『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』 by  エーリッヒシ・ショイルマン

パパラギ

はじめて文明を見た 南海の酋長 ツイアビの演説集
エーリッヒシ・ショイルマン
岡崎照男 訳
SB文庫
 2009年2月28日 初版発行 
2012年9月15日 第4刷発行
*本書は、立風書房より1981年4月に単行本として刊行された作品を編集、文庫化したものです。

 

村上春樹の『 壁とその不確かな壁』の物語の中で、図書館に通い続けていた少年が読んでいて「私」に話した本。

megureca.hatenablog.com

「ヤシの木より高く登った者はいない」って。どんな本だか気になったので、図書館で借りてみた。

 

裏の説明によれば、
現代社会に警笛を鳴らす歴史的名著。南海の酋長ツイアビは、はじめてパパラギ(=白人)たちの「文明社会」に触れた驚きを、 島の人々に語って聞かせる。お金、時間、都会、機会、情報、 物欲・・・・・。 その内容は深い洞察と知恵、素朴にして 痛烈な啓示に満ちた文明批評として、今なお輝きを失っていない。 豊かさを追い求めてモノと時間を切り刻み、無辺の闇にたどり着いてしまった私たちが、今こそ真摯に受け止めるべき メッセージ。”
とある。

本書は、小説ではない。エーリッヒシ・ショイルマンは、作者ではなく、「編集者」なのだ。

 

”私がはじめてツイアビにあったのは、彼がヨーロッパの世界から遠く離れたサモア諸島のひとつ、ウポル島で平和に暮らしていた頃である。彼は、島のティアベアという村の一番偉い酋長であった。私は、彼から、穏やかで親切そうな大男という感じを受けた。彼は背が2メートル以上もあって、非常にがっしりとした体つきをしているにもかかわらず、外見とは正反対に、女性のように細くて柔らかい声を響かせていた。 濃い まゆに覆われた 黒い瞳は、 どこか人を寄せ付けない 硬いものを持っていた。 しかし 人が話しかけるとその目はみるみる 燃え上がり、心温まる 明るい光を放つのであった。”

 

ツイアビは、島を訪れた白人宣教師らをみて、ヨーロッパに行ってみたいと思った。そして、自分が観てきたこと、体験した事を、村のみんなに話して聞かせた演説が、本書の内容。

 

訳者の岡崎照男さんは、アルプスの山小屋で悪天候のために足止めされていた時、その山小屋で『パパラギ』に出会ったそうだ。友人の一人アンナリースが、面白そうに読んでいる本に、岡崎さんはじめ、仲間が次々と夢中になった。それは、ドイツ語でも英語でもフランス語でもイタリア語でもない、、。アンナリースは、みんなにわかるように朗読を始めた。その時の感動を、今、こうして日本語でつたえる、、、と。

 

パパラギとは、サモア語で、空を打ち破ってきた人、という意味だそうだ。そして、それは、「白人」を示す。外人ではない。ヨーロッパからやってきた宣教師たちのことだった。そして、パパラギが住むヨーロッパに行ってツイアビが見たものは、生きることの歓びを忘れてしまった白人世界だった、、、と、、、。あのようになってはいけない、という教訓の演説。

 

もくじ
序文 こちらの世界とあちらの世界 柏村勲
編集者まえがき エーリッヒシ・ショイルマン

パパラギの体をおおう腰布とむしろについて
石の箱、石の割れ、目石の島、そしてその中に何があるかについて
丸い金属と重たい 紙について
たくさんのものがパパラギ を貧しくしている
パパラギ にはひまがない
パパラギ が神様を貧しくした
大いなる心は機械よりも強い
パパラギの職業について  そしてそのため 彼らがいかに混乱しているか
まやかしの暮らしのある場所について  束になった紙について
考えるという重い病気
パパラギ は私たちを 彼らと同じ闇の中に引きずり込もうとしている

この本について ベルト―ルト・ディール
訳者あとがき 岡崎照男
解説 浅井慎平


感想。
なんだこれは!!面白い!!
今、ツイアビの演説を、全世界に放送したい。
すごい、Youtuberになれそうだ。
ミリオンのファンがつくに違いない・・・。

そして、ちょっと、読んだことがあるような気がしなくもない。でも、ところどころ、、なんか聞いたことがあるような気がする。でも、、、なるほど、「歴史的名著」だったわけだ。心に響く。きっと、なにかの文章で、部分的に引用されていたりするのだろう。『街とその不確かな壁』と同じように。

 

編集者のエーリッヒシ・ショイルマン は第一次世界大戦前に成人し、第二次世界大戦後に亡くなっていて、パパラギ」の初版は、1920年とのこと。

 

ツイアビがみてきたヨーローッパには、彼が必要とするものは何一つなかった。コンクリートで固めた道、家、常に時間に追われる生活、新聞やニュースで悲惨な情報をインプットすること、職業だと言って同じことを繰り返す生活、、、。

 

読んでいて、いやいや、ほんと、、、そうだよね、、、なんで、現代人はこんなに生き急いで、自ら自分をくるしめているんだろうね、、、って。

これは、1920年初版というのだから、それから100年!!!100年だよ!1世紀たっても、なにも変わっていない。。。ますます、時間生産性、コストパフォーマンス、、、物欲、、、。

あぁ、、、本当に、、、。
今現在のウポル島は、どんな人がくらしているのだろうか。
やはり、スマホを片手に暮らす人々なのだろうか。。。
文明とはなんなのか。
文化的生活ってなに?

って、色々なことを考えさせられる1冊だった。

 

気になるところ盛りだくさん!なんだけど、ちょっとだけ、覚書。

 

・洋服や靴で窮屈に縛られているパパラギをみて。
”だが、私たちは喜ぼう。私たちの肉が太陽と共に語ることができ、腰布にもしばられず、足皮にもわずらわされない私たちの足が、野の馬のようにかけられることを。 そして頭のおおいいが落ちないよう ハラハラしなくても良いことを。”

 

・お金を崇拝するパパラギをみて。
” お金を欲しがらない人は ファレア(馬鹿)といって笑われる。「富ーーお金をたくさん持っていることーーは、幸福のもと」とパパラギは言う。そしてまた「たくさん 富を持つ国 それは最も幸せな国である」とも。(中略)
 お金が アイツウ(悪魔)である。 その仕業は全て悪であり、 悪を生む。 お金に触ったものは、 その魔力のとりことなり、 それを欲しがるものは、 生きている限り、 その力も全ての喜びも お金のために 捧げねばならない。もてなしをしたからといって何かを要求したり、何かをしてやったからといって アローファ(贈り物・交換品)を欲しがるような人間を、私たちは軽蔑するーーという尊い習わしを私たちは大切にしよう。”

 

・物欲に溺れているパパラギをみて
熟したヤシは、自然に葉を落とし実を落とす。パパラギは、葉も実も落とすまいとする ヤシの木のように生きている。
「 これはおれのものだ! 取っちゃいけない! 食べちゃいけない!」  どうすればヤシは新しい実を結ぶか。ヤシはパパラギ よりずっとかしこい。”

 

・腕時計を片時も離さず、時間に追われているパパラギをみて
” ヨーロッパの街では時間の一区切りが回ってくると、恐ろしい うなり声や 叫びが起こる。
 時間のこの叫びが響き渡ると、 パパラギ は嘆く。「ああ、何ということだ。もう1時間が過ぎてしまった」。そしてたいていは、 大きな悩みでもあるかのように悲しそうな顔をする。ちょうどその時また新しい1時間が始まってるというのに。
 これは重い病気だと考えるしか、私には理解のしようがなかった。”
パパラギはやりたいという欲望を持った時にも、「楽しんでなどいられない。おれにはひまがないのだ」という考えにとり憑かれる。”

 

”職業を持つとは、 いつでもひとつのことを、 同じように繰り返すという意味である

 

・「精神」という思考に執着するパパラギをみて。
”・・・知るということの練習を、パパラギは日の出から日の入りまで一日中繰り返す。彼らの精神は、いわば弾丸をこめた銃のようにいつでも撃てるし、投げられた釣針のようにいつでも魚をひっかけられる。ところが、私たちたくさんの島々の民族は、およそ知ることの練習などしたことがない。だから、 パパラギ は私たちのことをかわいそうだという。私たちの精神は貧しく、荒野の獣のように愚かだというのである。
  確かに私たちは知ることの練習、パパラギの言葉を借りれば考える(デンケン)をたいしてしているわけではない。 しかし あまり考えないのが馬鹿なのか、 それとも考えすぎる人間が馬鹿なのか、それは疑問である。”

”同じようにして、子どもたちの頭にも、詰めこめるだけの思想が詰め込まれる。 子供たちは毎日強制的に、決められた量の思想のむしろ(本や教科書などの紙)をかじらねばならない。 子供たちのうち、特に健康な子供だけは、こうした思想に反発する。 あるいは 網を通すように、 心の中で ふるい落としてしまう。 しかし、 大抵の子はたくさんの思想を頭の中に積みすぎてしまい、 もうどこにも 隙間 はなく、光さえもうさしてはこない。このことを「教育する」といい、 このような頭の混乱が続く 状態を「教養」と呼び、それが国中に行き渡っている。

考えることが重い病気であり、人の値打ちをますます低くしてしまうものであることを、 パパラには身をもって私たちに教えてくれた。

 

最後には、浅井慎平さんの解説もついている。
”『パパラギ』は、都市人間の机の上の一本の椰子だ。”って。

 

心に響く一冊。
でも、今の時代、あれもこれも、、、、ツイアビの言葉の様には生きられないよ、、、という無力感。

宣教師たちは、「光をもってくる」と信じているかもしれないが、ツイアビたちにとっては「闇の中に引き込もうとしている」に過ぎない。

価値観の押しつけこそは、人間の罪。

 

私も、時計に縛られている。どこまでも、欲張りで、あれもしたい、これもしたいってなっている。それでも、、、今、脱サラした後に本書を読んでいるから、ちょっと、余裕をもって読むことができている気がする。生産性、効率性、に追われるサラリーマン生活をしている間に本書を手にしても、そんなの100年前のくらしでしょ、、、って言っていたかもしれない。

 

本当に大事なことは何なのか。
それは、尽きることのない質問。 

 

考えすぎるのは病気かもしれない。

でも、現代において、自分の頭で考えることは、やっぱり大事だと思う。

そして、私は、思考することが楽しい。

机に座って思考するのだけではなく、身体を動かすからこそ、思考できる。

AIにできないこと、動くこと、考えること。

 

けど、、、パパラギの言葉を振り返って、我が身を振り返ってみるのも大事。

 

いやぁ、、、名著ですなぁ。。。。