『北里柴三郎  近代日本医学の父・感染症対策の先駆者』  森孝之 監修

学習まんが人物館 北里柴三郎 
近代日本医学の父・感染症対策の先駆者
森孝之(医学博士) 監修
夏緑 シナリオ
やまざきまこと まんが
小学館

2021年12月14日 初版第一刷発行

 

新1000円札の顔、北里柴三郎について知りたくて、図書館で借りてみた。学習まんが人物館シリーズは、全国通訳案内士の受験勉強でもお世話になった。読みやすいシリーズ。だって、まんがだしね。

 

北里柴三郎は、このたび新日本銀行券の1000円の顔!となったわけで、渋沢栄一と同様に、とある勉強会で取り上げてみよう、、ということになっている。そのいつかの日のために、予習。


表紙をめくると、世界の主な感染症がまとめられている。
【ウィルス】
 天然痘:1980年根絶
 新型コロナウィルス感染症(COVID-19)
 エボラ出血熱
 エイズ 後天性免疫不全症候群
 インフルエンザ
【細菌】 
 コレラ
 結核
 ペスト(黒死病

 

そして、柴三郎や関係者の写真。中表紙の柴三郎の写真は、新1000円札と同じと思われるが、こころなしか、、ふっくら・・・・?いかにも、意思が強そうな、、、お顔立ち。


もくじ
第1章 武士の夢から医師の夢へ
第2章 世界最先端の細菌学
第3章 長崎を救え! コレラ菌の検出
第4章 医学の国・ドイツへ  あこがれのコッホ研究室
第5章 ノーベル賞級の大発明  破傷風の血清療法
第6章 恐怖の黒死病(ベスト) 致死率90%の戦い
第7章 受け継がれる柴三郎の意思

 

主な登場人物
北里柴三郎:細菌学者

マンスフェイルト:幕末の日本にやってきたオランダ人 軍医。 柴三郎が医学を志すきっかけを作った。

長与専斎: 柴三郎が学んだ 東京医学校の校長。 日本に「公衆衛生」の考えを広めた人物。

フリードリヒ・レフラー :コッホの門下生で細菌学者。 尾形の師匠であり、柴三郎のことも指導する。

 緒方正規(おがたまさのり): 柴三郎の 熊本時代からの学友。 彼の影響もあって柴三郎は ドイツ留学を目指す。

ローベルト・コッホ: 当時最先端 だった細菌学の第一人者。 ドイツで柴三郎を指導した恩師。

福澤諭吉慶應義塾などを設立した教育者。柴三郎の伝染病研究所設立に協力。

 

と、ここで気が付くのが、長与専斎、福澤諭吉というキーパーソンは、後藤新平の本でもでてきた人物ということ。後藤新平も、本書の中ででてくる。やっぱり、キーパーソンだ。

 

北里柴三郎は、1853年1月29日(嘉永5年12月20日肥後国阿蘇郡(熊本県)で、庄屋の家に生まれる。裕福では無いものの、幸せな生活をおくっていたが、コロナで弟、妹を亡くす。

当時は、コロナが細菌による感染症だということも分かっておらず、「ころり」という恐ろしい妖怪が原因と信じられていた。当然、当時の漢方医が治せるわけはなく、1822年には日本でも大流行となって多くの人が亡くなった。

だから、柴三郎は、強い武士になって「ころり」をやっつける!と誓った。

 

が、1968年、大政奉還。武士は無職に・・・・・。14歳の時のこと。

母は、柴三郎を厳しく育て、親戚の家を転々として儒学などを学ばせた。親戚の家で、意地になって雑巾がけをやり続けた廊下は、ピカピカに光る程に磨かれた。

 

1871年(18歳)家の近くの古城医学校(現・熊本大学医学部)に入学。マンスフェルトに出会い、医学に興味を持つ。毎晩マンスフェルトの家に通い、オランダ語もめきめき上達。学友が緒方正規(柴三郎より先にドイツ留学)。初めて顕微鏡で組織標本を観察し、身体の不思議、医学の道に進むことを決心。

 

1874年、21歳、マンスフェルトのすすめで東京医学校(現・東京大学医学部)に進学。当時の学校長が長与専斎。柴三郎は、「同盟社」という学生団体をつくり医学以外にも様々な議論を交わし、演説会なども開催。

1878年、演説会で「医道論」を発表。
 ”病気を治すだけでなく、なくしたい。そのためには、病気を未然に防ぐことが大事だ!”と、予防医学の重要性を演説。

 

1883年、30歳、卒業。予防医学を極めるために、病院長ではなく内務省衛生局への就職を選択。同じ年、乕(とら:のちの日本銀行総裁 松尾臣善(まつおしげよし)の二女)と結婚。

内務省衛生局・東京試験場で、留学先のドイツから最新の実験機器を持ち帰った緒方と再会。緒方は、細菌学の権威・コッホ研で学んでいた。

 

そのころ長崎で死者が続発。コロナが疑われていた。柴三郎は、対策のために長崎に派遣される。柴三郎は、患者の糞便の中、井戸水などにコロナ菌を確認し、感染予防対策を実施。
生水を飲まない、便所はよく掃除するなど、「衛生意識」を高めることをめざした。

 

1886年、念願かなって、ドイツへ留学。とうとう、あこがれのローベルト・コッホに会う。指導者は、コッホの下ではたらくレフラー。直接の指導ではなかったが、レフラーのよき指導に導かれ、柴三郎は研究に没頭。研究所では、パスツールが開発した液体培地に寒天を加えて固めた「固形平板培地」で細菌の分離、生化学研究が行われた。

 

ちなみに、固形平板培地は、丸いペトリ皿、シャーレと呼ばれる蓋つき器でつくる。私自身研究所時代には、どれほど多量のシャーレを使っていたことか・・・・。数千枚、、、いや、、もっと多いと思う。。。それくらい、今では当たり前のように細菌の研究では使われている。

 

柴三郎は、細菌がどのような環境下で増殖しやすいかなどのテーマを着々とこなす。その条件設定から自分で考えて実験を実行。マンガの中では、わずか20秒でシャーレに細菌をぬっている、、、といって、驚異的な速さ!とコッホにおどろかれているのだが、、、、。
その作業を知っている私からすれば、20秒で一枚なんて、、、まぁ、あ、、確かに速いけど、、、もっと脅威なのは、それを10時間もぶっとうしでやっていた、、、という話。

クリーンベンチ(古くは、無菌箱ともいう)の前で、10時間作業をしたら、、、たぶん、腱鞘炎になる・・・。

 

子どもの頃、サムライを目指して剣術や柔道の鍛錬をしていたから、、という話になっているが、おいおい、、、そんなもんじゃないよ、。。。無菌操作というのは。。。。
と、ちょっと、突っ込みたくなる。

要するに、異常なまでの実験量だったのは、事実らしい。

 

そして、コッホ研にいる間に、嫌気性細菌である破傷風菌の単離に成功。すごいのは、嫌気性かもしれない、ときがついたこと。空気があると増殖できないので、通常のシャーレでは破傷風菌は単離できなかったのだ。それを、空気を置換して嫌気状態にすることで、単離に成功。この時、水素をつかって嫌気環境をつくったので、何度も実験室で爆発をおこした、、、。よく、死ななかったものだ。

そして、破傷風菌の純粋培養が可能になり、血清療法を開発。現在の予防接種につながる。

ちなみに、私のいた会社では、2000年代、東南アジアや南米に長期出張する際は、破傷風の予防接種が義務付けられていた。

 

1890年、ジフテリア菌の血清療法、論文発表。これは、コッホの弟子のベーリングと共同だった。(ベーリングが手柄を横取りしたとも言われている)

ベーリングは、後、1901年、ジフテリア破傷風の免疫療法の研究で、ノーベル生理学・医学賞を受賞。なぜか、柴三郎の名前はなし・・・。

また、1905年、コッホが結核の研究でノーベル賞。1908年、エールリッヒが免疫学の研究でノーベル賞

なぜか、、ノーベル賞には選ばれない北里柴三郎。。。

 

1892年、6年間の留学を終えて日本に帰国。ドイツで学んだことを日本で活かそうと「伝染病研究所」をつくろうとした柴三郎だったが、時代は、日清清掃開戦の足音が、、、。
長与の後任の衛生局長となっていた後藤新平も、柴三郎の伝染病研究所設立に賛同してくれたものの、政府は国防と軍事に予算をかけるので、研究所設立のお金のめどが立たない。

お金でこまっていた柴三郎のところへ、長与が訪ねてきて、福沢諭吉を訪ねてみろと紹介してくれる。

柴三郎は、福沢邸を訪ねると、伝染病研究所が日本に必要であることを力説。福沢は、金銭的支援だけでなく、土地まで提供してくれた。

 

1892年に、伝染病研究所が芝公園にできると、2年後には規模を拡大して愛宕町に移転。さらに、福沢の援助で白金に結核専門病院「土筆ヶ岡療養所」も建設。

 

1894年、香港で黒死病(ペスト)が大流行。致死率9割、中世のパンデミックでは当時の世界人口の2割・1億人がなくなったとされるペスト。柴三郎は、日本政府の命を受けて、青山胤通(おあやまたねみち・帝国大学医科大学教授)と助手の石上亨とともに調査のために香港へ渡る。そして、遺体の解剖で内臓だけでなく血液の中にもペスト菌がいることを発見。とうとう黒死病の正体を発見したことを世界に発信。がその直後、青山と石上はペストの感染とみられる症状がでて意識不明に。日本で二人の感染をきいた福沢は、柴三郎まで感染して死んでは大変だと、内務省にはたらきかけて柴三郎を即刻帰国させようとする。が、柴三郎は、「感染経路を解き明かして、駆逐するまでは帰らない!」といって、実験を続けた。そして、ネズミなどが感染源となることを突き止め、大流行を終息させ、青山と石上は無事に回復し、柴三郎も帰国。

 

柴三郎は、その後も細菌学の発展に貢献。2004年の千円札の顔になった野口英世や、赤痢の病原体を発見した志賀潔も、柴三郎の後進。北島多一は、伝染病研究所時代からの巣葉三郎右腕、北里研をひきつぐ。

 

1908年には、コッホ夫妻が来日して再会。その二年後にコッホは亡くなる。柴三郎はコッホ神社をたてて、コッホを祀った。

 

1914年、第一次世界大戦がはじまると、柴三郎が学んだドイツは日本の敵国となる。コッホ神社は、住民から非難の対象となってしまう。

 

政府は、伝染病研究所を内務省から文部省の管轄に変更。それは、北里柴三郎追放の動きだった。

伝染病研究所の所長をやめて、あとは北島にまかせようとおもった柴三郎だったが、政府の動きに反発し、柴三郎を慕う多くのメンバーは、技官、守衛、事務員、用務員とみんなそろって柴三郎とともに伝染病研究所に辞表をだし、北里についていく。

 

そして、1914年、柴三郎は「北里研究所」を設立。現在の北里大学の母体。

 

1917年、柴三郎は、慶応義塾医学科の医学部長に無給で就任。それは、福沢への恩返しでもあった。

 

1928年、慶応技術医学部長を北島多一にゆずると引退。そのころ、弟子の野口英世がアフリカで黄熱病の研究中に感染して命をおとす。

 

1931年6月13日、脳溢血で死去。

 

2020年発生したコロナパンデミックでも、日本の死者数はアメリカが百万人を超えていることを思えば、1/10以下とすくない。インバウンドの観光客も日本の印象の一つに「清潔」をあげている。今の日本に根付いている衛生管理の思想は、柴三郎がもたらしたもの。

日本にいると当たり前な、手洗い、うがい、の習慣だけれど、それがいかに大事なことか。

 

予防が一番。それを日本に根付かせた柴三郎は、やっぱりすごい。異常なまでの執着心と、ストレートすぎる物言いは時に敵をつくることもあった。でも、後藤新平とはウマが合った。

声を大にして、大事なことを発信してくれる人がいたというのは、私たち日本人にとって幸運だった。

 

コロナパンデミック中、インフルエンザの感染者数も少なかったという事実は、手洗いうがいがいかに感染予防に効果的かということの証明でもある。マスクもいいけど、マスクをしているからうがいをしなくていいと思ってはいけない。

 

基本は、手洗い、うがい。

そして、免疫力を高めるために、十分な栄養と休養。

病気にならないことがなにより経済的だということ。予防第一。

 

海外旅行をしていると、お手洗いもすくなく、食事の前の手洗いの習慣もすくなく、習慣の違いを感じる。どこにいても、手洗いは大事!!自分の身は自分で守ろう!!