『坂の上の雲 六』  by 司馬遼太郎

坂の上の雲 六
司馬遼太郎
文藝春秋
2004年6月15日 新装版第一刷発行
2010年7月20日 新装版第五刷発行
*本書は、昭和47(1972年)9月に刊行された『坂の上の雲六』の新装版です。


坂の上の雲 五』の続き。

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なんと、最終章だった。文庫本は8巻まであるらしいのだが、単行本は全6巻。とうとう、、、〈坂の上の雲 おわり〉の文字を目にしてしまった・・・。

 

第五巻では、陸での闘い、奉天会戦がメインだったけれど、最終章はとうとうバルチック艦隊と東郷艦隊。日本海海戦

 

目次
退却
東へ
艦影 
宮古島
敵艦見ゆ
抜錨
沖ノ島
運命の海
砲火指導
死闘
鬱陸島
ネボガトフ
雨の坂


好古が鉄道遮断に奮闘するなか、乃木軍が大潰乱をおこし、多数の死者を出していた。しかし、クロパトキンが、恐怖に駆られて日本軍の幻覚をみて、「退却せよ」と命じたために陸戦は日本が優位に転じた。

ロシア軍のクロパトキンの戦下手に助けられ、奉天会戦は一応は、日本軍の勝利となる。クロパトキンの退却命令をもって、司馬遼太郎は「日露戦争を通じての最大のなぞがこのときからはじまる」と書いている。

まぁ、日本が勝ったというなぞ、、、ということか。

 

乃木希典の作戦はつたなく、部下たちは不満をつのらせた。総司令部の幕僚のたれもがのちに乃木希典日露戦争の功績を一身にになうほどの象徴的存在になるとは 不覚にも思っていなかった、と。

奉天会戦で勝利はしたものの、総参謀長の児玉源太郎は、勝利に浮かれている場合ではないとわかっていた。そして、勝利に浮かれる日本を叱りつけに日本に密かに戻る。そもそも、日本は戦費のほとんどを公債という形で外国からの借金でまかなっていた。このばかばかしさは、国際情勢をしっている日本人には、たえられないほどのものだった。

アメリカ留学からもどっていたかつての外相小村寿太郎は、
「この国家に金や兵が備わり、その独立が十分にできていたら、 戦争などするには及びません。 そんなものがないから、気が狂ったようにこんな戦争をしているのです。」といった。

奉天会戦の日本の勝利は、実のところ英国やアメリカにとって、そんなに喜ばしいことではなかった。ロシアを牽制できればよくて、日本に調子づいてもらってもこまる、、、というのが、本音といったところだったのだろう。でも、アメリカの世論とは別に、ルーズベルトは、ずっと、日本に対しては公平な立場で接していた。


さて、とうとう、バルチック艦隊の接近である。

 

はるばる航海し、とうとうベトナム沖から日本海へやってくるバルチック艦隊ロジェストウェンスキー提督。そこにあとから第三戦艦戦隊としてネボガトフ少将の船が追いついてくる。しかし、 ロジェストウェンスキーは、ようやくやってきた ネボラトフの船に、作戦を共有することもなく、ただ「煙突を黄色くぬっておけ」というのだった。この、バルチック艦隊の船の煙突を黄色くぬっていた理由もよくわからない。でも、これが日本軍にとっては敵艦をみわけるのに大いに役立つ。ついでに、 ロジストウェンスキーは、第二戦艦戦隊の司令官が病没したにもかかわらず、それを秘匿して後任をきめないまま、船をすすめた。

 

”指揮者のいない軍隊というものをおもいついた史上唯一の人物が ロジェストウェンスキーであった。”

 

ロジストウェンスキーも、クロパトキンも、、、やはり、当時のロシアの軍というのは謎の指導者がおおい、、、、。

 

そして、バルチック艦隊がどこから現れるかが最重要情報となる。対馬海峡側からくるのか、太平洋をまわるのか、、、、。東郷は、鎮海湾に陣取ると、不動の姿勢をとった。じたばたしないのが東郷。東郷は、対馬海峡からくる、とよんでいた。東郷のこの判断が、世界の戦史に不動の地位をしめるにいたるはじまりだった

 

最初に、バルチック艦隊の艦影をみた日本人は、沖縄にすむ奥浜牛という29歳の青年だった。船に雑貨をつんで宮古島へ売りに行く途中、バルチック艦隊を目にする。ロシア人は、奥を日本人だと思わず、とくに攻撃されることもなかった。そして、奥は宮古島につくとすぐに島庁に報告する。そこから、これは一大事と東京にしらせなくては!となるのだが、どこにどうして連絡すればいいのやら、、、。


石垣島まで行くと、電信局がある。そこから発信しよう!ということになったが、当時の宮古島から石垣島まで170Kmをいくというのは命がけだった。「だれか行ってくれないか?」と人をさがすが、そんな命がけの旅、、、、。と、人探しに半日以上かけていた時、たまたま若い漁夫が現れる。そして、その垣花善(かきはなぜん)という青年と弟、従兄ら5人は15時間かけて、命がけで石垣島の電信局へいき、本営にバルチック艦隊の居場所を知らせた。

 

そして、興味深いことに、このことは、戦争の後もずっと秘密にされていたのだそうだ。五人は、家族にすら秘密を貫いた・・・。そういう、、、、時代だった。国家の一大事に携わった名誉は、ぺらぺら話すことではない、、ということだったのだろう。もちろん、極秘任務といわれての石垣島いきであったのだけれど。戦後までその秘密を守っていたとは。。。

 

そして、東郷艦隊は対馬海峡から日本海へ向かうバルチック艦隊と対戦。

 

真之のうった電信「・・・撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。実際には、霧もあったらしいが、浪高しが、日本軍には有利に働いた。

戦況は、、、、司馬さんは、どうやって、これだけ生々しい状況を描いたのだろう。。と思うのだけれど、、、そう、日本軍もたくさんの死傷者がでたのだ・・・。たった、2日間の海戦。でも、、、迫真の実況中継、、って感じ。

 

戦況の詳細は省略するけれど、東郷は指令室にこもることもなく、双眼鏡を首から下げ、船上で爆撃をうけようが不動の仁王立ちだったこと。バルチック艦隊を目にしたとき、「取舵一杯!」と、常識では考えられない左に旋回する作戦に出たこと。真之は、望遠鏡も使わずにひたすら肉眼で海をにらみつづけ、かわらずそら豆をポリポリとかじり続けたこと。。。すごい・・・。

真之のそのよくしまった筋肉質の体は無駄が無さすぎるのがむしろ難点と言えるほどに均斉がとれていた。

ただ、真之は、この戦争が終われば二度と海軍には戻らないと思っていた。本気で僧になりたいと思っていた。

とにかく、、、2日間の激戦で、日本は勝ったのだ。。。ロシアの船を沈め、、、勝った。

 

ロジェストウェンスキーは、頭蓋骨陥没の重症を負うものの、早々に旗艦スワロフから離脱して逃げ出していた。ところが、日本船にみつかり、佐世保まで曳航されることとなる。そして、佐世保海軍病院に入院する。

 

三笠は、多くの砲撃をうけたけれど、無事に佐世保へもどる。

 

日本海海戦における日本軍の勝利は、砲弾の正確性だけでなく、どのように砲術するか、その指揮命令がすぐれていたからとの分析が綴られている。それを成し遂げたのは、もちろん東郷平八郎だけれど、それにきちんと従った部下、兵士、、、全員の貢献があったということなのだろう。

くわえて、「浪高し」が、助けになっただろう、、と。

 

この戦況の記録は、正式な記録よりは、スワロフに乗っていた技師ポリトゥウスキーが妻に送り続けた手紙によるところが大きい。そして、この若い技師は旗艦スワロフと共に海に沈んだと思われるが、その手紙によって、痛烈に提督を告発することとなった。妻が、戦後に手紙を出版したのだ。。

 

言論の自由、、、、。

 

提督が逃げ出して佐世保に曳航されている間に、日本軍に降伏の意思をしめしたのは、第三戦艦戦隊のネボガトフだった。真之が、直接船に行って、交渉した。ロシアの船に乗り込むと、真之が目にしたのはおびただしいロシア兵の遺体だった。同行した山本の報告によれば、

”真之がそれら屍体のむれのそばへどんどん歩いて行って、ひざまずいて黙祷した”

 

いくら白旗をあげた相手とは言え、敵船に乗り込んでいくのだから、兵のだれかが真之らに銃口をむけるかもしれない。そんな状況の中でも、真之は自然とその死を悼んだ。。。僧になりたい。。。ずっと、そう思いながら闘っていたのかもしれない。

司馬さんは、この日本海海戦における日本の勝利は、英国の海軍研究家によって「世界史を変えた」といわれた、と書いている。白人優勢の時代が終わった、、と、英国人が書いたのだった。そして、この海戦がアジア人に自信をあたえたことは事実であった、と。

そうだったのだろうか。。。
まあ、そういう側面もあったのだろう・・・。

 

そして、バルチック艦隊との戦いが終わった後、好古、真之の母、貞は病没する。好古は戦場でその知らせを聞き、真之は佐世保で聞いた。真之は、佐世保の旅館の一室で終夜号泣した、、、。

 

また、無事に佐世保にもどった三笠は、凱旋の命令があるまで佐世保港内にとどまっていたが、なんと自爆して海底に沈没してしまうという事件が起こる。火薬の変質による自然爆発、、というみかたが大方だったらしい。

東郷平八郎が「連合艦隊解散ノ辞」を読み上げ、連合艦隊は解散する。

「勝って兜の緒を締めよ」


いやぁ、、、読み応えあったなぁ。

読了。 

 

司馬さんの歴史観であるのはわかっているけれど、やはり、歴史を垣間見た様な気になる。日露戦争に勝っていなければ、、、、太平洋戦争はなかったかもしれない、、、、原爆もなかったかもしれない、、、、。借金をしてまで戦争をしたというのは、、、どういうことなのだろう。。。

 

歴史の謎はおおい。でも、起きたことは事実だ。そして、語られるのは生きて帰った者の言葉、、、だからこそ、ポリトゥウスキーの妻への手紙は貴重。よく、検閲で破棄されなかったものだ。

 

そして、いまも続くロシアのウクライナ侵攻。。。。言論弾圧。。。。

人は歴史から何を学べるのだろうか。。。