マンガ日本の歴史 15
源平の内乱と鎌倉幕府の誕生
石ノ森章太郎
中央公論社
1991年 1月20日 初版発行
1994年8月20日 3版発行
『マンガ日本の歴史 14 平氏政権と後白河院政』の続き。平氏と源氏の戦いから鎌倉幕府の誕生まで。
目次
序章 壇ノ浦の合戦 平家滅ぶ
第一章 源平の内覧
第二章 義経追討
第三章 鎌倉幕府の成立
第15巻では、 後白河法皇と平清盛との確執 から始まった源氏と平氏との源平合戦の様子、そして、壇ノ浦の合戦での平家敗北と、平家滅亡。そして、頼朝による鎌倉幕府へ。。。
このあたりは、学校の授業でもよくでてくるところなので、かなり記憶にある。
歴史の流れとしては、第一章 源平の内乱から。
1179年、 後白河法皇に対して 平清盛がクーデターを起こす。が、 後白河法皇は戦いを好むわけではないので、とりあえずもう政治に口出しはしないよ、、、と引っ込む。そして、幽閉されてしまう。
後白河法皇は親王宣下もできずに幽閉されてしまったために、以仁王(もちひとおう)は、中途半端な立場に。そこで天武天皇の壬申の乱の話を持ち出して、平氏をやっつけちゃえ!と以仁王を焚きつけたのが、 源頼政。 源氏はみんな平氏に反感を持っていたので、以仁王を味方する。源氏を味方に蜂起した以仁王だったが、あえなく敗北。
調子に乗った清盛は、 宋の貿易に便利な福原(神戸)へ遷都する。だが、福原遷都は多くの人に評判が悪く、5か月で京都に戻る。
そして、蜂起の敗北によって以仁王と頼政は死んでしまうが、余波が全国に広がっていく。伊豆では、文覚上人に後押しされて、源頼朝が姑の北条時政(政子の父)
と立ち上がり、平氏の一門で伊豆守の目代(代官)山木兼隆を殺害。 頼朝による源氏再興の旗が揚げられた。
戦いは一進一退。
大庭景親(おおばかげちか)の平氏軍に箱根で大敗した頼朝は、一時安房へ敗走したが、源氏軍は 頼朝を見捨てることはなく、方々から兵が集まってきた。頼朝は無事に鎌倉に戻る。
そのころ、信濃国木曽では、木曽義仲が頼朝の東国制圧を支援して挙兵。甲斐では、武田信義も謀叛を起す。
頼朝追討に向かった平家軍は、富士川で甲斐武田軍と対峙。有名な、水鳥の音で驚いた平氏軍敗走は、この時におきた。
富士川の源氏拠点に、奥州からはるばる義経がやってくる。頼朝、義経、はじめての兄弟対面。そして、二人は兄弟力をあわせて平氏を破ることを誓う。
このころは、まだ、仲の良かった 兄弟。後に弟・義経が力を持つことを恐れて、 頼朝は義経を冷遇し、死に追いやる運命にある。
富士川の大敗北に怒った清盛は、仕返しに平重衡に興福寺、東大寺を焼き払う事を命じる。南都焼き討ち。平清盛のせいで、京都は灰燼となってしまった。そのころには、時代の波へすでに源氏へ。
1181年、平氏四面楚歌の中、清盛は64歳で亡くなる。
木曽義仲が北陸から西へ攻めあがり、平氏を倒していく。が調子に乗った義仲は、乱暴狼藉を重ねていると都人の不評を買い、後白河法皇も義仲を抑えるために頼朝に上洛を命じるほどとなる。 頼朝としては、今はまだ東国をがっちり固めておきたいので、上洛はしたくなかった。そこで、 後白河法皇の依頼を断って、しばし、東国に専念いたします、、、と。
そして、しばしの後、頼朝は義仲を成敗し、平氏を打つために西に向かう。
義仲は、あっけなく近江で野の露と消えた。田舎武将の哀れな最後。
さらに西へ逃げる平氏と西へ追う源氏。
義経の有名な「鵯越え・坂落し」の急襲で、多く平氏の武将が死亡。重衡は生け捕り、宗盛は安徳天皇を護って屋島へ落ち延びた。
そして、壇ノ浦の合戦。義経の軍に追い詰められた平氏。建礼門院(安徳天皇の母)、二位尼に抱かれた安徳天皇は宝剣とともに海に沈んだ。平氏滅亡。
義経大活躍だったのだが、頼朝は、義経にこれ以上勢いづいてもらいたくないので、たいした褒美をやらなかった。それどころか、腰越で頼朝との面会をまっていた義経暗殺を企てる。それを予期していた義経はうまく逃げ、生きのびる。
義経と頼朝の対立は避けられないものとなる。義経は、北陸から奥州へと逃げていく。
歌舞伎の十八番「弁慶勧進帳」の名場面、「安宅の関」は、出羽羽黒山の山伏に変装した義経、弁慶のお話は、この時のこと。
一方、そのころ頼朝は鎌倉八幡宮で、東大寺復興のための行脚中の西行にあい、秀衡から貢金へ口添えをすることを頼まれる。藤原秀衡は、いまとなっては頼朝の敵だけれど、西行にこころを許した頼朝は、力添えを約束する。
結局、かつて自分をかくまってくれた奥州藤原のもとに逃れた義経だったけれど、藤原泰衡(秀衡の息子)の裏切りで、自害して果てることとなる。
頼朝は、義経が死んでもなお、東国制覇のために奥州を攻めたのだった。そして、頼朝は、鎌倉幕府を確立することとなる。
1190年、頼朝と 後白河法皇、初の対面。頼朝は、法皇から右近衛大将軍という肩書を貰う。そして鎌倉で頼朝個人が発行してきた証文は、役所機構を通じた公式な文書に切り替えた。
1192年、大動乱の半世紀を朝廷のトップとして君臨してきた後白河法皇が66歳で病没。その後、頼朝は征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府の基盤が固められる。
鎌倉殿の下に、
政所(公文所):政治事務を取り扱い、その文書を作成する。長官は大江広元。
問注所: 裁判事務。 執事は三善康信。
侍所: 御家人の統括。 別当・和田義盛、所司・梶原景時。
公事奉行人
そして、京都に京都守護を置き、諸国に守護人その下に地頭を置き、基盤を固めた。
1195年、奈良・東大寺の再建供養が行われ、頼朝は政子とともに出席。平重衡による南都焼き討ちから15年、勧進聖重源、西行らの努力もあって、ようやく再建がかなった。
1199年、頼朝は53歳で、この世を去った。
16巻に続く。。。