を書くことに至ったのだと言う。面白い。


本書の中でも特に面白いのは、最後の歴史の「現場」。

歴史というのが、どうして時々くつがえされるのかと言うと、世の中には後になってから「今だから本当のことが言える」ということがいっぱいあると言う事だと。

 

たとえ一次資料だったとしても、不都合な真実は隠されているケースがある。公式文書だって、嘘が書いてなかったとしても、本当の事は書いていないかもしれない。だからこそ、1つの資料から読み解くのだけではなく、様々な古文書を古記録を調べて考えることが大事だと言う。

 

古記録とは、日記や覚書等、基本的に具体的に伝えるべき相手が想定されていないもの。

古文書とは、発信者と受取手がいるもの。

 

なるほどそうだったのか。

実は厄介なのが古文書。そこには都合の良いことだけが書かれている場合があるという。

 

本書の中でも、日本においては、識字率が非常に高かったと言う話が紹介されている。

*ザビエルは、日本は識字率が高いから布教しやすいといった。

megureca.hatenablog.com

 

ただしそれも場所や性別によって随分違う。例えば薩摩の女性は明治20年代になっても5%しか字が読めなかった。一方で、近江(滋賀県)の男性は90%は字が読めた。これ平均してしまっては何の数字かわからないってもんだ。一応数字的には全国平均の成人識字率は男女合わせて40%位だったらしい。

 

1850年段階でのヨーロッパの各国の識字率は、北西、ヨーロッパ、スウェーデンプロイセンスコットランドでは80%を超えていた。これはヨーロッパは北へ行くほどプロテスタントが多いこともあって、教会を通じた信仰ではなく、自身で聖書を読んで神とつながる傾向があったためだと言う。

人は知りたいことがあれば学ぶのだ。

 

最後に勉強のコツのような話をしている。

「目先で役に立ちそうに見えるものはすぐに役立たなくなる。意見無駄なものが後で役に立つこともある。」
と言っている。

寄り道も、まわり道も、決して無駄ではない。

うんうん、そうだそうだ。


そして
「教養とは何かと言うことを僕はよく考えるのです。教養にはいろいろな形があると思いますが、無駄の積み重ねじゃないでしょうか。年季の入った無駄といってもいい。例えばフランス語とか英語とか勉強してみたけれど忘れましたということがあります。忘れるのにどうしてやるのだろうと思う人には、馬鹿言っちゃいけない、と言いたい。

1回覚えて忘れた状態を教養と言う。最初から触れたことのない人間とでは雲泥の違い、と内田百間は言いました。僕が大好きな随筆家です。

 

そうなんです。ちょっと触れたことがある感じが、人間にとっては大事です。例えば落語を聞いたってものの役には立ちそうに無いけれど、人間とはどういうものなのかを考えるときに極めて大事です。ばかばかしいような話の中に本質があります。だから無駄が大事にできるようでなければいけないと思いますね。」

 

なんて素敵な言葉でしょう。
磯田さん、やっぱり面白い。

生徒たちにも大人気だったようだ。

歴史は、多くの視点から見ることが大事。
一回覚えて忘れた状態を教養という、っていうのもいい言葉だ。

内田百閒さん。夏目漱石の弟子でもある。彼の『阿房列車』シリーズ、まさに、人生の無駄が愛おしい・・・。

megureca.hatenablog.com



めちゃくちゃ面白い。

磯田さんも、本の虫でもあるんだろうな、と思った。 

さらーーーって読めるけど、良い本だ。

楽しかった。

 

17歳の時にこのような授業を受けたら、私ももう少しは若い時にも歴史を勉強したかな。。。ま、今だから楽しめる歴史もある。そうそう、その間、いろんなまわり道をして、楽しんだんだから、それでいいのだ。

 

無駄は大事である。