『吾輩は猫である』 by 夏目漱石

吾輩は猫である
夏目漱石
新潮文庫
昭和36年9月5日 発行
平成15年6月20日 91刷発行
平成17年8月5日 98刷発行

 

夏目漱石の代表作、『吾輩は猫である』を数十年ぶりに図書館で借りて読んでみた。漱石高浜虚子にすすめられ「ホトトギス」に書いた『猫』が始まり。最初は、続き物になる予定ではなかったが、好評であったことから、2回、3回、と書き続け、11回にわたって連載された。それは、明治38年(1905年)から翌年にかけてのこと。それが、100年以上たった今なお読み続けられている。

 

本の裏の説明には、
”中学教師の苦沙弥(くしゃみ)先生の書斎に集まる 明治の俗物紳士たちの語る珍談、奇譚、 小事件の数々を、先生の家に迷い込んで飼われている猫の目から風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。 江戸落語の笑いの文体と英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、漱石英文学の教養とが渾然一体となり、作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、 痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である ”と。

 

感想。
楽しい!けど、こんなに難しかったっけ?!?!と思った。

先日、日本語を母語としない読書好きの知人にうっかり本書をすすめてしまったけれど、これは、本当は実に難しい。難しいというか、論語、禅、哲学、西洋文化、日本文化、江戸文化、、、様々な分野の教養が必要だ。わからなくても読み進めることはできるけれど、笑いのツボに気が付かずに読み進んでしまうことになるだろう。そして、結構長い。新潮文庫の本書は、454ページもある、加えて、注釈だけで58ページにわたる。日本人の私ですら、注釈を見ながらでないと読み進められなかった。でも、注釈を見ながら、ぷぷぷ、、、と笑い、ニマニマと笑い、、、時に声を出してぷっとふいてしまいながら読んだ。注釈を見ながら読んだので、文庫本だというのに、読むのにトータル8時間くらいかかっただろうか。。。電車の中で、にやにやしながら読書をする怪しい乗客だったと思う。

そして、吾輩は『吾輩は猫である』を通読したことはあったのであろうか???とも思った。はて?覚えていない。

 

話の内容は、いかにも、普通だ。日常の会話、日常のできごと。それを猫が語っている。苦沙弥先生は、教師をしている。漱石と同じ。そして、家に猫が迷い込んでいるのも、漱石と同じ。でも、『吾輩は猫である』に登場する主役の猫は、茶色の猫だ。かってに、黒猫だと思い込んでいたのだが、吾輩のことを描写する場面で、「茶色」と言っている。近所に住む猫が三毛猫や黒猫だった。猫には猫の世界があるのだ。猫同士の会話もおかしい。猫が難しい言葉を使って語るから、なおおかしいのだろう。

 

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたか頓と検討がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。」

と、この冒頭は、誰でも知っているだろう。

 

そして、猫は、語り続けるのだ。ちゃんと、苦沙弥先生の家に飼われることになったわけではないのに、いついている猫。名前はない。漱石は、どんな猫にも名前をつけなかったらしい。苦沙弥先生のことを「主人」と呼び、先生一家のことや、主人の元を訪れる書生たち、近所の商家の人のうわさ、学校の生徒が野球をする様子を語る猫。

子規は既に亡くなってしまった後だが、子規を彷彿させる話が書生たちと交わされたり、漱石と子規の学友だった故米山についても、天然居士として登場したり。
苦沙弥先生と書生たちとの会話が、何気ない普段の話しをしながら、風刺していて楽しい。

 

本書は、漱石が世の中に対して言いたかった様々な愚痴や意見を、猫や苦沙弥先生、書生に語らせた物語なのだろう。まぁ、小説というのはそういうものかもしれないけれど、苦沙弥先生が漱石と重なるので、よけいに漱石のキャラが苦沙弥先生のキャラそのもの、のような気がしてくる。胃腸不良をかかえて不機嫌になったりするのは、漱石そのものみたい。

 

「天然居士」もそうだが、「オタンチン・パレオロガス!」、「ダムダム弾」などなど、一般名詞であるかのように、他の文学などで使われることがある言葉だけれど、はたして一般用語ではない。多分「ダムダム弾」などは漱石の造語だろう。

 

ダムダム弾」は、野球のボールのこと。学生が校庭で野球をしていて、苦沙弥先生の家にボールが入ってしまうのだ。それに怒る苦沙弥先生の様子を語る猫、野球という得体のしれないゲームの描写がおかしい。生前の子規が、野球に夢中だったことを思い出しながら描いたのだろうか。ちょっと、ちゃかして、馬鹿にしている・・・。

くだらないながら、笑わずにはいられない場面がたくさんある。苦沙弥先生が鼻毛を抜いて原稿紙の上に並べている場面。そして、その中に一本真白なのがあるのを見つけて、「一寸見ろ、鼻毛の白髪だ。」といって口論をしている最中だった妻に言う。このすっとぼけ感。笑わずにはいられない。かつ、どこの家庭でも、、、とはいわないが、ありそうなどうでもいい会話がおかしい。

 

どんな些細なことも、大仰に描写しているから、滑稽なのだ。また、会話の中でも、大仰に『碧巌録』や『論語』のなかの言葉をもじってみたり、西洋の哲学者の言葉を引用してみたり。

 

「オタンチン・パレロガス!」、「ダムダム弾」のようなオノマトペもおかしいが、真面目な会話で、「スッポコポンノポン」とか。

 

「オタンチン・パレオロガス!」は、主人と奥さんの痴話ケンカで飛び出す。
「それだから、貴様はオタンチン・パレオロガスだというんだ」
「なんですって」
「オタンチン、パレオロガスだよ」

注釈によれば、
「間抜」を意味する俗語オタンチンを東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンチン・パレオロガスにかけた洒落
とでていた。。。
難しい・・・。


猫同士の追いかけっこでは、「なるほど天地玄黄(てんちげんこう)を三寸裏に、、、、」と『仮名千字文』がでてきたり。どこの猫が『仮名千字文』を知っているのか。

猫は、主人のもとへ遊びに来る書生の一人、寒月君(寺田寅彦がモデル)のために、よその家に忍び込んで偵察したり。それを
「吾輩が金田邸へ行くのは、招待こそ受けないが、決してカツオの切り身をちょろまかしたり、眼鼻が顔の中心に痙攣的に密着している狆(ちん)君 などと密談するためではない。 何探偵?  以ての他のことである。およそ世の中に何が賤しい稼業だと言って、探偵と高利貸しほど下等な職はないと思っている。 成程寒月君のために猫にあるまじきほどの義侠心を起こして、ひとたびは金田家の動静をよそながら窺ったことはあるが、 それは只の一遍で、その後は決して猫の良心に恥ずるような陋劣な振る舞いを致したことはない。
と、まぁ、大仰なのだ。それが、おかしい。

 

 苦沙弥先生の家に、泥棒が入るのだが、先生も奥さんも、子供達もがーがーと寝ているばかりで、一向に泥棒には気が付かない。そして、猫だけがそれを知っている。そして泥棒の様子を形容する。それもまた、おかしい。泥棒が、そこらの帯やら何やらを着物の下に隠す姿を、
「そこから子供のちゃんちゃんを二枚、主人のめり安の股引のなかへ押し込むと、股のあたりが丸く膨れて青大将が蛙を飲んだような、あるいは、青大将の臨月というほうが形容し得るかも知れん。」


 苦沙弥先生が、寒月君に男と女について語る場面では、
「僕の子供の自分などは寒月君の様に意中の人と合奏をしたり、霊の交換をやって朦朧体で出会ってみたりすることは到底できなかった。」という。

ここででて来る「朦朧体」は、注釈によれば、
「当時の批評用語で意味の曖昧な文体、輪郭の不明瞭な絵画をさして用いられた」とある。
なんだか、はっきりさせないままに、男女が交際すること皮肉っている。

あ、朦朧体ね!日本画だけでなく、文学にも使ったんだ。

megureca.hatenablog.com

 

で、それに対して寒月君は、
「御気の毒様で」と、頭をさげる。ほんとに、気の毒とおもっているんだかどうだか。自分には関係ないモーンというようにも読めて、笑える。かつ、こういう会話に奥さんが横から口を突っ込んだり。

 

猫が、蝉をとることを「蝉取り運動」と称して、蝉についてあれこれ独り言をいう場面では、「一寸諸君に話しておくが、苟(いやしく)も蝉と名のつく以上、地面の上に転がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ず蟻がついている。吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を捕らえるのである。これも序だから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。」

なんのこっちゃ!
つくつくぼーし、だろう。
つくつくおしい!?
おしいつくつく。
いや、つくつくぼーし、だ。。。

 

木に登った猫が思案するのは、
「落ちるのと降りるのでは大変な違いのようだがその実思ったほどの事ではない。落ちるのを遅くすると降りるるので、降りるのを早くすると落ちることになる。」
これは、猫が自ら導いた真理らしいが、時には、ライプニッツの定義にならったり、ニュートンの運動律第一にならったり、、、。

時に、猫の呟きだが、主人の呟きだか、わからなくなる。ま、どちらにしても、漱石のつぶやきなのだろう。

 

「僕の国では蒲鉾が板に乗って泳いでいますのって」ってセリフ、本書の中でも書生たちとの会話ででてくるのだけれど、これが初出?それとも、落語だっけ?

 

書生のひとり、独仙君がのべる格言が、なかなかいいとこついてる。
「借りた金を返すことを考えるのもないものは幸福であるが如く、 死ぬことを苦にせんものは幸福さ」 

 

う~~ん。実に深い文学である。

肩肘ついて、縁側に寝っ転がって猫を眺めながらおもった徒然を物語にした、って感じかな。

 

あ~面白い。

そうそう、『宝島』の著者スチーブンソンが描写ででてくる。

「スチーヴンソンは、腹這に寝て小説を書いたそうだから、、、、」と

注釈によれは、漱石は、スチーヴンソンを高く評価していたそうだ。やっぱり、『宝島』読まなくっちゃ。

 

読書の連鎖は続いていく・・・。